ボルスが風邪を引いた日
「ゴホゴホッ!」
「どうした、ボルス。風邪か?」
「ええ。そうみたいです。」
咳をするボルスに、傍らに立っていたレオが声をかけてくる。
その彼に軽い頷きを返す間にも、咳が止むことは無く、徐々にレオの顔が曇っていった。
「おい。大丈夫か。辛いようなら、今日はもう戻っても構わんぞ。」
「いえ、大丈夫です・・・・。」
そう答えてみたものの、咳は一向に止まる様子を見せない。
大きくため息を吐いたレオは、どこか怒ったような顔でボルスを睨み付けてきた。
「良いから、お前はもう戻れ。そんな様子で隣にいられたら、こっちが風邪を引きそうだ。」
その言葉と見つめる瞳には強制力があった。
確かに、無理をすれば今日の職務をこなすことが出来るだろう。だが、明日の朝までに体調を戻せる見込みがあるのかと言われれば、頷くことが出来ない。
ここは、素直に彼の言葉にしたがって置いた方が得策なのだろう。
「・・・・分かりました。申し訳ありませんが、後のことはよろしくお願いします。」
「うむ。しっかり養生しろよ。」
頷き返すレオに軽く頭を下げ、ボルスは部屋へと戻っていった。
咳は止む気配を見せない。歩いている内になにやら視界がボンヤリしてきた気もする。熱もあると言うことだろうか。
部屋に帰る前に医務室に行くべきだったかと思ったが、既にエレベーターは二階へと着いていた。今更もう一度下に降り、長い廊下を歩いていくよりは、さっさと部屋に帰ってベットで休んだ方が得策だろう。
そう思い直し、ボルスは重い身体を引きずるように部屋のドアを目指していった。
「おや。随分早かったんですね。」
どこか馬鹿にするような響きを持つ声に開けたドアの中へと視線を向けると、そこにはイスに腰掛け、本を開いているパーシヴァルの姿があった。
「・・・・お前、今日は休みだったのか?」
「ああ。珍しくなんの予定も入っていなかったから、ゆっくり本を読めると思っていたんだが・・・・。思わぬ邪魔が入ったな。」
「・・・・・悪かったな。邪魔者で。」
いつものように怒鳴り返す気力もなく、ボルスはため息を吐きながらそう返した。
その様子に眉を顰めたパーシヴァルは、持っていた本を机の上に置き、流れるような動作で近づいてきた。
熱に冒された頭でも、彼の事を綺麗だと思ってしまう自分をボンヤリと自覚していると、不意に冷たいモノが額に当てられた。
何事だと慌てて意識を引き戻すと、そこにはパーシヴァルの手の平が当てられている。
「・・・・熱があるみたいだな。風邪か?」
「ああ、どうやらそう・・・・・っ。」
答えようと思った矢先に、また咳が出てきた。
間断なく続く咳に、眦から生理的な涙がこぼれ落ちてくる。
「そうか。なら、さっさと鎧を取って寝ろ。体力馬鹿のお前のことだ。一日寝れば、すぐ治るだろう。」
その言葉に、なんとなく優しい空気を感じないでもないが、言葉尻は冷たくキツイ。病気の時くらいもう少し優しくしてくれても良いのではないだろうか。
そんな非難を込めて睨み付けると、彼はニヤリと意地の悪い笑みを返してきた。
「なんだ。脱がせて欲しいのか?」
「・・・・・そんなこと、必要ない。」
その態度に反発するように、思わずそう言ってしまった。
どうしてこう、自分は強がりを言ってしまうのだろうか。後悔したが、もう遅い。ならさっさと脱げと言わんばかりに見つめてくるパーシヴァルの視線を感じながら、ボルスは武装を解いていった。
普段から体温が高いせいで熱というモノをあまり意識したことは無いのだが、今日はかなり高いと思う。留め金を外す指先に力が入らないのだ。だが、ここでパーシヴァルに助けを求めるのも癪に障る。
普段の倍近い時間をかけながらも意地で武装を解いたボルスには、床に転がした鎧を片づける気力など残っていなかった。
自分の物は自分で片づけないと、後でパーシヴァルに叱られると思いながらも、ボルスはフラフラとベットへと近づいていく。
その背に、冷たいとも感じる同僚の声がかけられた。
「ボルス。」
「・・・・・なんだ?」
