ありがとう

「ダレスさん。ちょっと良いですか?」
 夕食を取り終え、近場に居た同僚と談笑しながら酒を酌み交わしていたダレスは、背後から控えめにかけられた声を耳にして、軽く腰を捻った。そして、その場に立っていた人物の姿を目にしてほんの少しだけ、瞳を見開く。
 そこに居たのが、滅多なことでは傭兵達に話しかけてこない、文官のヨールだったから。
 彼がこの砦に来てから一ヶ月以上経つが、事務的な話があるとき以外で傭兵たちに声をかけている姿を見たことが無いし、他の隊員たちからプライベートの会話をしたと言う話を聞いたこともない。
 別に文官だからとお高くとまり、傭兵なんて職業に就いているものとは話が出来ないと思って自分たちを避けている訳ではないだろう。傭兵という、見るからに荒くれ者である男たちとの付き合い方が分からないだけなのだと、思う。気弱そうな瞳に浮かんでいるのは困惑の色だけで、世間一般でよく見かける、傭兵と言う職業に就いている者達の事を馬鹿にするような色や、その職業を嫌悪しているような色は一切無いから。
 とはいえ、苦手意識はあるのは確かだと思う。ダレスの前に立つヨールの腰は僅かに引け、顔は緊張でこわばっている。
 そんな態度を示してしまうのも仕方がないことだろう。なにしろ、今のヨールは、酒場にいる傭兵たちの視線を一手に引き受けているのだから。
 滅多なことでは階下に降りてこない文官が降りてきて、隊長の次に実力があると、砦に住まう人間のほとんどがその腕を認めている自分に声をかけているのだから、注目を集めるのは当たり前のことだ。その上今は、夕食後の酒飲みタイムだ。傭兵の大半が食堂に集まっている時間なのだ。向けられる瞳の数が多い。
 そんなことは分かっていただろうに、何故わざわざ今、この時間に自分に声をかけてきたのだろうか。どういう意図が合っての行動だろうか。
 もしかしたら、副隊長でありながら今まで砦の事務仕事を一手に引き受けていて、文官がやってきた今もまだ執務室にこもることが多いフリックが、自分を呼んでこいとでも言ったのだろうか。だとしたら、どう言った用件だろうか。呼び出されるような何かをした覚えはないのだが。
 そんなことを考えながら真っ直ぐにヨールの瞳を見つめ、言葉を返す。
「――――どうしました?」
 感情の色が見えないと言われる平坦な声で問いかけると、ヨールはビクリと、肩を振るわせた。瞳にチラリと走ったのは、怯えの色だろうか。
 自分で言うのはなんだが、それほど怖い外見だとは思わない。街で暮らしていた頃は無表情なところが怖いと言われていたが、一般人は泣いて逃げ出すのではと思うほどこの強面集団の中で暮らしている現在は、自分の怖さなど霞んでいると思う。
 なのに、この反応だ。
 こんな事でこの男はこの先やっていけるのだろうかと、心配になる。砦にやってきてから今まで、副隊長であるフリックが解雇を言い渡していない所を見ると、使える人材なのだろうと思うので、辞めて欲しくはないのだが。
「ちょっと、お話しがありまして」
 ダレスがつらつらと考え込んでいる間に気持ちを立て直したらしい。ヨールは緊張の色が滲んだ声で、そう言葉を返してきた。その言葉に、軽く首を傾げる。
「話、ですか?」
「はい。お聞きしたいことがありまして」
 続けられた言葉に、再度首を捻る。その口ぶりから察するに、彼の個人的な用件なのだろうと、思って。
 文官の彼が傭兵である自分に聞きたい事など、あるのだろうか。思い当たる節はなにもない。いや、もしかしたら、実家関係の話だろうか。彼は少し前までミューズ市庁舎で働いていたと言うから、その可能性は無いわけではない。だとしたら、どういう話を聞き出そうとしているのだろうか。
 軽く瞳を細め、相手の様子を窺う。そんなダレスの態度で警戒された事に気付いたのか。はたまた、周りの目が気になったのか。ヨールは落ち着き無い仕草で辺りに視線を振りまけ、気弱さが全面にあふれ出た声で言葉を発してきた。
「ここでは、ちょっと、出来ない話なので……」
 語尾を濁しながらそう告げて視線を背後に走らせ、暗に移動したいと告げてくるヨールの顔をジッと見つめた。
 正直面倒くさくはあったし、人前で出来ない話と聞いて、より一層強い警戒心が沸き上がったが、ここで適当な言い訳をつくってかわしたところで、この様子では彼の用件が済むまでは何度でも声をかけられるだろう。その度に煩わしさを覚える位ならば、早々に相手の要求に従っておいた方が面倒は少ないだろう。そう判断し、小さく頷いたダレスは、無言で席を立った。
 ダレスの行動を見て了承を得られたと判断したのだろう。ヨールがホッと息を吐き出した。肩の線も僅かに落ちる。発している気配も僅かに柔らかくなったから、軽く緊張が抜けたのだろう。まだなんの情報も得られていないというのに。
