「ちょっくら、お前と手合わせしてーと思ってよ」
「――――ほう」
ビクトールの一言で、フリックはガラリと発する気配を変えた。戦場のまっただ中に居るときのように、張りつめた冷たい気配へと。
「――――どうやらお前は俺の手に掛かって死にたいらしいな――――」
「違う違うっ! そうじゃねーっ!」
本気で自分を斬り殺しそうな凄まじい殺気を迸らせるフリックに、ビクトールは慌てて首を振りかえした。そして、訂正の言葉を口にする。
「そっちの手合わせじゃねーっ! ベッドの中での手合わせだよっ!」
「――――はぁ? ………何を言ってんだか…………」
必死なビクトールの態度と言葉に、フリックは殺気を引っ込めてこれ以上無いくらい呆れの色を含ませた声で呟いた。
そして、胸の前で腕を組み、心の底から馬鹿にするような眼差しを向けてくる。
「昼間ッから、何言ってやがんだ。頭沸いてるじゃないのか? たまには身体以外に頭も動かせ。まぁ、身体もろくに動かしてないから、そんなにデブになるんだろうがな」
「俺は太ってねーって言ってんだろうがっ!!」
思わず速攻突っ込んだビクトールの言葉は黙殺することにしたらしい。
フリックは小さく息を吐くと、プラリと手を振った。ビクトールをこの場から追い出そうとするように。
「とにかく、お前と違って俺は忙しいんだよ。独り寝が寂しいなら娼館にでも行ってこい。金がないなら適当に引っかけて来い。引っかけられるモノならな。まぁ、この城には物好きが多いみたいだから、下手な鉄砲も数を撃てば当たるだろ。頑張ってこい」
「あのなぁ…………何度も言ってんだろ。俺は、お前以外の人間を抱く気はねーんだよ」
「だったら、自分の右手と仲良くしておくんだな。妄想の中でだったら、付き合ってやる」
馬鹿にするように鼻で笑ったフリックは、これ以上話をするつもりは無いと言わんばかりにを向けた。そして、本棚にびっちりと並ぶ分厚い本の背表紙を眺め、一冊抜き出してパラパラと捲っては棚に戻す、本を手にとって捲っては戻す、と言う行動を繰り返し始めた。
ビクトールにはそこに並んでいる本がどういう種類のモノなのか、判別が付けられない。小説の類では無いだろうなと、その程度の事が分かるだけだ。自分が一生読まない類の本だろうとも、分かるが。
趣味のために本を読みに来たわけではなく、フリックは今現在、勉強のまっただ中なのだろう。彼は剣の扱い方だけではなく、兵法から紋章学。政治や歴史に関しても深い知識と興味を持つ男だから、ほんの少し暇が出来たらいつも何かしらの本を読んでいる。今日のように丸一日なんの仕事も入っていない日は、勉強するのに打って付けの日なのだろう。邪魔をしたら確実に怒られる。ここは夜まで待った方が良いだろう。
だが、夜まで待った所でチャンスがあるとは言い切れない。下手をすれば夜通しで本を読みかねないし、部屋に戻ったとしても自分が起きている間に戻ってくるとは限らないので。
帰ってくる時間が遅くなれば成る程、部屋に戻ってきた後で自分の相手はしてくれる確率は落ちていく。日付が変わる位の時間に帰ってきたならば、けんもほろろに部屋から追い出されること間違いなしだ。
ならば、どうしたら良いだろうか。
ビクトールは深く考え込んだ。
そして、ハッと大きく目を見開く。
この手なら、いけると。
直ぐさま部屋を飛び出した。フリックに一声かける事もせず。そして、猛スピードで酒場に駆け込み、アルコール度の低い酒を一本買い、酒場を飛び出した。
人目を避けた所で封を開けたビクトールは、その中にホウアンから貰った薬を流し込んだ。
「コレを、アイツの飲ませれば…………」
不敵な笑みを浮かべながらコルクを締めたビクトールは、意気揚々と先程出てきたばかりの部屋に戻った。
どうやら読みたい本を見つけられたらしい。フリックは窓際に置かれたイスに腰掛け、表情なく紙面を見つめてページを捲っていた。
そんな彼に歩み寄り、彼が座したイスの前にあるテーブルの上にドンと、大きな音をたてて酒瓶を置いた。