やはり片づけをしろと言われるのだろうか。
ずっしりと重くなった感じのする頭を無理に動かして振り返ると、顔に何かを投げつけられた。
「その格好で寝るな。寝間着に着替えろ。」
「・・・・・分かったよ。」
一々細かい男だと内心で毒づきながらも、ボルスはノロノロと着替え始めた。
着替えがこんなにも大変なものだと知らなかったと思うくらい時間をかけ、ボルスはようやくベットの伏せることが出来た。
疲れ果てて目を閉じていれば、頭上からいつもと変わりのない冷静な声がかけられた。
「医務室には行ったのか?」
「・・・・・そんな元気は、無かった・・・・・。」
「そうか。」
あっさりした返事の後、額に先ほどと同じ冷たいものが当てられる。
今度は、ビックリしたりはしなかった。それが何であるのか、もう分かっていたから。その冷たいけれど温かいものへと意識を向けると、少し心が軽くなった気がしてきた。
「・・・・気持ちいいな。お前の手は。」
「そうか?」
「ああ・・・・。冷たくて、気持ちいい。」
その呟きに、パーシヴァルが小さく笑った気配を感じた。
なんだろうかと薄く瞳を開けると、思いがけない位優しく微笑むパーシヴァルの顔がそこにあった。
驚きのために何かを発しようとするボルスの言葉を遮るように、彼はいつもと変わらない、少し冷たく感じる声音で語りかけてきた。
「良いから、お前はもう寝ろ。今日は、ゆっくり休めよ。」
そう言って、冷たい手の平で目蓋を覆われた。
「・・・・ああ。」
その簡易的な暗闇に誘われるように、ボルスの意識は止みの底へと落ちていった。
ボルスが眠りに付いたことは、その寝息が変わった事で気が付いた。
とは言え、それはいつもと違って穏やかなものでは無かったが。
「・・・・・どうやら、馬鹿じゃなかったらしいな。」
ボルスが元気な時に聞こうものなら烈火の如く怒り狂うだろう言葉を吐き出したパーシヴァルは、小さく笑みながら彼の目蓋を覆っていた手の平を動かす。
額に浮かんだ汗に濡れた、金色の髪を払うために。触れた身体は、いつも以上に体温が高い。常から子供のように体温の高いボルスではあるが、今はそれ以上なのだ。
ボルスに触れていたせいで、いつも冷えている右手に熱が灯っている。その右手を彼の額から退かし、今度は左手を彼の首筋へと這わせた。
冷たさに一瞬身体をビクつかせたボルスだったが、その冷たさが心地良かったのか、すぐにすり寄るように顔を動かしてきた。
そんな仕草に苦笑が零れる。普段だったらこんな、自分に甘えるような行為はしないだろうに。例えしたいと思っていても、彼は絶対に口にしないだろうから。
「したいとは、思っていないか。」
どちらかというと、『して貰いたい』と思っているに違いない。
「それは、無理な注文だがな。」
クスクスと笑いを零したパーシヴァルは、左手に常にない体温が宿り始めたのを機会に腕をボルスの身体から引き離した。
取り去られる体温に不服そうな顔をするボルスの額に浮かぶ汗を、再度指先で拭ったパーシヴァルは、どこか苦しげに眉を顰めて眠る同僚に声をかける。
「クスリくらい、持ってきてやるよ。俺は、優しい男だからな。」
そういうと、おもむろに部屋から足を踏み出した。
目指すのは、医務室。まだ若いが、誠実さに溢れた印象を持つ医師の居る部屋。往診に出ていなかったら、大抵彼はそこにいるのだ。解熱剤を適当に貰えば、体力の有り余ったボルスのこと。明日の朝にはけろっとしているに違いない。ついでに、ボルスのためと偽って自分用に何かクスリを貰ってこよう。
そう考えながら、パーシヴァルは医務室の扉を叩く。
返事が返り中に入ると、そこには医師であるトウタの姿しかなかった。看護婦のミオは、出かけているようだ。
「どうしました。あなたが来るなんて、珍しいですね。怪我でもしましたか?」
部屋に入ってきたパーシヴァルの姿を見たトウタは、驚いた顔でそう言葉をかけてきた。
無理もない。余程大きな怪我をして、周りの者に怪我をしたことがばれている時以外、パーシヴァルはこの部屋を尋ねることはしない。この部屋を訪ねると言うことは、自分に何か弱っている部分があると周りに公表しているようで、イヤなのだ。