 気を抜くのは少々早いのではないかと心の内で軽く蔑みながらヨールの顔を見下ろし、言葉をかける。
「どこに行きましょうか」
 問いかけはしたが、行き先は間違いなく彼の私室なのだろうと思った。仕事の質が違うからか、傭兵たちとは人間の質が違うからか。彼には狭くて小さいながらも個室が与えられているのだ。秘密の話をするのなら、そこ以外に連れて行かれる所はないだろう。
 そう思ったのだが、ヨールの答えは違った。
「ぁ、ハイ。執務室に」
 寄越された全く予想もしていなかった答えに、歩きかけていた足がピタリと止まった。そしてマジマジと、ヨールの顔を見つめる。
「――――副隊長は?」
 フリックはまだ夕食を取りに来ていないから、執務室で仕事をしているはずだ。そんな部屋に、自分を連れて行って良いのだろうか。
 もしかしたら、この呼び出しはヨールではなく、フリックの呼び出しだったのだろうか。だったら、こんな意味深な様子で話しかけてくる必要は無いと思うのだが。
 そんな事を考えながら軽く首を傾げたダレスに、ヨールが先を歩きながら返事を寄越してきた。
「今日はもう部屋に戻られましたよ」
「――――そうですか」
 ならば何故、フリックは階下に降りてこないのだろうかと首を捻ったが、彼のことだ。人には言えないような事を闇に紛れてやっているのかもしれない。
 軽口を交わし合うような間柄でもないので、二人は無言のまま歩を進めていった。二人とすれ違った傭兵たちから、心底不思議そうな瞳を向けられながら。
 執務室に辿り着くと、ダレスを室内に招き入れたヨールは、廊下の外をせわしない仕草でうかがったあと、静かに扉をしめた。そして、しっかりと施錠を施す。
 どこからどう見ても挙動不審だとしか言えないヨールの動きをジッと見つめていると、扉の施錠をし終えたヨールはニコリと、笑いかけてきた。今まで怯えに怯えていた人間と同一人物とは思えないほど、曇りのない笑顔だ。
 まさかそんな笑顔を見せられるとは思っていなかったので、本気で驚いてしまった。そんなダレスに、ヨールは明るい口調で声をかけてくる。
「ちょっと待っててくださいね。今、用意しますから」
「―――はぁ」
 何がなにやら分からず、ダレスは条件反射のように気の抜けた声で相づちを返した。
 ダレスの返事が気のないものだったことに気付いていないのか、ヨールは軽い足取りで部屋の奥へと歩み寄り、窓辺に小さめのテーブルと椅子を二つ設置した。その席にダレスを呼び、椅子に座らせてからバタバタと駆け足気味に彼が普段仕事をしている机にむかい、机上に置かれていた酒瓶とグラスを二つ手にとって、窓際に戻ってくる。
 そして、両方のグラスに酒を注ぎ入れたところで、ダレスの方へと視線を向けてきた。
「さっ! どうぞっ!」
「――――はぁ」
 どうやら持て成されているようだ。そう思いながら、差し出されたグラスに視線を向ける。まさかコレに毒でも入れられたのだろうかと、思って。
 だが、自分を殺す意味が分からない。とりあえず今のところ、自分が手にするであろう財産を狙っているモノがいるという話は聞いていないことだし。
 そもそも、自分の暗殺を企てているのならこんな手段は使わないだろうし、そんな事をするような人間をフリックが易々と砦の中に入れるとも思えない。いや、入れたとしても野放しにしてないだろう。
 そう判断し、目の前に置かれたグラスに手を伸ばした。そして一口ふくみ、喉の奥に流し込む。
 ダレスが酒を嚥下したことを確認してからヨールもグラスに口を付け、その中身を一気に煽る。
 そしてガンッと、大きな音を立ててグラスをテーブルの上に戻した。
 その動作に雲行きが妖しいモノを感じる。どう考えても、穏便に話をしようと思っている態度では無かったから。ヨールの顔を見つめれば、彼は手酌で酒をグラスに注ぎ込み、立て続けに三杯ほど酒を飲み干した。
 余程話づらい話をしようとしているのだろうか。どう考えても酒の勢いを借りようとしているようにしか見えない。
 ますます雲行きの怪しさを感じ、コレはさっさと退散した方が良いのだろうかと思ったところで、四杯目の酒を勢いよく開けたヨールがギッと、睨み付けるような眼差しを寄越してきた。
「――――お聞きしたいことがあるんです」
 どこかせっぱ詰まったような印象のある眼差しと声音に、静かな瞳を返した。
 無言で話の続きを促す。お前は黙っていると高圧的だと言われるので、出来る限り友好的な気配を発するよう、努力しながら。
 ダレスが努力して話やすい空気を作り出そうとしていることに気付いたのか、ヨールは緊張を吐き出すようにフッと小さく息をついた。そしてゆっくりと口を開いたのだが、声を発する直前で挫けたらしい。僅かに俯き、空のグラスに新たな酒を注ぎ入れた。
