昼過ぎというか夕方前というか。どっちにしろ中途半端に違いない時間にようやく仕事を片づけられたフリックは、一息つくために階下へと足を運んだ。
 食事を取ろうと思うほど腹は空いていないし、酒を飲もうと思うほど夜が更けている分けでもない。食堂に行ったところでやることはないのだが、あの場所には女主人であるレオナが居るはずだ。
 かき入れ時前で忙しいかも知れないが、一人でぼうっとしているよりは忙しく立ち働く彼女の姿を見ていた方が息抜きになりそうだ。そう考え、階下に降り立ったフリックは、レオナの姿を探して食堂内へと視線を向けた。
「あれ?」
 いつもレオナが居る場所に彼女の姿が無く、思わずそんな呟きを漏らしてしまった。一瞬出かけているのかと思ったが、この時間に彼女が店を離れるとは思えない。改めて食堂内に視線を巡らせたフリックは、奥まった場所に彼女の姿を発見した。
 彼女は視線を俯け、手元にある何かを見つめながらブツブツと呟いている。何か問題でもあったのだろうか。
 近づいてみると、彼女の呟く声が聞こえてきた。
「うーん・・・・・・。どうしたものかねぇ・・・・・・。」
「どうしたんだ?」
「きゃっ!!」
 レオナが一生懸命見つめている手元を覗き込みながらそう声をかけると、レオナは飛び上がって驚いてみせる。
 慌てたように顔をこちらに向けてきたレオナは、そこにいるのがフリックだと分かった途端、ホッと息を吐き出した。
「な、なんだい。フリックかい・・・・。驚かさないでおくれよ、まったく!」
「悪い。そんなつもりは無かったんだが。」
 目をつり上げ気味にそう抗議の声を上げてくるレオナに、フリックは苦笑しながら軽く頭を下げる。
 気配無く立ち回る事が習慣となっているフリックには、自分の存在を主張するように気配を発しながら歩くと言うことが出来ないのだ。いや、やろうと思えば出来る事はできるのだが、それをやると妙な神経を使ってものすごく疲れるから、やりたくは無いという方が正しいかも知れない。そんなわけで、気配なく近づいた事を非難されても、『次からは気を付ける』とは返せない。絶対にまた同じ事をするから。
 そんなことはレオナも分かっているのだろう。そう言う言葉を言ってこようとはしなかった。そんな彼女に、フリックは再び手元を覗き込みながら問いかけた。
「で、さっきから何をやっているんだ?」
「ああ、これだよ。」
 フリックの問いかけに、レオナは小さな瓶を摘み上げて見せた。
 赤い色の液体が入った、数センチ程度の小さい瓶を。
「マニキュアか。それがどうしたんだ?」
「おや。あんたがマニキュアを見ただけで分かるなんて、意外だね。」
 言葉の通り、驚いたように目を見開いてくるレオナの様子に、フリックはムッとした顔を作って見せた。
「それくらい分かるさ。馬鹿にするな。」
「そうだよね。一応、彼女が居たんだもんねぇ。」
 からかうような視線に、フリックはギュッと口を噤んだ。
 オデッサの事は、滅多なことでは口に出さないようにしているから。
 彼女の話題が出たとき、彼女との関係が深かったと噂されている自分が口を噤めば、周りに居る人達は皆、その話を避けてくれる。それは、経験上分かっている。図々しいことこの上ないビクトールでさえそうなのだ。
 オデッサと自分の仲は、皆が想像しているものとは違う。だからといって、彼女の事を軽々しく話して欲しいとも思わない。彼女と自分との関係がどんなものだったにしろ、彼女のことは今でも気に入っているのだから。
 そんな空気がレオナにも伝わったのだろう。彼女はそれ以上オデッサの事を口にしては来なかった。
 その代わり、話題を元に戻して話しかけてくる。
「いつもはピシっと決まるんだけどね。今日はなんだか調子が悪くって、旨く塗れないんだよ。」
 少し苛ついたようにそう言いながら、レオナが塗り終わったばかりのマニキュアを除光液で拭い去っていく。
 確かに、いつも塗っているとは思えない位に綺麗に色がかぶせられている長く綺麗な爪に、今日は少し筋が付いている。とは言え、良く見たら分かるという程度で、気にする程の事は無いと思うのだが。
 フリックがそう思っても、レオナは気になるらしい。女という生き物は色々と大変だと、心の中でそっと呟く。
「ったく。仕事はこれからだっていうのに、気合いが入らないったら・・・・。」
 ブツブツ文句を言いながら小瓶を手に取るレオナの様子に、 フリックは小さく笑みを零した。そんなイライラしながら細かい作業をしていたら、旨く行くはずだった作業も失敗すると言うものだ。
 赤い鮮やかな液体は、見ただけでも質の良いものだと言うことが分かる。かなり値がはるものだろう。それを無駄に消費させるのもしのびない。日頃の感謝の気持ちも込めて、ここは一つ手助けしてやろうか。
 そう思ったフリックは、今まさにマニキュアを塗り始めようとしているレオナへと、己の右手を差し出した。
「なんだい?」
 その手を訝しげに見つめてきたレオナに、フリックはニッと唇の端を持ち上げて笑いかけた。
「塗ってやるよ。」
「え?」