それはブラス城に居るときから変わらない習性なので、トウタに対して何か含みがあるわけではないのだが。
「いいえ。私は健康そのものですよ。ただ、ボルス卿が風邪を引いたようで、熱を出して寝込んでしまったのです。」
「ボルスさんが?」
「ええ。」
大した事では無いと言うように軽い調子で頷いたのだが、トウタは心配げに顔を歪めている。
「体力のある人なので、一日寝れば明日の朝には熱も下がるとは思うのですが、一応クスリを飲ませておこうかと思いまして。頂きに参りました。」
「分かりました。今準備しますので、少し待っていて下さい。」
パーシヴァルの言葉に軽く頷いたトウタは、少し慌てた様子で裏に引っ込んで行った。
いつもミオがやっている事なのか、なにやら迷っている様な空気を醸し出していることに多少不安が沸いてくる。腕は良いと聞いているのだが、人柄のせいなのか、いまいち信用できないところがあるのだ。彼には。
しばらくすると、格闘の音が聞こえなくなった。やっとクスリが出来たのかとホッと息を吐き出したパーシヴァルの目に飛び込んできたのは、往診用らしい黒い大きめの鞄を手に持ったトウタの姿だった。
「お待たせ致しました。行きましょうか。」
「行くって・・・・。どこにですか?」
「決まっています。ボルスさんのところです。」
自信満々と言った感じで頷くトウタの様子に、彼の本気が伺えた。
だが、別に彼が来るほどの事もないのだ。
「いえ、クスリを頂ければ、それで良いですよ。私が責任を持って飲ませますから。」
「いいえ。そうはいきません。患者さんの様子はこの目で見てからお薬を処方する。それは、先生から習った事ですから。」
ニッコリと笑うその顔には、揺るぎない決意を感じられる。
どうやら、何を言っても無駄らしい。別に自分が診察されるわけでもないから、目くじら立てて断ることもない。貰おうと思っていたクスリが手に入らなかった事は残念だが、まあ良いだろう。何かあったときは、バーツに頼めば済むことだ。
「分かりました。では、申し訳無いのですが、お願い致します。」
「そんな。良いんですよ。これが私の仕事ですから。」
軽く頭を下げるパーシヴァルに、トウタは慌てたように制止してくる。
「それより、早く行きましょう。病人が待っていますから。」
トウタの言葉に促され、パーシヴァルは自室へと戻っていった。
部屋に戻り、ベットの中を覗き込んでみると、ボルスは目を覚ました様子もなく相変わらず苦しそうな寝息を立てている。
「・・・・寝ていらっしゃる様ですね・・・・・。」
「そうですね。寝ていると、診察出来ませんか?」
困ったようなトウタの言葉に問い返すと、彼は小さく頷きを返した後、慌てたように首をふり直してきた。
「いいえ。多少やりづらい所や、旨く診察出来ない事はあるのですが、出来ないと言うことは無いんです。ただ、診察したことによって目を覚ますことになったら、申し訳無いかと・・・・・。」
「そんなこと、気になさらなくても良いですよ。起きたなら起きたで、診察することに協力させれば良いだけですから。」
「・・・・・・・そうでしょうか。」
「そうですよ。」
ニコリと笑い返してやると、彼は納得行かないと言った様子ながらも小さく頷きを返して来た。
「わかりました。では、診察しましょう。」
そう言いながら、トウタは黒いバックの中から聴診器を取り出し己の首にかけ、パーシヴァルが出してきたイスを受け取り、そこに腰をかける。
そして、ボルスへと向き直って、しばし考え込むように固まっていた。
「どうしました?」
傍らに立ったままそうトウタに問いかけると、彼は困ったようにパーシヴァルの顔を見上げてくる。
「・・・・毛布、矧いだら起きてしまいますよね。」
「ああ、そんなこと気にしなくても大丈夫ですよ。ボルス卿は、結構鈍いですから。それくらいでは、目を覚ましませんよ。」
「しかし・・・・・。」
それでもまだ行動しかねるトウタの様子に、パーシヴァルは軽い苛立ちを感じた。