 それを、一気に飲み下す。
 眉間に皺を刻み込んだ。ヨールと違ってダレスはほんの少ししか飲んでいないので、この酒の強さがどれほどの物か、正確なところは分からない。だが、決して弱い酒ではない事だけは確かなのだ。そん酒をこんな風に一気飲みして、急性アルコール中毒にならないものだろうか。彼のアルコールの耐性能力はどれほどのものなのだろうか。
 軽く心配になったが、ヨールの飲む手を止める気にはなれなかった。下手な言葉をかけたら絶対に絡まれるだろうから。
「面倒になったら強制的に落として帰るか」
 そんな物騒な事を考えながら度数の高い酒をあおるヨールの姿を見つめていると、5杯目の酒を飲んだところでようやく勢いが付いたらしい。再度瞳を上げてきたヨールが、先程飲み込んだ言葉を吐き出してきた。
「副隊長と隊長の関係って、なんなんですか?」
 軽く目を見張る。
 質問の意図が分からなくて。
 質問の意図は分からないが、下手な答え方をしたらいろいろな意味で不味いことになるのは分かった。なので、数度瞬きを繰り返した後、首を傾げながら当たり障りのない言葉を返す。
「隊長と副隊長という関係でしょう?」
「そうじゃなくて!」
 ダレスの返答に、ヨールは眦を吊り上げ、声を荒げた。だがすぐにハッと息を飲み、キョロキョロと辺りを見回した。
 どうやらなにも見つからなかったらしく、ヨールはホッと小さく息を吐き出した。だが、先程までのテンションで喋るのは得策ではないと思ったのだろう。小さなテーブルの上に身を乗り上げ、小声でコソコソと告げてくる。
「隊長と副隊長という関係と言われたら、タダの上司と部下みたいですけど、あの二人には全然そういう雰囲気が無いじゃないですか」
「古い知り合いだと言う話ですから部下と上司ではなくて、友人同士として接しているんじゃないですか?」
「友人同士って感じじゃないんですよ! なんかもっとこう、濃い感じみたいな?」
「濃い感じって……」
 いったいあの二人は執務室で何をしているのだろうか。
 軽く遠い目をしてみる。
 正直、フリックのこともビクトールの事も良く分からない。傭兵砦の結成当時からいるので、ヨールよりも付き合いは長いのだが、彼らのことが理解出来るほど長く共にいるわけではないのだ。
 特にフリックは、滅多なことでは表に現れない。ヨールが来るまで事務仕事を一手に引き受けていたせいもあるのだが、傭兵たちに混じって談笑する事すら少ない男なのだ。そんな人間の事が分かる訳がない。
 ただ、綺麗で優しそうな外見とは裏腹に、半端じゃない厳しさと強さを持っている人間だという事だけは、分かっている。簡単に御せそうで、絶対に、誰にも御すことが出来ない人間だと言うことも。
 そんな人間がビクトールのような見るからにいい加減な人間と一緒に居ることが、もの凄く不思議だったのだが、ヨールの話しぶりから察するに、彼は自分が感じている以上の不可解さをヨールは感じているのだろう。
 他の傭兵たちに。とくに、ヨールと一緒に砦に来た連中に問いかけたら、『二人は恋人同士なのだろう』という簡単な一言で済まされるかも知れない。恋人なんて甘さを感じる言葉ではなく、『愛人』と言ったさげすみの混じる言葉でフリックを表す者も居るだろう。
 だが、フリックがそんなポジションに甘んじる男ではないことは、彼とまともに会話をすればすぐに分かることだ。一日中フリックと共にいて、ビクトールよりも会話をすることが多いであろうヨールだったら、間違いなく分かっているだろう。
 そのヨールが困惑するような何を、あの二人はしているのだろうか。
 滅多なことでは傭兵たちが立ち入らない、この部屋に。
「―――なんで、そんなことを聞かれるんですか?」
 軽く好奇心がうずき、問いかける。
 その言葉に、ヨールはなんとも表現がしがたい表情を浮かべた。そして、嫌そうに言葉を返してくる。
「隙あらば抱きつくんですよ。抱きつく隙が無ければ、無意味に触ろうともするんです。普通男同士でそんな事しないでしょう?」
「――――それは、隊長が副隊長に、ですか?」
「当たり前です」
 新入りの傭兵たちに言ったら何が当たり前なのだと突っ込む所だろうが、ダレスは静かに首肯した。確かに、確認するまでもない事だったと思って。
 フリックが忙しい時間を割いて、わざわざビクトールに触れに行く訳がない。そんな事をするのは、あからさまにフリックに執着しているビクトールだけだろう。
 だが、それだけのことならスキンシップが激しい男だなと思うだけでも良いだろう。実際、ビクトールはスキンシップ過多なところがあることだし。その上で、フリックは超がいくつも付くくらいに美形なのだ。下手な女よりも綺麗な顔をしている、なんて言葉では生ぬるいほどの美形なのだ。男だから抱きつかない、と言う選択肢は適用されにくいだろう。