「差し入れだッ、飲めっ!」
その言葉に、フリックはチラリと青い双眸を上げてきた。そして、深々と息を吐く。
「――――こういう時の差し入れは、お茶だろうが」
言われてから、そう言えばそうかと気がついた。でも、受け取った薬をこの中に入れてしまったので、コレを飲んで貰わないとまずい。今更茶に変更することは出来ないのだ。
ビクトールは、内心の動揺を押し隠してにこやかに笑いかけた。
「まあ、良いじゃねーか。これくらいの酒、水と同じだろ?」
とは言って見たモノの、正直フリックがどれだけ酒に強いのか、分からない。向こうはこっちの限界値を知っているようなのに、自分には教えてくれないのだ。
とはいえ、酔った姿を見たことは無いのでそう言ってみた。
その言葉に、フリックは僅かに眉間に皺を寄せた。そして、もう一度息を吐き出す。
「――――分かったよ。飲めば良いんだろ、飲めば。飲んだらさっさと出て行けよ。邪魔だから」
かなり投げやりな態度で、そしてかなり失礼な言葉を吐いてきたフリックは、ビクトールが言い返す前に目の前に置かれた酒瓶に手を伸ばしてきた。
そして、一気に中身を体内に流し込んでいく。ラッパ飲みで。
まさかそんな飲み方をするとは思っていなかったので驚きに目を見張ったビクトールは、確実に減っていく瓶の中身の動きをただただ、呆然と見つめ続けた。
一度も瓶を下げることなく中身を一気に飲み干したフリックは、空になった空き瓶を呆然と見つめるビクトールの手の中に突きつけてくる。
それを条件反射で受け取ると、フリックは婉然と笑いかけてきた。
「気の利いた差し入れ、ありがとう」
「い……………いや………………」
表情とは裏腹に、笑みなど欠片も無い冷たい声音にたじろぎながら言葉を返したビクトールに、フリックはさっさと消えろと言いたげに右手を振り、開いたまま置いておいた本へと、視線を落としてしまった。
そんなフリックの姿に、おかしいところはない。一気にワインを飲んだと言うことは、薬も全部飲み干したと言うことなのだが。酔っぱらうどころか、薬の影響らしきものも欠片もない。
アレは、失敗に終わったと言うことだろうか。
「俺の苦労はいったい……………」
ホウアンめ。後で見ていろ。
そんな事を考えながら踵を返し、ドアノブに手をかけようとしたビクトールは、背後からかけられた声に動きを止めた。
「ホウアンに伝えておけ」
唐突に告げられた名に、ビクリと身体を振るわせ、勢いよく振り返る。
そんなビクトールに視線一つ向けずに、言葉を続けてきた。
「こんな下らない真似を二度とするなとな」
それだけ告げれば十分だと思ったらしい。フリックは口を閉ざしてしまった。そんなフリックの顔を、呆然と見つめた。
いったいどこから気付いていたのだろうか。酒の中に妙な薬が入っていることに。
ホウアンが作った妖しげな薬が入っている事に気付いていながら、アレを飲んだと言うことなのだろうか。それとも、飲んだ時に気付いたのだろうか。気付きながらも全部飲み干したと言うことなのだろうか。それとも、飲んで、今現在何か不調を感じたから、そんな事を言ってきたのだろうか。
なら、薬の効力は。パッと見た感じではなんの変化も無さそうだが、実は何かあるのだろうか。
彼は我慢の天才だから、それは大いにあり得る。
穴が開くほどフリックの顔を見つめる。
だが、薬の影響など欠片も見あたらない。
ビクトールは、深々と息を吐き出した。そして、頷く。
「――――分かった。伝えておくぜ」
力無い言葉に、フリックが笑みを零した気がしたが、そんな事はどうでも良かった。
自分の相棒の計り知れなさを改めて実感したことで、頭の中がイッパイイッパイだったので。
「でも、そんなお前も、丸ごと好きだぜ――――」
そんな風に思ってしまうところが、『恋は盲目』と言うことなのだろうか。
そんなどうでも良いことを考えながら、ビクトールは図書館を後にしたのだった。
《完》