優柔不断な態度は好きではない。
ここまで来てそんなことでごねるくらいなら、最初からクスリだけをくれれば良かったのに。そう内心で毒づきながらも、ニコリといつもと変わらぬ笑みをその整った面に浮かべ、ボルスの毛布の端に手を向けた。
「大丈夫ですよ。ホラ。」
そう言いながら、一気にボルスの上の毛布を剥いだ。
突然無くなった温もりに、ボルスは不服そうに眉を顰めて身体を丸めていたが、パーシヴァルはそんなことに目もくれず、笑んだままの顔をトウタへと向け続けていた。
「それで。次はどうしますか?」
「あ・・・・はい。肺の内部の音を聞きたいので、胸を開いて頂ければ・・・・。」
「分かりました。」
ニコニコと笑いながら、パーシヴァルはベットの端に腰掛けて眠るボルスの身体に手をかけた。力無く弛緩した身体を抱き起こしたパーシヴァルは、トウタの指示に従ってボルスの寝間着の前を何のためらいも無く開いて見せる。
「どうぞ。」
「あ、はい・・・・。ありがとうございます。」
思わずと言った感じで礼を言いながら、トウタは聴診器をボルスの胸に当てていく。
数カ所、聴診器で何かを探っていたトウタはおもむろに顔を上げ、パーシヴァルに次の要求を口にした。
「では、今度は背中をお願いします。」
「はい。」
頷き返したパーシヴァルは、自分の胸にボルスの背中を寄りかからせるようにしていた身体を抱き直す。
ボルスの胸と、自分の胸が重なるような体勢へと。彼の頭を自分の肩に乗せながら、動きにくい体勢でなんとかボルスの背中を露出させる。その隙間を縫うように、トウタが背中に聴診器を当てだした。
その後、もう一度ボルスの身体をヒックリ返し、軽く喉を開けさせた。
口内をジッと覗き込んでいたトウタは、次にボルスの首筋を探る。
「もう良いですよ。患者さんを寝かせて下さい。」
聴診器をはずしながらそう言うトウタの言葉に従い、パーシヴァルはボルスの身体をベットの中に寝かせ直した。
毛布も肩までかけてやってからトウタの方へと向き直ると、トウタはニコリと笑みを返してくる。
「体温は高いですが、肺に雑音は感じないので、そう大した事は無いでしょう。おいしい物を食べてゆっくり休めば、すぐに良くなりますよ。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「クスリは医務室に戻ってから処方して、後で届けさせますから、しばらく待っていて下さい。取り合えず、今はこれをお渡ししておきます。」
そういってトウタが懐から取り出したのは、程度の低い解熱剤。
ちゃんとしたクスリがくるまでの気休め程度のモノだ。
「ありがとうございます。飲ませておきますよ。」
「お願いします。では、私はこれで。」
「ご苦労様です。」
部屋から出て行くトウタの姿を見送ったパーシヴァルは、ドアが閉まったことを見届けてからベットの上に眠る男へと視線を向けた。
あれだけ動かされたのに少しも目を覚ます気配が無い。慣れない病気に、余程参っていると見える。この状態でクスリを飲むことは、絶対に無理だろう。
「・・・・・仕方ないな・・・・・。」
ぼそりと呟いたパーシヴァルは、トウタに貰ったクスリを一錠取り出すとグラスに水を注ぎ、それを手にボルスの元へと歩み寄る。
「まったく。健康な時も病気の時も、俺に迷惑をかけずには居られないらしいな。お前は。」
ブツブツと文句を零しながらクスリをボルスの口内へと放り込む。
そして、眠るボルスの首裏にグラスを持っている手と逆の手を差し込み、力無い頭を僅かに持ち上げた。グラスの中の水を己の口に含んだパーシヴァルは、それを飲み込まずにボルスの口へと移していく。
ゆっくりと流し込んだソレを、ボルスは咳き込むことなく嚥下していく。
その様子にホッと胸を撫で下ろしながらも、何となく自嘲の笑みが沸いてくる。
「・・・・こんな事ばっかり、旨くなってもな・・・・・。」
そう呟きながらも、パーシヴァルはボルスにもう一口水を飲ませた。
熱で体内の水分が蒸発している今、水を多めに取っておいて悪いことはない。