 顔が綺麗なだけではない。中身も大変魅力的な男なのだ。こんな人間、他にはいないと思うほど魅力的な人間なのだ。男だと分かっていても抱きつきたくなる気持ちは、良く分かる。ヨールにだって、その気持ちが分かるはずだ。
 なのにわざわざ、たいして言葉を交わしたことも無い自分を呼び出してまでこんな話を振ってきたのだ。もっと何か、言いたいことがあるに違いない。
 その話を聞き出すべきか、聞かないでおくべきか。本気で悩む。下手な事をして自分の評価を下げるのは嫌なので。
 しばし真剣に考え込んだが、沸き上がってきた好奇心を噛みつぶすことは出来そうに無い自分を自覚して、自嘲の笑みを浮かべた。
 小さく息を吐き出し、覚悟を決める。フリックに怒られる覚悟を。
 そして、問いの言葉を投げかける。
「何を見たんですか?」
「―――え?」
「たかだか少しスキンシップ過剰な上司の姿を見たくらいでわざわざ、なんの接点もない自分に声をかけて来るほど、あなたは暇な人ではないでしょう?」
「それは………」
「そもそも、何故私に声をかけてきたんですか?」
 今まで個人的な会話をしたことなど、皆無に等しい自分に。
 不思議に思い、真っ直ぐにヨールの瞳を見つめながら問いかけると、彼は軽く目元を和ませた。
「副隊長が、今の傭兵隊で一番使えるのはダレスさんだって話をしていたので。隊長にも良く、指示はダレスさんに出しておけば大丈夫だって言ってるのを聞いてますし。副隊長に信頼されてるんだろうなと、思って。だから、話をするならあなたかなと、思ってしまいました」
「副隊長が、そんなことを?」
「はい。ダレスさんがいるから、自分もここまで裏に引っ込んでいられたんだって、言ってましたよ。隊長だけだったら不安だっただろうなって」
「そうですか………」
 思いがけないところで思いがけない言葉を聞け、胸の奥が熱くなってきた。多分顔には出てないだろうが、コレは相当嬉しい言葉だ。明日からの仕事にはより一層気合いを入れねばと、本気で思う。
 いや、これ以上フリックが出てくるのを遅らせるのも嫌だから、あまりしっかりやり過ぎない方が良いだろうか。
 軽く熱くなった身体と早くなった心拍数を意識しながらそんなことを考えていたダレスだったが、自分を見つめるヨールの瞳に気付いてハッと気持ちを引き締め直す。今はそんなことを考えている場合ではなかったことを、思い出して。
「それで、何を見られたんですか?」
 問いかけに、ヨールはグッと口を噤んだ。そしてふらふらと視線をさまよわせる。
 相当言いにくいことらしい。口にしただけでも罪になると言わんばかりの態度だ。
 そんな態度を見せられると、余計に気になる。信頼を裏切るようなマネはしたくないが、フリックの事は少しでも多く知りたいのだ。ここはしっかり聞いておくべきだろう。
 ジッと、ヨールの顔を見つめる。話を振ったからにはしっかりしゃべろと、無言で告げながら。
 その無言のプレッシャーは効いたらしい。ヨールは当たりにさまよわせていた視線をこちらに向け直してきた。だがすぐに瞳は手元に落ち、空になっていたグラスに新たな酒を注ぎ入れる。その酒を一気に飲み干した後、真っ直ぐにこちらに向けられた瞳には、これ以上ない程濃く、酔いの色が浮かび上がっていた。
「キスしてたんです」
「―――は?」
「だから、キスしてたんです。隊長と、副隊長がっ!」
 叫ぶようにそう答えたヨールはバンと、大きな音を立ててテーブルの表面を叩いた。沸き上がった気持ちのぶつけ場所を探すように。
 返す言葉を失った。
 まさか、彼らが人前でそんな事をするとは思っていなかったので。
 いや、ビクトールがフリックにしたがる気持ちは分からないでもない。常日頃からフリックと自分の親密さを密やかに、大々的にアピールしている男なので。その主張をわかりやすく示すために、人前でキスくらいしたがるだろう。
 だが、フリックがそんな事をするとは思っていなかった。
 そもそも、二人の中が親密な者だと言うことすら納得できないというのに。
 彼みたいな見目麗しい男が、何を好きこのんであんなムッサイ男の相手をしなければならないのだろうかと、思って。世の中にはもっといい男も女もいるというのに。
「キスって言っても、口と口じゃないですよ。そんなモノを見たらその場で憤死してますよ。隊長が副隊長のホッペにちゅーする程度のものでしたよ。でも、副隊長は怒りもしなかったんですよ! 隊長の好きにさせてたんですよっ! そんなの、納得できますっ?! たとえホッペだからって、男なんかにキスさせないじゃないですかっ! 普通っ!」
