「少々お尋ねしてもよろしいでしょうか」
 前を行く男の背中を見つめながら、ビクトールは慎重に問いかけた。ここで聞き方を間違えると不興を買うことは、長い付き合いでわかっていることなので。
 いや、たとえ不興を買ったとしても、強い感情を長続きさせることがない前を行く人物が機嫌を損ね続けることはない。例えどんなに激しく怒り狂おうと、一発雷を放てばその後は何事もなかったかのように振る舞う男なのだ。
 だが、全く引きずらない訳ではないことが、長い付き合いでわかってきた。
 ことあるごとにチクチクと嫌味を言われるわけではない。機嫌が悪そうだなと思うような振る舞いをするわけでもない。だが、微妙に。気のせいかと思う事も難しい位ほんの少しではあるが、それでも確実に、平時とは雰囲気が変わる事があることに気付いたのだ。そう言うときは大抵、いつもだったら通る要求が通らなくなる。
 なので、できることなら不興を買うようなまねはしたくない。
 そんなビクトールの胸の内がわかっているのかいないのかはわからないが、前を行く男―――フリックが、歩を止めることもせずにちらりと、視線を向けてきた。
「なんだ?」
「なんでわざわざ、こんな道を選んで進んでいるのでしょうか」
 慎重に言葉を選びながら問いかけると、フリックは軽く片眉を跳ね上げた。なんでそんな質問が出るのかわからないと言いたげに。だが、機嫌を損ねるような事はなかったようだ。すぐに答えを返してくれた。
「お前が遠回りしたいって言ったからだろ」
「いや、確かに言ったけどよ……」
 当然の事をしたまでだと言いたげな態度と口調で返された言葉に、眉間に軽く皺を寄せながら言葉を零した。
 確かに、そう言う言葉を口にした。だが、今のような状況を望んで告げたわけではないのだ。
 こんな、道なき道を歩き回りたいという意味ではないのだ。
 深々と息を吐き出し、辺りに視線を振りまいた。
 自分たちが今居るのは、深い森の中だ。足下にはびっしりと草が生い茂っている。その下に何があるのかわからないくらい、もっさりと。なので、所々飛び出している岩に躓くこともしばしばで、その度に転びそうになったりしている。危うく周りの木に頭を打ち付けそうになったことも、一回や二回どころの騒ぎではないほどだ。
 人の足跡は一切見えず、目立った獣道もない。だが、確実にモンスターが彷徨き回っていることが分かる場所だ。
 そんな道なき道を、フリックはわざわざ選んで歩いている。人気がない方ない方へと。モンスターの気配を感じる道をわざわざ選んでいるとしか思えないほど、モンスターの気配を周りに感じ続ける道を。
「最近弛んでるからな。トレーニングも兼ねてこう言うところを歩くのもいいだろう」
 言葉を濁したビクトールが何を考えているのかなんて事は気にもかけていないのか。フリックはニッコリと、屈託無い笑みを浮かべながらそんな事を言ってきた。本当になんの裏もなく、ただトレーニング代わりに歩いているだけだと言いたげに。
 だが、そんな事があるわけがない事は、彼の口調と笑顔から嫌と言うほど簡単に読み取れた。
 深々と息を吐き出す。フリックは自分が何を望んで遠回りをしたいなんて事を言ったのかわかっていて、こういう行動に出ているのだ。
 前の街を出る時、前に請け負った仕事で得た金はまだ十分に残っていたから、急いで仕事を得られそうな街まで行く必要はなかった。だから、争いごとなど無縁そうなのんびりした街へと赴き、骨休めがてらにデートでもできればなと、思ったのだ。そう思って、遠回りをしようと言ったのだ。少し足を伸ばした先に、リゾート地として有名な街があると言う話を聞いていたから。
 行きたい街の名を具体的に出さずに提案した遠回りの案に、フリックは驚くほど簡単に乗ってきた。だったらルートは自分に任せろと言って。
 だからてっきり、口にしなかった自分の考えを読み取り、賛同してくれたものだと思って喜んでいたのだが、ふたを開けてみるとのんびりリゾートどころか、気が抜けない状況に陥らされている。
 自然と顔に不満の色が広がった。何年経っても自分に対する優しさというモノを見せてくれない男だと、思って。
 そんなビクトールの表情の変化を目にしていたフリックが、ものすごく楽しそうに笑い返してくる。
「なにをそんなに不満そうにしてるんだ? お前が常々望んでいた、周りに邪魔をするモノがない二人っきりの状況を作ってやったって言うのに」
「なにって、だってよ。これだとお前の背中しか見えねぇじゃねぇか」
 足を止めてこちらに向き直り、からかう気満々に告げられた言葉に、ビクトールはふて腐れた表情を浮かべながらそう返した。
 不満がないと答えておいた方が穏便に事が運ぶことはわかっているが、それでも一つくらい文句は言っておきたくて。