クスリが効いたのか、それとも水を飲んだ事が良かったのか。心なしかボルスの呼吸が楽になっている気がするのは、気のせいだろうか。
「・・・・ほんと、迷惑な男だ。」
ククッと喉の奥で笑いながら、そっと額を撫でてやる。
五月蠅く文句を言わない分、病気の時の方が扱い易いかも知れないと、心の中で呟きながら。
目を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。
「・・・・朝か?」
なんとなくボンヤリする頭を軽く振りながら、ボルスは身体を起こす。隣には、いつものように同僚の体温を感じない。また自分に声もかけずに出勤したのだろう。そう言う態度に腹が立つ。
いや、腹が立つというか、寂しくなる。自分のことなど何とも思っていないと、言葉に出さずに全身で語って居るようで。
「・・・・冷たい男だ。」
「それは、随分な言い草だな。」
どこか笑いを含んだような声に慌てて視線を向けると、窓際に意地の悪い笑みを浮かべたパーシヴァルの姿があった。
いつもボルスが目覚めた時にはしっかりと鎧を着込んでいる彼が、今日は珍しくラフな格好をしている。
「・・・今日、休みだったか?」
「いや。」
「じゃあ、なんで武装してないんだ?」
あっさりと否定するパーシヴァルの言葉に首を捻っていると、彼はニッコリと笑いながら優雅な仕草で近づいてくる。
彼の外見しか見ていないご婦人方なら、その姿に顔を真っ赤に染め上げ、うっとりと見つめている所だろうが、ボルスは違った。
笑顔の奥の、何か企んでいる様な空気を察することが出来るようになった、今のボルスは。
「・・・・なんだ。何が言いたいんだ。」
「何を警戒して居るんだ。」
そう言いながら、パーシヴァルはゆっくりとボルスの額に手の平をあててきた。
その冷たさに一瞬身体をすくませたが、なんとなく悪い気はしない。
「・・・・熱は、下がったみたいだな。咳は?」
言われて気が付いた。そういえば、昨日まで止まらなかった咳が、目覚めてから一度も出ていない。
「・・・・何ともないな。」
「そうか。・・・・噂通り、腕は確からしいな。あの医師は。」
彼の呟きに問いかけるように視線を向けると、苦笑を浮かべた彼に額を軽く殴られた。
「昨日、自分が熱を出してベットに伏せっていた事を忘れたのか?常備薬も無かったんで、俺がわざわざ医者を呼びに行ってやったんだぞ。」
「そ、そうなのか?・・・・すまん。」
「悪いと思っているのなら、今後風邪なんか引くな。お前が寝込むたびに看病させられたんじゃ、たまったものじゃない。」
「看病・・・・してくれてたのか?」
その言葉に、なにやら目の前が明るくなってきた。愛されていないと思っていたが、実は結構愛されていたのかも知れない。例えソレが自分と違った愛の意味であっても、ボルスには十分なのだ。彼の気持ちが少しでも自分に向いているのならば。
期待に満ちた笑顔でパーシヴァルの顔を見つめると、彼は嘲笑とも言うべき笑みをその端正な顔に描いてくる。
「これ以上俺の部屋に病原菌をまき散らして欲しく無かったからな。それ以上の意味など無い。」
「・・・・・そ、そうか・・・・・・。」
分かっていたことだが、見事な撃沈に肩が下がると言う物だ。
ガックリと肩を下ろすボルスの様子が面白かったのか、パーシヴァルがクスクスと笑みを零してくる。
「それに俺は、優しい男だからな。」
「優しい?どこがだ。」
ムッと頬を膨らませながらそういうと、パーシヴァルはその端正な顔をボルスの目の前に近づけてきた。
唇が、ふれ合うくらい近くに。
「・・・・・な・・・・・。」
ニコリと笑むその顔の意味が、自分を馬鹿にする物だと分かっているのに、顔が赤らむことを止められない。
文句を言おうと開いた口からも、言葉を発することが出来なかった。
そんなボルスの頬に、冷たいモノが押しつけられた。それは、パーシヴァルの左手。自分の体温の高い手とは全然違う、冷たい手。
「手が冷たい人間は、心が温かい。・・・・良く言うだろう?」