 興奮しながら語るヨールの言葉に、あぁなるほどと、小さく頷く。そして、副隊長ならさせそうだが。と、胸中で返す。
 別に積極的にして貰いたがって、と言うわけではなく、それでビクトールが黙るのならばと言う考えでだと思うが。
「ダレスさんは、させるんですか? 男に、ホッペにキスをっ!」
 ダレスの口から同意の言葉が得られなかった事が気にくわなかったのか。ヨールはムッと顔を歪ませながら問いかけてきた。その問いかけに大きく頷き返す。
「時と場合によっては」
「えぇっ!? どっ、どんなときに?」
「振り払う事も面倒なときに」
 仕掛けてきた相手がどんな人間でも、その一言に尽きる。
 仕事中は几帳面な人間だと思われがちな自分だが、基本おおざっぱで面倒くさがりなのだ。余計な労力をかけるくらいなら、気分の悪さを我慢する方を選ぶ。
 フリックもそんな気持ちだったのだろうかと思いながらヨールの反応を窺えば、その答えは酔っぱらいに納得出来るものだったのか。ヨールは真剣な顔で考え込んだ。
「――――じゃあ、やっぱり、副隊長は隊長なんかなんとも思ってないんですかねぇ」
 胸の前で腕を組んだヨールは、俯き加減でブツブツと呟きだした。
 どうやらお役所勤めをしていた彼は、色々とお堅いらしい。面倒だからと言って男が男にキスされるのを享受するのは納得できないらしい。傭兵の世界や、軍隊の世界には男同士が肉体関係を結ぶなんて事は、良くある事なのだが。
 だが、真に堅くて男同士の関係を認められないと言う人間に、あの副隊長がそんな風にいちゃつく様を見せるだろうか。他の隊員には見せていないというのに。
 もしかしたら、彼にそう言った趣向の人間を受け入れさせるために、ビクトールからのキスを甘んじて受けたのだろうか。そう数は多くないが、この砦の中にも同性を性の対象にしている人間はいることだし。今後彼がその事実を知った時に、嫌悪感を剥き出しにして人間関係を悪くする事がないようにと、計らっての行動だったのだろうか。
 しばしフリックの真意がどこにあるのかと考えてみだが、計り知ることの出来ないフリックの胸の内を計ることなど出来るわけがない。
 計ることが出来ないなら聞くしかないが、そんな恐ろしいことは出来ない。ヨールだって、聞きたくても聞けないでいるのだろう。聞けないから、わざわざろくに言葉を交わしたこともない自分を呼び、酒盛りなんて始めたのだろう。
 そう分かっていながら、酔った男をからかうつもりで意地悪く問いかける。
「副隊長には、聞いたんですか? なんでそんなことをさせているのかと」
「聞けるわけがないでしょっ?! 変なことを言って怒らせたら恐いじゃないですかっ!」
 問いかけに、ヨールは予想通りに激しく食いついてきた。
 見た目にはあまり出ていないが、度数の高い酒を既に一本空にして、二本目も真ん中辺りまで飲み進めているのだ。相当酔っているのだろう。酒場で声をかけてきたのと同一人物とは思えないほどテンションが高い。
 常にこのテンションで、とは言わないが、このテンションの半分でも表に出せれば傭兵たちともっと仲良くなれるものを。
 今度暇そうなときに飲みに誘ってみようか。
 そんなことを考えながら、軽く口端を引き上げた。
「イヤ、多分怒らないと思いますよ。話たくない話題に触れたら、さりげなく話の方向を反らされるだけで」
「――――そうですか?」
「えぇ」
 力強く頷き返してやれば、ヨールは自分の手元に視線を落とした。そしてピタリと、動きを止める。何やら考え込むように。
「――――ダレスさんは、聞いたんですか?」
 しばし間を開けたヨールは、チラリと視線を上げ、こちらの反応を窺うように問いかけを寄越してきた。
 その問いに、軽く首を傾げて返す。
「何をです?」
「二人の関係を」
「いいえ」
 軽く首を振った。本当のことなので、なんの気負いもなく。
 そして、口端を引き上げて笑う。
「でも、予想は付いますよ」
「それって、どう?」
「それは言えません」
「ちょっ……意地悪しないで教えてくださいよっ!」
「イヤですよ。下手なことを言って副隊長に怒られたくないですから」
「良いじゃないですか。ちょっとくらい!」
「イヤです」
 何やらムキになっているヨールの姿が面白くて、喉の奥でクツクツと笑いながら答えを返す。そんなダレスに、ヨールがムッと表情を歪ませた。
 妙に子供っぽい表情に、自然と苦笑が漏れる。
 彼のアルコールの耐性がどれほどのモノか分からないが、今の様子を見ると、この会話を明日覚えていられる程強いとは思えなかった。
 それはそれで楽しいモノがある。彼をからかうネタが手に入る事だし、暇を見つけて飲みに誘いだそう。そして、自分が目にすることが出来ないフリックの姿を教えて貰おう。そんな事を考えながら、ダレスはゆるりと口端を引き上げ、問いかけた。
