−1−


 ここ最近、フリックはもの凄く苛立っていた。
 その苛立ちはまだビクトールに気づかれていないが、それも時間の問題だろう。そろそろ上手く取り繕えなくなりそうな位に、苛立ちが募っていた。
 早々にこの苛々を解消しないと、かなり危険な事になりそうな感じだ。今までの経験からそう思う。このままの状態で放置していたら、間違いなく血を見ることになる。
「さて、どうするか――――」
 苛立ちのあまりに書き仕事を進める気にもなれず、フリックは持っていたペンをペン立てに戻し、真面目に仕事を続けている文官のヨールに一声かけてから執務室から出た。そして、この苛々を解消する手段を考えながら階段を下りて行く。
 手っ取り早いのは、外に出てひたすら敵を斬り捨てる事なのだが、ここら辺には自分を満足させてくれそうな手強いモンスターが現われない。しかも、モンスターそのものが現われる確立が低いので、奴等が現われない事に対しての苛立ちも沸き上がり、気分転換どころかより一層状況を悪いモノにしそうだ。
 ビクトールに雷を落とすのも手だが、それだと一発で終わってしまうのであまり楽しくない。出すモノを出してスッキリするときもあるが、今日はそう言う気分でもないのでやっても意味はないだろう。
 そもそも、今の自分の精神状態で雷を放ったら、うっかりビクトールを殺してしまいそうだから自粛しておいた方が良い。彼自身には色々と思うところはあるのだが、別に殺したいと思うほどの思いではないので。
「どうするかな…………」
 呟きながら玄関の扉に手をかけて外に出ると、前庭で傭兵達が手合わせをしている様子が視界に飛び込んできた。
 今やり合っているのは小柄で20代前半で戦いの経験がまだそれ程多くないジュノーと、大柄で30前半の、傭兵としての経験が豊かなルアンだ。二人とも砦の中では腕の立つ方だから、ただの手合わせにも関わらず、実戦さながらの気迫を見せていた。
 速さを生かしたジュノーの攻撃を、ルアンはどっしりと構えて危なげなく捌いている。
 ルアンの重い攻撃を、ジュノーは上手く力を殺ぎながらやり過ごしている。
 どちらも攻め倦ねているのか、決め手となる攻撃を仕掛けられていない。それでも、その対照的な動きを見せる二人の戦い振りはかなり見応えがある。だからだろう。戦う二人を取り囲むようにして観戦していた仲間達の瞳には真剣な光が宿り、僅かな動き一つ見逃すまいと言うようにジッと戦いの行方を見守っていた。
 フリックも、二人の勝負を見つめる。傭兵達のように熱い眼差しではなく、冷静に観察する眼差しではあったが。フリックの目から見たらまだまだ遅いと思うジュノーの剣の動きをしっかりと見つめ、ビクトールよりも軽いだろうと思うルアンの剣の動きを見つめる。その場で戦っているのが自分だったらどこでどう仕掛けるのか、考えながら。
 そんな風にフリックが勝負の行方を観察している中、思ったよりも長く続いた勝負に決着がついた。
 今回勝利を掴んだのは、速さを生かした攻撃を間断なく続けていたジュノーだ。
 彼は、一瞬の隙をついてルアンの剣をはじき飛ばし、彼の身体に剣先を突きつけた。戦場だったら間違いなく命を取られていたであろうその攻撃に、ルアンは素直に負けを認めて降参するように両手をあげて見せる。
 そんなルアンの仕草を見たジュノーは、誇らしげに満面の笑みを浮かべて見せた。そして意地の悪い笑みを刻み直してから、ルアンの顔をのぞき込む。
「俺の勝ちだぜ。そろそろルアンの時代も終りじゃねーの?」
「うるせぇ、クソ坊主。調子こいてんじゃねーぞ、コラっ!」
 負けた事が悔しいのか、歯を向いて怒鳴り返してくるルアンの言葉に、ジュノーは上機嫌に笑い返していた。どうやら今日の出来は自分でも満足出来るものだったようだ。常に明るい彼の声と顔が、常よりも明るくなっている。
 そんな明るい、屈託の無い笑みを見つめながら、フリックはゆっくりと口角を引き上げる。
 ビクトールがその笑みを見たならば、すぐにでもその場から逃げ出しただろう。だが、今ここにビクトールは居ないし、フリックの表情の変化を見た者も居なかった。だから、誰一人としてその場から逃がす事無く、前庭に向かう階段に足をかけた。
「…………ジュノー」
 歩きながら勝利者の名前を呼ぶと、彼はひょいと顔をあげ、フリックの方へと視線を向けてきた。
 そこにフリックがいたことに気づいていなかったのだろう。彼は驚いたように目を見張った。だが、フリックが気配もなく近づいてくることは日常茶飯事なので、すぐに何事もなかったように軽く首を傾げて問い返してくる。
「なんすか?」
 言葉短く問いかけてくるジュノーに、フリックはニッコリと笑いかけた。彼が振りまく笑顔に負けないくらい、屈託なく。
 その笑顔に、周りの空気がザワリと揺れた。
 揺れた空気と連動するように、全員の腰が一気に引く。
 フリックの全身から良からぬ気配を感じ取ったのだろうか。昔は自分のことを馬鹿に仕切っていて笑顔の裏に隠された剣呑な空気に気づかなかった彼らだが、最近は随分と敏感に察するようになってきた。これも訓練の成果だろうか。
 そんなことを考えながらほくそ笑んだフリックは、回りにいる傭兵達の反応にチラリとも視線を流さずに、誰よりも逃げ腰になっているジュノーの前へと歩み寄り、彼の肩に手をかけた。
 そして、彼の自分よりも小さい身体を胸の内に抱き込む。
「随分腕を上げたな。ジュノー」
「えっ………そっ………そうっす、か?」
 これから何が起こるのだろうかと緊張して腕の中で身体を強ばらせたジュノーが、たどたどしく言葉を返してくる。そんな彼の反応にほくそ笑みながら、フリックは抱きしめる腕に力を込め、彼の滑らかな頭髪に指を梳き入れた。
「ああ。ここに来た当初とは比べモノにならないくらいにな………この先が楽しみだよ」
「あっ…………そ、それは、ありがう、ござい、ます…………」
「今後も鍛錬を怠るなよ。期待しているからな」
 甘い声で囁き、抱きしめていた身体を放したフリックは、彼の眦に触れるだけの口づけを落とした。
 途端に、ジュノーの身体がビクリと強ばった。
 顔を見れば、尋常じゃない位にその色を青ざめさせている。
 そんなジュノーにもう一度柔らかな笑みを浮かべて返したフリックは、置き土産に額にも口づけを落としてやってから、踵を返した。
 そして、先程出てきたばかりの扉を潜って、ドアを閉めたその瞬間。
 前庭で怒鳴り声が響き渡った。
 ジュノーを詰る男達の声が。
 声だけでなく、激しく争うような物音も聞こえてくる。
 それを耳にしながら、フリックは口元をゆっくりと引き上げた。
 胸の内に渦巻いていたなんとも言えない苛立ちが多少なりとも薄くなっている。少なくても、あと二日くらいは乗り切れそうな位には。執務室にある提出期限が迫った書類を片付ける間くらいは、保ちそうだ。書類を届ける道中でモンスターを切って歩けば、感じていた苛立ちは完璧に消え失せるだろう。
 先の見通しが立ったので、少し気が楽になる。
「これで、仕事に集中出来そうだ」
 呟いた声は、執務室を出たときよりも明るいものになった。そんな自分を自覚して少し笑む。
「まぁ、ジュノーには少し悪いことをしたが…………」
 後でビクトールに何かさせておこう。
 そんなことを考えながら、フリックは先ほど出たばかりの執務室に戻っていったのだった。










