交易に出た帰り道でやっかいなモンスターに遭遇してしまったために、城に帰り着いたのは日付がとっくのとうに変わっている時間になってしまった。
 そんな時間まで動き続けていたのだ。疲労はピークに達していた。体力に自身のあるビクトールですら足元が覚束ない状態になっている。
 そんなわけで、パーティメンバーは城に帰り着いた途端、挨拶もそこそこに自室に引っ込んでいった。上等では無いけれど、慣れたベッドで疲れた身体を癒そうと。
 そんな中、ビクトールだけが自室に向かわなかった。
 自室ではなく、自室の隣にある開け慣れたドアの前に立ったビクトールは、慎重な手つきでドアノブを回し、ゆっくりと押し開けた。身体がギリギリ通るくらいの隙間を作って素早く室内に滑り込み、音もなく扉を閉める。そこで一旦動きを止めた。この部屋の主に気付かれていないか確認するために。
 しばらく様子を窺ってみたが、反応はない。誰も居ないのではないかと思うくらいに人の気配を感じない。その事にホッと息を吐き出し、気を引き締めなおす。そして、息を殺してゆっくりと歩を進めていく。人が寝ている事が見て取れる凹凸のあるベッドの方へと。
 そのベッドの傍らまで歩み寄って足を止め、そこで眠る男の顔を見下ろした。
 男からは、微かな寝息も感じない。
 死んでいるのではないかと思うくらいに静かだ。
 そんな人間を見たら普通は驚き慌てるだろうが、ビクトールはニヤリと口角を引き上げた。ソレが、この男の熟睡しているときの姿だと言うことを知っているので。
 熟睡しているのならば、今の彼は無防備な状態だ。簡単にその身体を拘束することが出来るだろう。
「フリック、今帰ったぜ〜〜〜」
 喜色が前面に押し出された声で囁きながら、眠る男の上に向かって身体を倒していく。どれだけ抱いても抱き足りない細くしなやかな身体を、心置きなく抱きしめるために。
 だが、その身体を抱きしめる事は出来なかった。

 突然腹部に、強烈な痛みを感じたために。

「ぐはっ!」
 痛みのあまりにうめき声を上げながら、床の上にひっくり返る。
 予想していない攻撃だったためにモロにくらい、受け身を取れずにひっくり返ったため後頭部を床に強打し、目の前に星が飛んだ。
 腹部と頭部の痛みと頭を強打したことで起こった酩酊感にしばし身動きが取れなくなったビクトールだったが、その酩酊感を何とか堪えながら身体を起こし、床を見つめるように項垂れながら大きな手のひらで顔面を覆った。そして、軽く首を振りながら呻くように言葉を漏らす。
「――――てめぇ、何しやがる――――」
「それはこっちの台詞だ。汚い身体で人の寝込みを襲うんじゃねーよ」
 直ぐさま返された声は温度を感じないほどに冷え切ったものだった。
 その声を耳にしてチラリと視線を上げれば、そこにはいつの間にやらベッドの上に座り直し、自分に向かって冷ややかな瞳を向けているフリックの姿が在った。
 そんなフリックの言葉と態度に、自然と表情がむくれたモノになっていく。
「――――風呂上がりなら良いって言うのかよ」
「まだ許せるな」
「――――そうかよ」
 冷たい瞳と声のままであっさり返された言葉に、ビクトールの表情はさらに歪んだ。どちらにしろ、全面的に許す気は無いのだなと、思って。とはいえ、多少軟化させるつもりはあるらしい。その『まだ』の範囲がどれくらいのモノなのか分からないが、今度からは風呂に入ってから夜ばいをかけようと密やかに決意する。
 そんなビクトールの決意に気付いたのか。はたまたふてくされた表情がおかしかったのか。フリックは軽く目元と口元を綻ばせた。そして、先程までとは違う、温度のある柔らかい声で言葉をかけてくる。
「お疲れさん。随分と遅かったな」
 柔らかな声が身体に染みこんでくる。出迎えの言葉と瞳は冷たかったが、今は本気で労をねぎらって貰っていると、その声で分かる。だから、返すビクトールの言葉と表情も自然と軟らかいモノとなった。
「おう。途中でやっかいなモンスターにあっちまってよ。手間取った」
「それは羨ましい事だな」
「――――普通は、気の毒に、とか言うんじゃねーのか?そこは」
 本気で言ったとしか思えない言葉に顔を歪めて問いかければ、フリックは不思議そうに瞳を丸めて小首を傾げた。
「なんでだ?手強い敵なんてそうそう居ないんだ。遭遇出来たのは幸運な事だろ。その分経験値が増えるわけだしな。代われるモンなら代わって貰いたかったぜ」
「まぁ、確かにそりゃぁ、一理あるんだがよ………」
 しかし、普通は出来る限りモンスターと遭遇したくないと思うモノなのだ。それが例え弱いモンスターであろうとも。強いなら余計に遭遇したくないと思うのが、普通だろう。
 そう考えたが、その『普通』はフリックには通じないのだろうなと考え直す。
 フリックは何よりも戦う事が好きな男なのだ。時間が有り余っているときには自ら進んでモンスターを探し求めて倒して歩くし、余程先を急いでいるとき以外、出会ったモンスターから逃げ出すと言うことをしない。そんな男に一般人の感覚でモノを語っても理解して貰えないだろう。そう考え、深く息を吐き出した。そしてゆるりと床上から腰を上げる。
 そんな自分の動きを静かな瞳で見つめてくるフリックの目の前に立ち、青く透き通った瞳をジッと見つめた。
 いつの頃からか、隣にあることが当たり前になっていた瞳を。
 見つめるだけで心が穏やかになる瞳を。
 その瞳を見つめたまま、ゆっくりと腕を伸ばす。
 フリックに向けて。
 その腕を細く引き締まった身体に回して緩く抱きしめ、白い首筋に顔を伏せた。

「――――ただいま」

 そっと囁く。
 城内に足を踏み入れたときよりも「帰ってきた」と言う思いを強く感じながら。
 疲労で足をよろけさせながらも、それでも緊張していた意識が弛緩していくのを感じながら。
 強ばっていた全身から力が抜ける。
 自然と、抱きしめていたフリックの身体に体重をのせることになった。
 その重さに耐えられなかったのか、フリックの身体がグラリと揺れ、その細い身体を押し倒すようにしてベッドの上に倒れ込む。
 より一層距離が縮まり、慣れた匂いと暖かな体温を全身で感じ取る。その温かさに心地よさを感じて眠気が落ちてきた。このまま寝たらフリックに怒られるだろうなと思いながらも、身体を起こす事が出来ない。なんとも言えない安心感に身体が、心が弛緩して。
 瞼が閉じていくのに合わせて意識に霞がかかっていく。
 そんな中、背中に暖かいモノが触れてきたのを知覚する。
 細く引き締まったフリックの腕が、柔らかく自分の身体を抱きしめてくれたことを。
 その柔らかい接触が嬉しくて、口元が僅かに緩む。

 今夜は良い夢が見られそうだ。

 そう胸中で呟きながら、ゆっくりと意識を落としていったビクトールの耳に、柔らかな声が届いた。

「お帰り」

 言葉と共に、背中を数度叩かれた。
 労をねぎらうように。
 お疲れ様と、言うように。

 柔らかな声と柔らかな仕草に、ビクトールの胸に暖かい何かが満ちていく。
 その暖かな空気に包まれたまま、深い眠りに落ちていった。
 穏やかな眠りの世界へ。
 故郷を失った日に、もう二度と手に入らないだろうと思った、世界へと。























柔らかな時間