「ヨール殿は、あの二人はどんな関係だと思うんですか?」
 その言葉に、ヨールはムッと顔を歪めた。そんなことは答えたくないと言わんばかりの表情だ。
 だが、誰かに言いたくて仕方がない事でもあったらしい。苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべながらも、言葉を返してきた。
「関係なんてものは考えたくも無いですけど、隊長が副隊長に下手惚れだって事は、嫌と言うほど良く分かってますよ。副隊長の背後から抱きついて髪の毛に鼻面突っ込むとか、仕事もしないで窓枠に腰掛けて時々副隊長を見て幸せそうに微笑んでるとか、小休止を取る副隊長の肩を嬉々として揉んでたりとか、書棚に向かってる副隊長に背後から抱きついて強烈なエルボー食らったのに幸せそうにしてる姿とか、毎日見てますからね」
「――――そんなことをしているんですか」
 想像していなかったラブラブっぷりに、唖然とした。まさか二人がそんな事をしているとは、思っていなかったので。いや、しているのはビクトールであってフリックではないが。してはいないが、それを許しているのだからラブラブと評しても良いのだろうかと、本気で悩む。
 二人揃って表に出る機会が少ないため、傭兵達の前では必要以上に接触していないし会話も交わしていない二人ではあるが、気心の知れた相手であろう事は二人の間に流れる空気から察することが出来た。死線を共にしてきたからという理由だけでは納得できないほど親密な空気を感じるときもあった。
 だが、それは一方的にビクトールが垂れ流している感じだったため、肉体関係があっても恋人同士でなく、ドライな関係なのだろうと思っていたのだが。
 しばし言葉が出なかった。だが、どうしても聞いておきたいことがあり、恐る恐る問いかける。
「副隊長は、全面的にそれを許して居るんですか?」
「仕事の邪魔にならない範囲では。邪魔だと感じた途端に雷一発です」
「――――どこまでが、邪魔にならない範囲なんですか?」
「さぁ。黙って背後から抱きついただけだったら、大丈夫な確率は高いですけど」
「――――そうですか」
 それは、追い払うのも面倒くさいからら放置していると言う事だろうか。しかし、ずっと抱きつかれているのも邪魔くさいと思うのだが。とくに、あんな図体のでかい男は。
 そんなダレスの胸の内に浮かび上がった疑問を読み取ったのか、ヨールはサラリとした口調で返してきた。
「くっついていられるのは、せいぜい5分が限度ですけどね。以前はもっとくっついていようとして雷落とされてましたけど、最近は隊長も学習してきたのか、ギリギリのラインで離れてますよ」
「そうですか」
 そんなビクトールの動向を、彼は仕事をしながら観察しているのだろう。ヨールの答えには迷いがない。酔っぱらっているとは思えないほど。
 部下に「学習している」などと言われて、隊長の面目もなにもあったモノではない気がするが、まぁ、そんな扱いを受けるようなったのは彼自身の責任だから、仕方があるまい。そう考えたところで、はたと気付いた。自分がろくにグラスを空けぬ間に、小さいテーブルの上に空き瓶が3本も出来ていることに。
「――――ヨール殿。飲み過ぎでは無いですか?」
「大丈夫ですよ! 明日は休みだし。これくらい軽いです。彼女に振られたときは、こんなもんじゃなかったですから!」
「――――はぁ」
 妙に陽気になっている時点で全然大丈夫じゃなさそうだが。
 一瞬止めようかと思ったのだが、下手に止めると変にとばっちりを受けそうだ。
 ここが階下の酒場だったら適当なところで周りにいる人間に押しつけることも出来るが、ここには自分しか居ない。逃げることは出来ないだろう。いや、逃げられるかも知れないが、後の人間関係が悪くなりかねない。それは正直困ることだ。
 飲むのを止める事も出来ない上に、絡まれたくもないのならば、残る手段は彼が飲む量を減らす事だけだ。そう判断し、ダレスはグラスを一気にあけた。
「おっ! 良い飲みっぷりですねぇ。どんどん行ってくださいよっ!」
「ありがとうございます」
 素直に受け取り、一気に飲み干す。
 つがれた酒も相当度数が高そうだったが、アルコールにはそこそこ強いから一本くらい開けても倒れる事は無いはずだ。
 とはいえ、ヨールと同じペースで飲み続けたら結構厳しいかも知れない。ならば、ピッチを遅くするために酒を飲む手を止めてやろうと、ダレスは言葉を投げかけた。
「それで、ヨール殿は日頃の鬱憤を誰かに語りたくて私を呼んでくださったというわけですか」
「鬱憤なんか溜まってませんよっ!」
 ダレスの言葉に、ヨールは眦を吊り上げて、強い口調で言い切った。
 だがすぐにその表情を幸せそうな微笑みへと変え、夢見るような口調で言葉を続ける。