 その言葉に、フリックは軽く瞳を瞬いた。どうやらそんな切り返しが来るとは思っていなかったらしい。
 と言うことは、不興を買うことはないだろう。そう判断し、言葉を続ける。
「それに話もしづらいしよ。折角ふたりっきりなのに顔も見れなきゃ話もできないなんて、地獄も良いところだぜ。こんな状況よりも、二人一緒に牢屋につながれてた方が俺にとっては天国だ。あぁ、もちろん、牢屋は向かいの部屋だけどな」
 続けて発した言葉に、フリックは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべて返してきた。だが、すぐにクスリと小さく笑い返してくる。
「まぁ、確かに、話しづらくはあるな」
 小さく頷きながら返された言葉には、負の感情は欠片ほども読み取れない。むしろ楽しそうな気配を感じる。その事に内心でホッと胸を吐き出しつつ、縋るような眼差しを向けた。
「だろ? だから、並んで歩けるような道を選んで貰いたいってーのが、俺のささやかな希望なんだが。それくらいの望みは叶えてくれねぇか?」
「そうだな」
 目的地は、今更期待しないからと胸中で呟きながら告げた言葉に、フリックは予想外にあっさりと頷き返してきた。
 どうやら積極的に山道を歩きたいと思っていたわけではないらしい。いや、トレーニングを終了しても良いと思えるくらいに時が流れていただけかも知れない。
 何にしろ、この状況を脱出できることは喜ばしい。思わず顔がほころんでしまった。
 そんなビクトールの表情の変化を目にしたフリックが、再度小さく笑みを零した。
「街道の方に向かうぞ」
 笑みの滲む声でそれだけ言うと、フリックは迷い無い足取りで進み始めた。立ち止まる前まで身体を向けていたのとは、違う方向へと。
 どこをどう歩いているのかさっぱりわからないビクトールと違って、フリックには自分の居場所がはっきりとわかっているようだ。そんなフリックの背中を見つめながら歩を進めつつ、首を傾げる。この辺りの地図を見た記憶はないのだがと、思って。
 いや、ビクトールが見ていないだけで、フリックは見たことがあるのかもしれない。気づかないところで様々な情報を手に入れている男の事だから、それは大いにあり得ることだ。
 何の迷いも疑いも無くフリックの後を着いていくと、徐々に目の前が開き始め、獣道くらいならば認識できるようになっていった。そうこうしている内に、ドンドン木々の密集度合いも薄くなってくる。
 そろそろ並んで歩いても問題は無いだろう。そう判断した所で歩を早め、フリックの傍らに並んだ。
 隣に並んだ途端、フリックがちらりと視線を向けてきた。そして小さく口元に笑みを浮かべる。
 バカにしたものではない。ちょっと柔らかな印象のある笑みだ。そんなフリックにニカリと笑い返してから、視線を前に向ける。
「やっぱ、歩くならこの位置だよな」
 喜色に満ちあふれた声でそう告げると、フリックはほんの少しだけ口端を引き上げた。同意するでも、否定するでもなく。だが、否定してこないのは肯定の印であることは、分かっている。
 自然と顔に笑みが浮かび上がってきた。昔に比べるともの凄く良い関係になっているなと、思って。
 他愛の無い話をしながら歩を進めてどれくらい経っただろうか。フリックの眉間に軽く皺が寄った。
 フリックがそんな反応を示すときには、必ず何かがある。自然とビクトールの気も引き締まった。
「どうした?」
「騒がしい気配がある」
 問いかけに、フリックは端的な答えを返してきた。
 その答えで、争いごとの気配があることはわかった。だが、何が争っているかまでは、読み取れない。
「モンスターか?」
「いいや。人の気配だ。この辺りに山賊が現れると言っていたから、誰かが襲われてるんだろうな」
 そう言いながら、フリックはある一点に視線を向けている。どうやらそちらの方向に気配の元が居るらしい。
「距離と人数はわかるか?」
「距離はお前の足で全速力で走って五分ってところかな。人数は三十前後くらいだろう」
「俺の足でってわざわざ付けるんじゃねぇよ」
 ムッと顔を歪めながら気にくわない部分への突っ込みを入れたビクトールは、争いごとが起こって居るであろう場所に向かって走り出そうとした。襲われて居るであろう人達を、助け出しに行くために。別に行く必要はないのだが、見つけてしまったのも何かの縁だから助けておこうと、思って。
 ビクトールがそう思う事を予測していたのだろう。フリックは、走り出そうとしているビクトールを止めようとはしなかった。むしろ、自分も一緒に現場に赴こうとしている。一緒に旅をし始めたことは、余計な事に首を突っ込もうとする度に嫌そうな顔をしていたモノだが。
 昨日のことのように思い出せるのに、もの凄く昔の事に感じる過去を思い出しながら口元に小さく笑みを浮かべたところで、一つの考えが脳裏に浮かび上がった。