−2−








「てめぇっ!ジュノーッ!副隊長にキスされるなんて、なんてヤツだっ!」
「果報者めっ!くぅーーーーーっ!むかつくっ!」
「殴らせろ、こんちくしょう!」
「ちょっ…………止めろよ、馬鹿っ!」
 フリックがその場から立ち去った途端に躍りかかって来た仲間の攻撃をくらうすんでの所で逃れたジュノーは、そのまま脱兎のごとく駆け出した。捕まったら間違いなく半殺しの目にあうだろうと思って。
 砦の中でも俊足の部類に入るジュノーが本気で走れば、追いついてこられる者は滅多に居ない。それこそ、フリックかフリックの腹心たる男かくらいだろう。そのどちらも今は自分の追撃には加わっていないから、まず追いつかれることはない。
 それでも力の限り走り続けていたら、いつのまにか追手の気配が消えていた。だが、それでも安心できず、ジュノーは駆けるスピードを少しも緩ませずにひたすら足を動かし続けた。





 どれくらい走ったのか分からないが、背後にあった追手の気配が無くなったことに気づいてから随分経った所で、ジュノーはこれ以上ないくらいに素早く動かしていた足をピタリと止め、上がった息を整える為に深呼吸を繰り返した。そして、周りの気配を慎重に窺った後、用心の為に一際高い木に上り、地上に忙しなく視線を走らせながら未だに治まりきっていない呼吸を押し殺す。
 しばし気配を探り続けたが、人の気配は一切無い。モンスターの気配や動物共の気配はするのが。
 どうやら完全にまけたらしい。
 殺気だった仲間達の気配が完全に感じ取れない事に安堵して、ジュノーはホッと息を吐き出した。そして、木の幹に背を預ける。
「…………勘弁してくれよ。本当に、あの人はもう…………」
 思わず口から愚痴がこぼれ落ちた。
 フリックは時々さき程の様な事をする。自分になんの恨みがあるのか分からないが、他の傭兵達には見せない優しい顔で微笑みかけ、行き過ぎたスキンシップを図ってくるのだ。
 そんなフリックとの接触を皆には羨ましがられるが、ジュノーには良い迷惑でしかない。何しろ、そう言う目にあった後には必ず、今回のような騒動が起こるのだ。
 それに、自分が好きなのはフリックではない。
 あの綺麗な顔に微笑まれ、あの良く響く声で甘く囁かれたら、しかもそれが耳元だったりしたらもう、どうしようもなくドキドキしてしまうが、別に天に舞う程嬉しくはならない。
 むしろ、その顔で自分の思い人を籠絡しているのかと思うと、嫉妬の炎がメラメラと燃えさかってくる。
 自分の想像で嫉妬の炎を燃えたぎらせていたジュノーだったが、そこでふと思った。
「……もしかして、副隊長は俺の事を牽制してんのか?俺が隊長の事を好きだから………」
 思わず呟いてしまった言葉は、耳にしたらもの凄く信憑性があるような気がしてきた。そう思うと、色々と納得出来ることだし。
 なので、ジュノーは大きく頷いた。そして、言葉を発する。
「隊長のことなんかなんとも思ってないとか言ってるけど、本当は副隊長、隊長の事が好きなんだな」
 それでも俺は負けねーぜっ!
 と。晴れ渡った青空に向かって叫んだジュノーに、今の空模様では現われるわけがない雷が、突き刺さった。
 そしてジュノーは、黒こげになりながら地面に転げ落ちたのだった。














続く



ジュノー・愛と受難の日々