1938/06/29 23:15


石畳の冷たさに体が慣れてきた頃にようやく意識が落ち着いてきた。
だが泥沼に沈んでいるように身体中が気だるく、耳の奥では鐘が低く鳴り響いていた。
腹の中は大量の砂利を飲み込んだように重くて息をするのも億劫だったが
無理やり体を起こすと頭がクラクラとする。
まだ胃の不快感は残っていたが吐き出すものもなく、内臓全体が痙攣を起こすだけだった。
倒れそうになるのを壁に手を添え支え、昼の名残が抜けない生温い空気を肺に送り込む。
口内に残っていた血を吐き出すとようやく手足にはっきりとした感覚が戻ってきた。
ふいに、沈み往く太陽の残滓を思わせる黄金色の瞳が鮮やかに目の前に蘇える。
慌てて目を瞬くと、幻は夜の中を霧の如く消えていった。

「マルス、なんて無様な格好をしてるんだ」
凍えるような囁く声が俺の耳元を掠めたかと思うと、黒革のグローブに包まれた長い指が俺の
頬をなで下ろし、俯いている俺の顎先を摘み上げた。見上げた先にいたのは、月明かりよりも
白い透き通る肌と夜明けの海の色をした瞳。まるで、夜の深淵から現れた男。
「初めてのお手伝いにしては随分と頑張ったようだね」
真っ白な絹のハンカチを取り出し俺の顔に付いてる血や反吐を丁寧に拭き取りながら
まるで砂糖菓子のように、心をトロけさせてしまう程の笑顔を投げかけてくる。
「この様子だと、バッファローマンは始末出来たかな?」
しなやかな指先に俺の赤い髪を絡めて放すのを繰り返しながら優しい声が俺に聞いてくる。
その声に逆毛立つ。
背中を流れる冷たい汗を感じながら言葉を失い、ただ首を振ることしか出来なかった。
光を通すことの無い深海よりも青い瞳は何も言わない。
やがて俺の仕草の意味を認めたのか、形の良い薄い唇は小さな溜息をひとつ漏らした。
「元々悪行超人だったお前なら、彼の使う“幻覚”に騙されないと思ったんだが無理だったか」
気にする事もなさ気に言い放ちながらも、海の色をした瞳には燐火が浮かび始めていた。
蟲が這い回るように肌が粟立つ。本能が死の匂いを嗅ぎ付け、逃げろと俺の心を急く。
「不首尾に終わってしまったものは仕方ない。ところで、私の銃はどうした?」
「―――!」
慌てて辺りを見回したが見つかる筈などなかった。
月明かりを受け、鈍い光を銃身から零れ落としていたルガーは、ここには無い。
禍々しいまでの怒気を身に纏っていたバッファローマンの手に握られたままだった。
言うべき言葉をも失い、俺は呆然としたまま両手を見るしか出来なかった。
「君のピストレーロスの腕を見込んで貸したというのに、お使いはおろか大事な銃まで
 失くしてしまうとは…私とした事がどうも君を買い被っていたようだ」
深い溜息とともに燐火を揺らめかした青い瞳が俺を見つめる。
「出来の悪い子には、お仕置きが必要だな」
黒革のグローブの留め金を外すと、その右手は目も眩むような光に包まれた。
戒めを解き放たれた剣のように青白い炎が燃え上がり、空を焦がさんとするばかりだった。
夜の中で異形の獣と化した光の刃が、闇の中を嬉々として乱舞する。
「どうだねマルス、美しいだろう」
その輝きに満足そうな笑みを浮かべ、優雅な仕草で狂気の光を俺に向かって振り下ろした。
咄嗟に体を左に捻り、石畳の上に転がり逃げようとした。
だが、身体を大きく逸らしたハズなのに右頬に切り裂く痛みが走り、肉を焼く臭いが鼻を刺す。
「!!っ―――!」
痛みに声を上げる事も出来なかった。体が動くのを拒否し、丸めた背中では冷たい汗が
吹き出る。苦痛と恐怖に身体が小刻みに震えるのを抑えることが出来なかった。
「おいおい、下手に逃げたら綺麗に首を切り落とせないじゃないか」
磨き上げられたブーツの爪先が俺の身体を軽々と蹴り上げる。既に抵抗する体力も残って
いなかった俺は為されるがままを受け入れた。石壁に叩き付けられ、手足は宙をもがく事も
なく崩れ落ちる。喉は喘ぎ、気管は途切れがちな呼吸しか出来なくなっていた。
「あぁ…勿体無い。せっかくの顔を台無しにしてしまったなぁ」
口は困った風な事を言いながらグローブをしたままの左手では顔に掛かった髪を梳き上げ
血に濡れ、焼け爛れた俺の頬を鑑賞するように吐息が掛かるほど顔を寄せる。
「こんな事で無駄に死ぬのは嫌だろう?私だってカワイイ君を失いたくはない。
 マルス、まだ良い子になる気が残っているなら、私の銃を探して来れるかな?」 
声を出す力も奪われた身体全体を使って小刻みに震えながら同意を示すよう頷く。
「そう、イイ子だ。それでは今度はちゃんとお手伝いをやり遂げておくれ」
満足そうに細められた瞳は暗い輝きを増し、薄い唇がイビツな形に引き上げられた。

それがブロッケンマンの、本当の笑顔なのだと理解するのに大して時間は掛からなかった。


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