 キョトンと自分の顔を見上げる顔は、いつも自分の事をからかうような笑みを浮かべているレオナとは思えないほど幼く、可愛らしかった。そんな思いがけない表情を見られただけでも、この提案をした価値があったというものだ。
 なんとなく機嫌を良くしたフリックは、呆気に取られているレオナの手から奪うようにして小瓶を取り上げた。
 その小瓶から刷毛に液体を染みこませたフリックは、未だに事の展開に付いてきていないレオナに向かって己の左手を差し出した。
「レオナ、手。」
「あ・・・・・・うん。」
 思わずと言った感じで差し伸べられたレオナの手を左手で受け止めたフリックは、その細く綺麗な指の先に付いた整えられた爪に、真っ赤な色をのせていった。
 己の剣を、『オデッサ』を手入れしているときと同じくらい、慎重に。
「・・・・・・・・・旨いもんだねぇ・・・・・。」
「お褒めにあずかり、光栄だね。」
 いつものレオナの爪と寸分違わぬ綺麗さで色をのせていけば、彼女は感心したように呟きを漏らしてきた。フリックはそれに軽い調子で言葉を返しながら、しかし、手元に意識を集中させている。
「よし。じゃあ、もう片方。」
「はいよ。」
 片手を終了する頃には、フリックにマニキュアを塗られるという行為に慣れたのだろう。レオナは何の抵抗も無く逆の手を差し出してきた。
 その爪にも、先ほどと同じように綺麗な赤をのせていく。
「はい、終了。」
「ありがとよ。」
「どういたしまして。いつも皆が世話になっているからな。ささやかながら、感謝の奉仕だ。」
 そのフリックの言葉に、レオナはクスリと笑いを零して見せた。
「ふふ。あんたにマニキュアを塗って貰えるなんて役得を得られるなら、あの馬鹿共の相手も悪くないねぇ。」
「そうか?」
「そうだよ。女って言うのはね、良い男に傅かれるといい気分になれるもんなんだよ。」
 ニコッと、何かを企んでいるような含みのある笑みを浮かべるレオナに、フリックも似たような笑顔を浮かべ返した。
「なら、今度は足の爪も塗ってやろうか?」
 その言葉はさすがに思いがけないものだったのだろう。一瞬目を見開いたレオナだったが、すぐに軽やかな笑い声を辺りに響かせた。
「そいつは良いねぇ。是非とも、やって貰いたいね。」
「良いぜ。今度手が空いたときに声をかけるよ。」
 そう言いながら、フリックは未だに塗料が乾かない指先をもう一度手に取り、その指先に軽く息を吹きかけてやった。
 その途端、入り口付近からけたたましい叫び声が響き渡った。
「てめーらっ!何してやがるんだっ!」
 その声に、二人は弾かれた様に視線を入り口に向けた。そこには、怒りで肩を震わせながら、その場に仁王立ちしているビクトールの姿があった。
「何って・・・・・・。」
 その形相に度肝を抜かれ、彼が何について怒っているのか理解する事が遅れてしまった。その僅かな間にずかずかと大股で二人に近づいてきたビクトールは、フリックの腕に手をかけたかと思うと、勢い良くその身体をレオナから引き離した。
「・・・・おい?」
「いいからっ、とっとと離れろっ!!」
 その怒声で、彼が何に対して怒っているのか漸く理解出来た。
 どうやら嫉妬していたらしい。熊の分際で。
「いったい何をやっていたんだっ!お前等はっ!」
 レオナもその事に気が付いたのだろう。怒鳴るビクトールに、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「何って。そんなこと、あんたには教えられないねぇ。勿体なくって。」
「なっ!!!」
「そうだな、お前が首を突っ込む事では無いな。」
「おいっ!フリックっ!」
 慌てるビクトールの事をワザと視界から排除したフリックは、レオナに向かってニッコリと笑いかけてみた。
「じゃあ、夕飯前にちょっと外に出てくるよ。」
「行ってらっしゃい。アノ事、頼んだからね。」
 狼狽えているビクトールを煽るようにそんなことを言ってくるレオナに、フリックは共犯者の笑みを送り返した。
「分かっている。任せておけ。」
「おいっ!フリック、待てってっ!」
 騒ぐビクトールの事など目もくれず、フリックはさっさといつ愚痴へと足を向けた。
 ビクトールのことは、レオナが良いように弄ぶことだろう。
「人に面倒な仕事を押しつけて遊びほうけている、罰だ。」
 クスリと笑みを零しながらドアを開け放つと、肺に新鮮な空気が流れ込んで来た。
 執務室の換気はちゃんとやってはいる。やってはいるが、やはり本物の外の空気の方が旨い。
 新鮮な空気を満喫したフリックは、そっと視線を上向けた。
 そこには、落ちかけた太陽が真っ赤に染め上げられていた。
 さっき塗ったマニキュアのように赤い色に。
「・・・・・・綺麗だな。」
 誰に言うともなく呟かれた言葉は、不意に吹いた風によって運ばれていった。




























うちのフリックさんは紅が好きそうです。
















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マニキュア