1938/07/06 22:00


死んだように静まり返った夜の街を、長い髪をなびかせた影が往く。
月に照らされた石畳は青白く、風の様に走る影は赤い髪をたなびかせていた。
目的の場所などは無かった。だが足を止めることは出来なかった。
少しでも立ち止まれば、死の匂いに囚われてしまいそうだった。

角を曲がる。
無意識に身体が強張るのを感じたが、走る速度を落とすことはしなかった。
角を曲がる。
逆毛がチリチリと騒ぎ、冷たい汗が背中を流れ落ちる。
角を曲がる。
間違いはない・・・本能が、あの男が近くに居ることを教えている。
角を曲がる。
そこには見覚えのある壁が目の前に広がっていた。

立ち止まり、月明かりに浮かぶ石畳を見据える。
そこは記憶と共に鼻の奥に甦る、硝煙と、血と、反吐の臭い―――
「性懲りもなく、また来たな」
夏の匂いが漂う路地裏で男は壁に背をもたれさせ立っていた。
まるで俺が来るのを待っていたかのように、その顔に笑みを浮かべていた。
見える筈もない冷たい手が心臓を掴み、脈打つ血は凍りつく。
「あんたこそ、俺が来るのを待ちわびてたんじゃないか?」
顔に垂れ落ちる髪をかきあげながら湧き上がる恐怖を必死に押さえ込む。
物音ひとつしない街に、心音さえも鳴り響いてしまいそうだった。
そんな俺の心を見透かしたのか、男の笑い顔に邪悪な影が落ちる。
「坊主、うそぶくならもう少し肝を据わらせてからにした方がいいな」
男は身を起こし、とてもゆっくりとした足取りで俺の前に歩み寄る。闇の中に浮かぶ黄金色の
瞳が陽炎のように揺らめき出した。一歩、また一歩と、石畳の上に靴音だけが響く。
闇の中で男の眼差しが妖しく煌めき、目を離すことが出来ない。縮められた距離の分だけ
燃え上がる瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
焼け死ぬのが判っていながら炎に飛び込む蝶もきっと、こんな気分なのだろうか?
足が凍り付いたように張り付き、動くことを拒否する。濃密な闇が熱を増し、チリチリと空気が
焼け落ち、灰になる。石畳に伸びる男の影が俺の足元に重なり合った。
顎を上げて、俺を見下ろす視線を見つめ、絡める。

「その傷はどうした?」
右頬に残る痕を男の視線がなぞり上げていく。
「あんたに関係のないことだろ、それより銃を返してくれ」
身じろぎひとつする事なく、目の前に立つ男を見上げる。
煌々とした月明かりを浴びた角が、より一層その禍々しさを際立たせていた。
「それは聞けないお願いだな。第一、あのオモチャはお前さんの物じゃないだろう」
刹那、外される事のない黄金色の瞳の奥に憎悪の炎が揺らめき立ったかと思うと
隠されていた殺意の波が、一気に鎌首を上げて襲い掛かってきた。
「聞いたぞ。あの銃の本当の持ち主の名前をなぁ」
逃れるはずもない距離を一気に縮めると、男の大きな手は俺の胸倉を掴み軽々と持ち上げ
まるで人形を振り回すかのように、俺の身体を激しく壁に打ち付けた。
背中から撃ち抜ける激しい衝撃に息がつまり、肺の中に呼吸が渦を巻く。
ゴツゴツとした石壁が背骨を擦り、シャツ越しに皮が捲れていく。
「俺達はな、好きで戦ってるんじゃない。トチ狂った奴らが始めたドンパチだったのを
 イタ公やキャベツ野郎どもが寄って集って大騒ぎに変えちまったんだよ、判るか?」
噛み付かんばかりに寄せられた顔は暗い影を縁取られ、瞳は怒りに満ちている。
「貴様らにくれてやるモノなど、何ひとつねぇんだ!」
胸倉を捻じり上げていた手が、酸素を求めて伸ばした俺の首を捕らえた。
「―――お前らは、この国を喰らう獣だ」
喉元に食い込む指の1本1本が皮膚を突き破り、肉からは血が滲み出、流れ落ちる。
気道は呼吸する余裕がない程に押し狭められ、頚椎は悲鳴を上げる。
「苦しいか?苦しいだろうなぁ。でもな、死んでいった奴らは、もっと苦しかったんだ」
そう言うと月に照らされた鋭い牙を、剥き出しになった俺の首筋に、深く、突き刺した。
身体中の神経が悲鳴を上げ、声無き声で泣き叫んだ。痛みに身体から心が引き離されそうに
なるのを必死で引き継ぐ。脈打う鼓動のひと打ち毎に、啜り上げられるのは、俺の血。
男の喉が飲み下す、俺の命。反り返る首筋に立てられた牙を血で赤く染め、男は飽きる事なく
喰らい続ける。俺はただ、甘美に満ちた痛みに成す術もなく身を震わせているしかなかった。
「決して忘れるな…お前は、俺のモノだ」
月明かりの下で影がひとつに交わらせたまま、耳に触れる声に心が囚われた。


戻る
戻る