囁くようにそう呟いたパーシヴァルは、頬に添えていた手をスルリと動かし、ボルスの首裏へと流した。そして、軽く手前に引き寄せる。
自然とボルスの顔がパーシヴァルの顔と近づき、元から距離の近かった唇がさらに距離を詰めていく。
何が起っているのか分からず、思わず瞳を見開くボルスの視界に、意地の悪い光を宿した黒っぽい瞳が映る。
その瞳がフッと閉じられ、普段気にならない睫の長さに気を取られている隙に、ボルスの唇に温かいモノが触れてきた。
ソレがなんなのか、確認しなくても分かる。
分かるが、朝っぱらからそんな事を仕掛けてくる彼の行動の意味が分からなかった。
またからかわれているだけなのだろうか。
その可能性が高いが、降って沸いたチャンスを見逃す手は無い。
ゆっくりと腕を上げ、彼の細い腰を抱きしめようとしたところで、いきなり唇から体温が遠のいていった。
「さてと。元気になったようなので、その旨をクリス様にお伝えしてくるとしましょう。」
「・・・・・パーシヴァル・・・・・。」
何事もなかったようにそう話をし始めるパーシヴァルの態度に、ボルスの瞳はじっとりとした非難がましい物になった。
そんなことを気にした様子もなく、パーシヴァルはいつもと変わらない笑みを返してくる。
「風邪なんかで仕事を休むのは、これっきりにして下さいよ。あなたがやらなかった分の仕事は、私に回ってくるのですからね。」
「・・・・・五月蠅い。引きたくて引いたんじゃない。」
「風邪を引くのは、たるんでいる証拠です。夜の運動ではなく、昼の運動にもっと力を入れるべきではないんですか?」
「貴様っ!そういう言い方は無いだろうっ!大体、お前だってやっているに、なんでお前は何ともないんだっ!」
返される言葉にも怒りが沸くが、馬鹿にしたように丁寧な言葉を使ってくるその態度にも怒りが沸き上がる。
思わず怒鳴り返すと、パーシヴァルは笑みの質を変えて来た。
「だから、鍛え方が違うと言っている。俺は、風邪ごときで休んだことは無いよ。」
ニヤニヤと笑う彼の態度に、平常値に下がっていた体温がまた上がってきた気がした。
口調は変わったが、馬鹿にする態度に何の違いもない。
「嘘を付くなっ!嘘をっ!」
「嘘なんか付いていないさ。サロメ卿に聞いて貰っても構わんよ。」
「分かった。後で調べてやる。嘘だったら、ただじゃ置かないからなっ!」
「はいはい。」
馬鹿にしたような態度でそう返しながら、パーシヴァルはドアへと向かって歩いていく。
「おいっ!どこに行くんだ?」
思わずそう問いかけると、振り返ったパーシヴァルに思いっきり馬鹿にするような視線を向けられてしまった。
「お前の耳は飾り物か?さっき言っただろう。クリス様に、報告に行くんだよ。・・・・・ほんと、こんな馬鹿が良く風邪を引けたものだ・・・・。」
後半の呟きはボルスに聞かせるための物ではなく、思わず零れた物だったのだろうが、ボルスの耳にもしっかり聞こえていた。
聞いたボルスの怒りは、瞬時に最高潮に達する。
「パーシヴァルっ!貴様・・・・っ!!」
思わず怒鳴り返したが、パーシヴァルは少しも気にせずにドアからその細身の身体を滑り出してしまった。
置いて行かれた感のあるボルスの怒りは、不完全燃焼のまま胸の内にくすぶっている。
「・・・・後で、絶対聞いてやるからな・・・・・。」
いつも何かと誤魔化されているボルスであったが、これだけは忘れる物かと、胸に誓うのだった。
「ええ。ありませんよ。」
サロメの言葉は、あっさりとしたものだった。
「無い・・・・ですか?一度も?」
「ええ。私が記憶している限り、一度もありませんね。」
聞き間違いかと思い再度問いかけた言葉に、サロメはあっさりと頷きを返してきた。
尊敬する上司であるサロメの言葉ではあるが、ボルスは納得できない。
「・・・・・・・・そんなこと、あるわけ無いじゃないですか。」
「しかし、事実です。」
思わず言い返してしまったボルスの言葉を、サロメは肯定してはくれなかった。
パーシヴァルが、体調不良を理由に職務を休んだことがあるだろうという言葉を。