「副隊長は、厳しいところはありますけど、優しいし、仕事は出来るし、綺麗だし。そんな人と一緒に仕事が出来て、嬉しいですよ。ここに来た当初は激しく後悔してましたけど、今はすんごく、来て良かったと思ってます。ダレスさんは?」
「私も、そうですね。来て良かったですよ」
「でしょう?! 傭兵の皆さんと話をするのはまだちょっと緊張するんですけど、そんな僕にも皆さん優しくしてくれて。ここで働けて、本当に幸せなんですよ。――――でも」
「でも?」
 ニッコニッコと零れんばかりの笑みを浮かべていたヨールが、突然口を噤んだ。
 そんなヨールに言葉の先を促すように声をかけると、彼はカッと瞳を見開き、もの凄い勢いでその場に立ち上がった。
「あの隊長が副隊長に手ぇ出してるなんて、許し難いんですよーーーーーっ!」
 バンッと両手でテーブルを叩いたヨールは、余程興奮していたのか、肩で大きく息を吐いている。そんな彼の剣幕に呆気にとられながら俯く男の顔を見上げていたら、ヨールは突然ダレスの胸ぐらを掴みあげてきた。
「だって、熊ですよ? 全然格好良く無いんですよ? そりゃぁ、普通の人よりも筋肉隆々で、背の高い副隊長よりも長身で、並べば体格面では全然良い感じかも知れませんけど。それでも、熊ですよ?! 砦の旗に自分の似顔絵を描いちゃうような男の、どこが良いんですかっ! 副隊長っ!」
 溜め込んだモノが余程重くて大きいのか、言葉を発するたびに胸ぐらを掴む手に力がこもり、ギリギリと首を絞められた。文官の力だけに死ぬ程の強さは無いが、それでも少々息苦しさを感じてうめき声を漏らす。
 相手が傭兵たちで、ここが執務室じゃなかったら速攻で振り払っていただろう。だが、相手は筋力に乏しい文官のヨールだし、密室と言っても過言ではない執務室だ。振り払うのは得策じゃない。そんなことをしたら、余計に興奮させて相手をするのが面倒になるだけだ。そう判断し、ダレスは冷静に言葉を返した。
「そう言うことは、副隊長本人に聞いてください。私には分かりかねますから」
「なに言ってるんですかっ! ダレスさんは副隊長にもっとも信頼されている男でしょう? 聞いてきてくださいよっ!」
「イヤですよ。馬に蹴られて死ぬような真似をするなんて」
「馬にって……っ! じゃあっ、じゃあっ、やっぱりあの二人は付き合ってるんですかっ?! なんでっ! 世の中にはもっといい男が居るのに………っ!」
 キィっ!と叫びながらギリギリと首を締め上げられ、ダレスは深く息を吐き出した。
 酒の力は凄いモノだ。真面目な人間をも狂人に変えてしまう。
 いや、普段真面目だから、酒を飲んだ事で抑圧されていたモノが一気に弾け、おかしくさせるのだろうか。
 現実逃避のためにそんな事を考えていたダレスは、ヨールがさっさと酔いつぶれてくれないものかと胸の中でため息を漏らした。
「なんだ、随分楽しそうだと思ったら、珍しい組み合わせだな」
 唐突に割り込んできた笑み混じりの声に、ハッと息を飲み込んだ。
 慌てて声がした方へと視線を向けると、いつの間にやってきたのか。一メートル足らずしか離れていない場所に、フリックが立っていた。妙に楽しそうな笑みを浮かべた、フリックが。
 一瞬思考が停止した。何故ここにフリックが居るのか、理解できなくて。
 ヨールは鍵をかけていた。見間違いでもなんでもなく、確かに。挙動不審な彼の行動はジッと見つめていたから、間違いない。
 なのに何故、今この場にフリックがいるのだろうか。
「――――副隊長、鍵は………?」
「うん? あぁ、あんなモノは針金一本でどうにでもなる」
「――――そうですか」
 何故傭兵がそんなスキルを持っているのですかと突っ込みたくなったが、止めておく。フリックの引き出しの多さに一々驚き突っ込みを入れていたら、話が進まない。
 そんな風にダレスが考えている間に、フリックは未だにダレスの首を絞めているヨールへと声をかけた。
「どうした、ヨール。今日はまた、随分と弾けてるな」
「ぁ、副隊長っ! おかりなさい!」
「ただいま。随分盛り上がっていたが、この酒盛りはお前の主催か?」
「はいっ! テーマは副隊長の趣味の悪さについてです」
「――――ほう」
 明るく、なんの衒いもなくサックリと告げた言葉に、フリックの片眉がピクリと跳ねた。
 発している気配が一瞬鋭いものになってヨールに突き刺さったが、気付いていないのか。ヨールは嬉々として言葉を続ける。
「副隊長程格好いい人が、隊長みたいな筋肉しか能がない人の傍らに落ち着いているのはいけないと思うんですよ。もっとこう、人類の目の保養になるべく、同じレベルの……というのは望みすぎですけど、っていうか、そんな人間がいるわけないのでそこまでは言わないですけど、とにかく、一般で認められるレベルの人と一緒になるべきです」