「なぁ、フリック。俺一人で全員倒せると思うか?」
 唐突に向けた問いに、フリックは不思議そうに首を傾げた。そんな質問を寄越してくる理由が思いつかなかったのだろう。それでも、答えを返してくる。
「相手の力量にもよるだろう。相手が弱ければ倒せるだろうし、強ければ倒される」
 そんなことは当たり前の事だろうと言いたげに見つめ返してくるフリックに、ニヤリと笑い返した。そして、悪戯を思いついたガキの様な笑みを浮かべつつ、言葉を発する。
「なぁ、フリック。一つ提案があるんだが」
「提案?」
 ビクトールの言葉に、フリックは不思議そうに首を傾げた。四十間近の男とは思えないほど、可愛らしい仕草だ。思わずこの場で抱き締めたくなるくらいに。
 だが、その衝動はグッと堪える。このタイミングでそんなことをしたら機嫌を損ねることは分かっているので。
 そんな胸中の葛藤を表に出さないよう気を付けつつ、大きく頷き返す。
「おう。その山賊共を俺が一人で倒せたら、今日一日俺が喜ぶサービスをしてくれるってのは、どうよ?」
 そのサービスがどんなものかは、あえて細かく口にしなかった。しなくても自分がどんなことを望んでいるのかなんてことは、簡単に分かるだろうから。
 ニッと口端を引き上げて笑いながら返事を求めてフリックの顔をのぞき込むと、彼は静かな瞳で見つめ返してきた。ビクトールの胸の内を読み取ろうとするように。そして、軽く首を傾げながら問い返してくる。
「倒せなかったら?」
「お前の言うことをなんでも聞いてやるよ」
「―――俺には欠片ほどもメリットが無い話だな」
「おいっ!」
 面白くなさそうに告げられた言葉に、ビクトールは本気で突っ込みを入れていた。そんなビクトールに馬鹿にするような視線を向けてくるフリックの態度で、話に乗ってくる気はないんだなと判断したビクトールだったが、どうやら読み間違えていたようだ。フリックは軽い仕草で頷き返してきた。
「良いぜ。その話に乗ってやっても」
「マジでっ?!」
 予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げていた。そんなビクトールの反応に小さく笑みを漏らしたフリックが、あっさりと頷き返してくる。
「あぁ。ただし、俺が現場に到着するまでにっていう条件を付け加えさせてもらうがな」
「問題ねぇ」
 付け加えられた言葉に、力強く頷き返す。そしてニヤリと、笑い返した。
「そうとなったら、とっとと行かないとな。あぁ、お前は走ってきたりするなよ?」
「良いぜ。通常の歩行スピードで向かってやる」
「よし。んじゃあ、先に行ってるぜ!」
 軽く右手を振りながら、全速力で駆け始める。嘘をつかない男だから、通常歩行で行くと言うのならば間違いなく通常歩行で来るだろう。だが、フリックは普通の人よりも早足なのだ。少しでも時間を稼いでおかなければ。
 走り始めて数分で、ビクトールにも争っている気配が感じられるようになってきた。
 細かい事はわからないが、フリックが読んだように敵は三十人程度いるようだ。
 一対三十。楽な勝負じゃないが、やってやれないことはない。相手が自分と互角レベルの奴らばかりだったりしたら、かなりどころか相当きわどいが。
 まぁ、そんな奴らがゴロゴロ居るわけがないから、大丈夫だろう。
「―――さくさく倒して、フリックにサービスしてもらわなぇとな!」
 ニヤリと口端を引き上げて笑いながら、森を飛び出し街道へと足を踏み入れた。そして、そこに集まっている人間共を視界に入れる。
 あからさまに悪い事で生計を立てていますと言わんばかりの風貌をした男達が、一台の小さな幌付き馬車を囲んでいる。その馬車の近くには、まだ少女と言っても良い年頃の娘の姿が。
 その少女が、山賊と思しき男と争っている。大人しく恐怖に震えていれば良い物を、何かを必死に訴えているようだ。
 そんな少女が鬱陶しく感じたのだろう。山賊の一人が、少女の頬を力一杯はたいた。
 殴られ慣れていないのだろう軽そうな身体は、その一発で簡単に地面に転がった。
 結構いい音がしていたから、華奢な体つきの少女には相当ダメージが与えられただろう。これは気絶したかなと思ったが、少女は直ぐさま起き上がった。そして、再度男へとすがりつこうとする。
 ニヤリと、口端を引き上げた。
 相手の方が強いと分かっているのに、それでも諦めずに立ち向かう人間は好きだなと、思って。
 助けてやる価値は十二分にある人物で良かったと、思って。
 足を一歩前へと踏み出した。未だに自分の存在に気付いていない馬鹿共達の前に、姿を現すために。
 そして、大きく息を吸い込む。
 山賊共に向かって、言葉を放つために。













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