そんな馬鹿なとその場に凍り付いていたボルスに、サロメ以外の声もかけられた。
「俺も、そう記憶しているぞ。あいつが一兵卒だった頃も知ってはいるが、その時も正規の休日以外に休んだことは、一度も無い。」
ボルスがサロメを訪ねる前に、訓練報告に来ていたレオだ。
別にコソコソ探る必要も無い事だったので一緒に話を聞いて貰っていたのだが、そのレオすらもサロメの言葉を肯定してくる。
その言葉に同意するように頷いたサロメが、言葉を足してくる。
「里帰りのために連休と取ることは、ありましたがね。体調不良が理由の突発的な休暇は、取った事がありませんよ。」
「里帰り・・・・。」
その言葉が、ボルスの心に引っかかった。
そう言えば、彼が田舎の村出身だと言うことは知っているが、どこの村出身なのかは今まで聞いたことが無かった。
毎日のように愛してると言っているくせに、自分は全然彼について知らない事が多すぎる。
そんな自分が、少し恥ずかしくなった。
「・・・・サロメ殿。」
「なんですか?」
「パーシヴァルの故郷とは、どこなのですか?」
ボルスの問いかけに、いつも無表情に近い副団長の顔が一瞬驚きを表すモノに変わった。
「・・・・・・知らないのですか?」
「ええ。今まで聞こうとも思いませんでした。」
「俺も知らんな。・・・・どこなのですか、サロメ殿。」
レオの問いかけに、サロメは考え込むように視線を手元の書類へと移していく。
しばらくの間、沈黙が辺りに落ちた。
何を悩むことがあるのだろうか。村の名前を一つ、口に出すだけだというのに。
訝しみながら首を傾げたボルスの耳に、サロメの声が届いた。
「私の口からは言えませんね。彼が自分の口から語らないと言うことは、あまり触れ回りたくないと言うことでしょうから。」
「・・・・どういう、意味ですか?」
「意味などありませんよ。言葉の通りです。」
キッパリと言い切るサロメの言葉は、やはり良く分からない。
パーシヴァルだったらすぐに察することが出来るのだろうが。
傍らにいるレオに視線を向ければ、彼も困惑したような顔をしていた。
「さて、話がそれだけなら、下がって貰えますか。今日中に揃えないといけない書類が山のようにあって忙しいのです。」
チラリと向けてくる視線には、抗えない強さが宿っていた。
まだ聞きたいことは沢山あるのだが。
上司の命令にも等しい言葉に逆らうことなど、ボルスには出来なかった。
「あ、はい。では、失礼します・・・・。」
半ば追い出される形で部屋を辞したボルスとレオは、廊下に出た後にお互いの顔を見合わせた。
「・・・・どういう、事だと思いますか?」
「・・・・さっぱりわからん。」
腕を組み、二人並んで考え込んだが、体力勝負の二人に何か名案が思いつくわけでもない。
「・・・・本人に聞くのが、一番だな。」
「そうですね。」
レオの言葉にコクリと頷いたボルスは、レオと共に足を踏み出した。
サロメが口を割ろうとしなかったことを、彼が簡単に教えてくれるとは思わなかったが。
「・・・・なんでいきなりそんなことを聞きに来るのですか。」
パーシヴァルは心の底から不愉快だと言わんばかりの表情を浮かべて見せた。
仕事中いきなり押しかけてきたボルスとレオが、何の前触れも無く出身地を聞いてきたのだ。
今までそんなこと少しも気にしていなかった男がなんなんだ。いきなり。
ボルスだけならいざ知らず、レオまでもが一緒になって。
ジロリと睨み付けてやったが、二人は少しも気にした様子もなく、逆に問いつめるようにしてくる。
「良いから教えろ。お前がどこの出身であろうとも、俺たちの関係が変わるわけでは無いのだからなっ!」
その言葉に、カチンと来た。
ボルスにそんなつもりは無いのだろう。たぶん、馬鹿は馬鹿なりに、レオの視線を気にして言いたい言葉を遠回しに伝えてきたのだろうと察することは出来る。
「何があろうとお前の事を愛する心は変わらない。」と、そう言いたかったのだろう。
だが、言葉の選択を間違っている。彼の気持ちは分かっているが、どうにもこうにも腹が立つ。