「そうか?」
「そうですよ」
「でも、そうなると俺はここの副隊長じゃなくなるぞ。良いのか?」
 からかうような口調に、ヨールはハッと目を見開いた。そして、ガッと力強くフリックの両腕を掴み取る。
「ソレは駄目ですよっ! 副隊長は副隊長じゃなきゃっ!」
「ビクトールの傍らに居ることになってもか?」
「この際、目を瞑ります」
「ソイツはありがとう」
 苦汁の選択を強いられたと言わんばかりの表情を浮かべるヨールの頭を、フリックは軽い手つきで叩いた。そしてニッコリと、満面の笑みを浮かべる。
「まぁ、なんにしろ。俺はあいつの隣に落ち着いたつもりはないから、安心しろ」
 そう口にした途端、ヨールの顔がパッと輝いた。
「本当ですか?!」
「あぁ。セットで考えられると腹立たしくて、そんなことを考えた奴を八つ裂きにしたくなる」
「ですよね〜〜〜。ぁ、副隊長も一緒に飲みましょうっ! 今日は俺が奢りますからっ!」
 嬉々としながら椅子とグラスをもう一つずつ用意し始めたヨールは、どこからともなく酒瓶をもう一本持ってきた。そして、フリックに手渡したグラスに注ぎ込む。
 さっきまでギャーギャー騒いでいた姿が嘘だったかのように、ニコニコと機嫌良さそうに微笑むヨールの顔を呆気にとられながら見つめた後、フリックへと瞳を移した。
 その瞳に、フリックがニヤリと笑いかけて来る。
「迷惑料だ。飲めるだけ飲んでおけ。ヨールの酒は、酒場にあるのと違って良い酒だぞ」
「――――そうですね」
 ソレは、飲んでいて分かった。味わうような飲み方をさせてはくれなかったが、それでも。多分、実家にいる頃に飲んだ記憶があるから、普段傭兵たちが飲んでいる酒よりも3ランクは上のものだろう。一気飲みではなく、じっくり味わって飲む類の酒だ。
 ヨールの奇行も収まった様だし。この先は落ち着いて飲めるだろう。そう考え、グラスに口を付けて一口飲み込んだ。
 さっきまで散々絡んできていたというのに、もう自分の事は眼中に無いらしい。ヨールはフリックに向かって楽しげに言葉を発していた。
 その姿を見ながら、深々と息を吐く。
 散々な目にあったなと、思って。
 とはいえ、なかなか楽しい一時でもあった。大勢で騒ぐのも良いが、こんな風に少人数で静かな空間で飲むのもたまには良いモノだ。首を絞められるのは、勘弁して貰いたいが。
 それに、フリックと杯を交わすことが出来たのだ。迷惑料としては申し分ないだろう。首を絞められたとはいえ、ヨールに感謝したいくらいだ。
 チラリと、視線を流す。傭兵たちの前に現れるときに見せるこわばった表情とは違う、リラックスした楽しげな表情を浮かべるヨールの顔へと。
 個人的な話をしたのは初めてだったが、結構楽しかった。今まで彼のことを意識したことはなかったが、身の内に面白そうなものを潜めていそうな気配を感じた。自分と同じように、志願してこの砦に来た男だ。もっと深く話をしたら気が合う気がする。
 今度は飲み過ぎない程度に酒を入れつつ会話をしよう。酒を入れない状態で会話をするのも良いかもしれない。
 そんな事を考えながら、フリックの端正な顔に視線を向けた。
 綺麗としか言いようのない顔を持った男だ。その容姿に貶せる点を見つける事は出来ない。なのに、戦場に立ったらもの凄く強い。戦場に立たなくても、その場にいるだけでその強さをビリビリと感じ取れる。
 だからと言って、常に殺気立っているわけではない。むしろ、常にその気配が乏しいのだ。気付くと傭兵たちに混じって訓練の様子を見ていたりする。すぐ傍らで。手を伸ばしたらすぐに触れられる位置で。なのに、その事に周りにいる人間たちが気付いていない。
 綺麗で、もの凄く人目を引くのに、簡単に人の中に紛れることが出来る。それくらい上手く、完璧と言っても良いくらいに自分の存在をコントロールできているのだ。
 そんな人間、初めて見た。
 自分がそうありたいと思っていた理想の姿が、そこにあった。
 ここに来て良かったと、強く思う。
 自分が理想とする人間が、この場にあるのだから。
 その人間から、いろいろな事を学び取れる環境にあるのだから。
「副隊長」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
 その言葉に、フリックは首をかしげた。礼を言われる理由が分からないと、言いたげに。
 そんな彼に、微笑み返す。

 ミューズの街で自分に出会ってくれて、ありがとう。
 進むべき道を標してくれて、ありがとう。

 そう、胸の内で呟きながら。













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