|
呼び出しに心当たりはなかった。
この間の筆記試験の出来だろうか、それとも装備点検で何か不備が見つかったのだろうか?
ともかく指定された時刻に遅れる訳にはいかず、訓練終了を聞くと急いでグランドを駆けた。
ブーツの泥を落とすのもそこそこに、この屋敷の当主の部屋の前に辿り着くと深呼吸をして
緊張をいくらか解すと、控えめにノックをした。
「失礼します、お呼びという事で只今参りました」
オークの扉を閉じながら正面のデスクに向かって声を掛けた。
「早かったなジェイド。そこの椅子に座りたまえ」
書き付けていたペンを止め、書類から顔を上げたブロッケンマンはソファーを指差した。
だがその言葉に素直に従えない。シャワーも浴びずに飛んできた、汚れ放題の姿だ。
「構わんよ、楽にしなさい」
そう言われてようやく腰を下ろすも、上質な革を傷めないように浅く座ることにした。
ジェイドが腰を下ろすのを見届けるとブロッケンマンは再び書類に目を落とした。
背筋を伸ばし、次に掛けられる言葉をただじっと待つのも辛かったが、そもそもの呼び出しの
理由が判らないだけに内心の動揺が現れないよう座り続けるのにはかなりの努力を要した。
だが呼び出した当の本人はジェイドの存在を忘れたかと思うほど手元の書類に没頭し続け
ようやくペンから手を離す頃には、訓練で汗をかいていた体はすっかり冷え切っていた。
「最近は戦闘超人にまで事務方の仕事をさせるのだからコーヒーを飲む時間も無くて困る」
書き付けた書類をクリップでまとめながらジェイドにチラリと視線を与えた。
それは愚痴に違いないが、ブロッケンマンが自分如きに気軽に言うはずはないし、ましてや
正しい返し言葉がすぐに出て来る訳もなく、ただ座ったままジッとしていた。
「ポットにまだ温かいコーヒーが残っているハズだ」
幾つかのファイルと共に書類を引き出しの中に放り込むと、ようやく顔をデスクから上げて
グローブを填めた指先で部屋の隅のテーブルを指し示した。
その仕草にジェイドは先程のブロッケンマンの言わんとしてることに気付き、急いで立ち上がり
ぬるくなりかけたコーヒーをカップに注いで、彼の前に差し出した。
湯気も立っていない代物ではあったがブロッケンマンはそれでも一口飲み込んだ。
「後で新しいコーヒーを持ってくるように、厨房に連絡しておいてくれ」
眉根に皺を寄せながら直立不動で立っているジェイドにそう言うと、ソファーを指差した。
改めて腰を下ろし、ブロッケンマンの次の言葉を待った。
「さて、ジェイド…ここでの生活に不都合は無いかね」
「いいえ。何の問題はありません」
想像していた、どんな言葉にも掠りもしないひと言に一瞬、戸惑いはしたが直ぐに返事をした。
「訓練は厳しいかな、正直に言いたまえ」
「あの、失礼を承知でお聞きします。答えによっては僕の処分が決定するという事でしょうか」
恐る恐る、聞く。この5ヶ月の間、他の訓練生達に比べ基礎の無い分を補うためにも
自分なりに努力はしてきたつもりだったし、最近は訓練に対して楽しみを見出し始めた位だ。
戦闘超人としての見込みがなければ切り捨てられるのは重々覚悟はしている。
だが現状で不適合者になっているとは到底思えないのだ。
口を一文字に結び、少し顔を青ざめながら身動きせずにブロッケンマンがどのような審判を
下すのかジッと待った。
「ジェイド―――君は私が思っているより自惚れが強いようだ」
コーヒーカップを置いて両肘をデスクに付きながら、顔の前で長い指を組んだ。
「はっきり言っておくが、君の成長などに一切期待などしていない。私は指導する側であるJr.が
素人を如何に育てる事が出来たのか知りたいだけだ」
組んだ指の隙間から、冷たい眼差しがまばたきもせずジェイドを見据える。
「私が関心を持っているのはJr.だけだし、君はJr.が行っている実験の為のモルモットだ。
もっとも君の頑張りによっては今後の進路も変わるかもしれないが立場は理解しておけ」
感情の起伏を感じさせない声で、視線を反らしもせずにジェイドに言い放つ。
見据える瞳からはJr.のような温かさは伝わる訳もなく、闇のような冷たさしか感じられない。
「それでは本題に戻ろう。訓練についていけてるかね?」
ブロッケンマンの視線から逃げる事も出来ず体は金縛りにかかった様に動かせもしなかった。
「は、はい。大変ではありますが室内修練、野外訓練ともに問題ありません」
「学科の習得科目の勉強は、はかどっているかね」
「数学が多少難しいですが追試を受けた学科はありません」
「なるほど、それは大いに結構。」
受け答えの間、一度もまばたきしなかった瞳が僅かに細められる。どうやらブロッケンマンは
いまの質疑に取りあえず満足できる結果を汲み取ったようだ。
「よろしい、聞きたかった事は以上だ。それでは部屋に戻り着替えたまえ」
組んでいた指をほどくとオークの扉を指差し、その手は出ていくように指示していた。
「はい―――失礼しました」
ソファーから立ち上がりぎこちない歩き方で部屋を出て、ゆっくりと扉を閉じた。
廊下でようやく一息つくと、この季節に似つかわしくない寒気がジェイドの全身を襲った。
背筋を這い上がり、産毛の一本までも総毛羽立つ程の強烈な感覚は、ジェイドの唇を震わし
立っている自由さえも奪い取り、崩れるようにその場に座り込むしかなかった。
体感では感じるハズのない寒さが心を入り込み、制御の利かない凍えに歯を咬み鳴らす。
自分を見る青い瞳の奥に見え隠れしていた狂気の毒気が、今になって襲ってきていたのだ。
振るえる両手で己の肩を抱きながら、“プロイセンの鬼”が何故支配者たるのかを知った。
|