少し、虐めてやろう。
そう考えたパーシヴァルは、ボルスに向かってニッコリと笑いかけた。
声をかけてくる女性達に向ける、営業用とも言うべき笑みを。
「・・・・・・それはそれは。心優しいお言葉ですね。貴族であるあなたが平民出の私と親しくおつき合いして下さるなんて。」
「・・・・・え?」
発した言葉に、ボルスは不思議そうに瞬いて見せた。何を言われたのか分からなかったのだろう。単細胞相手だと、言葉を尽くさなければならなくて面倒くさい。
内心で舌打ちしつつも、パーシヴァルは浮かべた笑みを絶やさずに語り続けた。
「しかし、やはり身分の差という物はありますからね。いくら騎士団が実力主義とはいえ、私とボルス卿とでは、親しくつき合うべきでは無いのかも知れません。」
「・・・・な、何を言っているんだ??」
「・・・・田舎者の私となんかとつき合っていたら、ボルス卿の出世の妨げになるかも知れませんからね。」
そこまで言われてようやく言葉の意味を察したらしい。
そして、自分の発した言葉がどういう意味を持つものになるのかと言うことを。
赤くなったり青くなったりしているボルスに、パーシヴァルは最後の一撃をくれてやった。
「これからはお互い自粛したおつき合いを心がけましょう。ボルス卿の好意に甘んじるなど、私には出来ませんから。」
「パ・・・・パーシヴァルっ!」
「では、まだ仕事が残っておりますので、失礼致します。」
お手本のように綺麗な礼をボルスとレオに送り、パーシヴァルはさっさと身を翻した。
「ま、待てっ!パーシヴァルっ!!俺が悪かったっ!!」
必死に謝るボルスの声が聞こえてきたが、知った事ではない。
しばらく反省すればいいのだ。
一週間くらいは。
それ位の期間放置しておけば、今後くだらない事を聞いてくる事も、言ってくる事も無いだろう。
別に隠す事でも無いのだが、この間襲撃されたばかりの村が自分の出身地だと教えれば、間違いなく彼等は同情してくるだろう。それが、たまらなくイヤだった。
同情などされたくない。
高い位置から見下ろされているようで、腹が立つ。
「・・・・まだまだ、修行が足りないな。」
小さく息を吐き出しながらそう呟いた。
どんな時でも冷静でいるように務めているのに、結構簡単に怒りが沸き上がる。
ボルスを相手にしていると。
そんな自分に反省しつつ、パーシヴァルはバーツの元へと歩を進めた。
一週間の宿を求めて。
残されたボルスは、パーシヴァルの後ろ姿を見送りながら、ガクリと膝を付いていた。
その姿をチラリと見ながら、レオは盛大なため息を付く。
仲が良いのか悪いのか。
「・・・・分からん奴らだ。」
端から見ていると、痴話げんかのように見えなくもないし、パーシヴァルが一方的にボルスの事を嫌っている様にも見える。ボルスの事をからかって遊んでいるようにも。
たぶんからかっていると言うのが正解なのだろうと思う。
しかし、今回はボルスの発言に怒りを覚えていたのも確かなことだろう。
アレはボルスが悪い。言葉の使い方を間違っていた。自分も口が上手い方ではないが、ボルス程では無いような気がする。あそこまで見事に墓穴を掘る事は、無いと信じたい自分がいる。
「・・・・ボルス。」
「・・・・レオ殿・・・・・。」
声をかけると、情けない顔を向けられた。
こんな捨てられた子供のような顔をしている男が、ゼクセン騎士団を引っ張っていく立場に居て良いのだろうかと一瞬思いはしたが、その考えはすぐに否定した。
戦場にいるときの彼は、頼りになるのだ。戦場では。
苦笑を浮かべたレオは、すがるような視線を向けてくるボルスを励ますよう、軽く肩を叩いてやった。
「・・・・後で謝っておけ。」
「・・・・・・はい・・・・。」
素直に返事を返しながら再び項垂れるボルスにかける言葉は、今のレオには見つけられなかった。
結局、彼の故郷がどこなのか。
知ることが出来なかったことが、少し心に引っかかった。
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