海図を書くのに夢中になっていて、ふと気付くと日付が変わってから随分と長い時間が経っていた。
チラリとベッドの方へと視線を向けてみれば、ロビンが静かな寝息を立てている。その彼女が起きないように気を付けつつ大きく身体を伸ばしたナミは、肩の凝りをほぐすために首を二三度左右に倒してから、ゆっくりとその場に立ち上がった。そして、気配を殺して部屋を出る。
「――――はぁ」
甲板に出て大きく息を吐いた。頑張りすぎたのか、かなり遅い時間だというのに妙に目が冴えていて、眠れそうにない。
「――――コーヒーでも煎れようかしら」
そんなモノを飲んだら余計に眠れなくなるが、このまま朝まで起きておいて、朝食をとった後に軽い睡眠を取った方がよく眠れる気がするし。
よし、そうしよう。
「サンジ君が煎れたコーヒーが飲みたい所だけど……」
自分の我が儘のために、人一倍働いている彼を夜中にたたき起こす訳にはいかない。今回は諦めよう。その代わり、キッチンで彼が起き出してくるのを待って、朝食は自分のリクエストに応えて貰おう。
「何にしようかなぁ………」
昨日は焼きたてのバターロールだった。あのふんわりとした食感も暖かさも香ばしい臭いも捨てがたいが、たまには和食も良いだろうか。
炊きたての白米にみそ汁。出汁のきいた卵焼き。
考えただけでもお腹が空いてくる。
「ほんと、サンジ君が居て良かったわ」
こんなに食生活の充実している船はないだろう。豪華客船だって、彼が作る程素晴らしい料理を出してはくれまい。
ルフィは本当にいい人を見つけて船につれて来てくれた。人としてどうかと思う所は多々ある男だが、人を見る目だけはやたらと良い事だけは認めねば。
そう胸の内で呟きながら階段に足をかけたナミは、キッチンの窓から灯りが漏れていることに気付いて首を傾げた。
「――――もう朝食の準備をしてるのかしら」
いや、それには少々どころかかなり時間が早すぎる。いくら作る量が尋常では無いとはいえ、さすがにこの時間から起き出してはいないだろう。
「徹夜で新メニュー作りでもしてるのかしら」
その考えには、納得できた。料理にかける情熱がもの凄く強い彼のことだ。夢中になりすぎて時の流れを忘れているのかもしれない。
自分と同じように。
その彼の作業を邪魔しては悪いだろうかと、ふと思った。だが、新メニューがどんなものか気になる。もしかしたら、誰よりも先に試食させて貰えるかも知れない。
そう考えた途端、お腹から小さな声が聞こえてきた。
素直すぎる自分の反応に苦笑をしながら、ナミは軽い足取りで階段を上がった。深夜だから、足音は消して。
自分の足音程度で眠りを妨げられるような繊細な心を持った人間は、この船には居ないけれど、一応。
「サンジ君。遅くまでご苦労さ…………」
ドアを開け、にこやかな笑顔でそう口にしたナミは、求めていた人物がその場に居ないことに気付いて首を傾げた。
「――――あら?」
灯りがついているのに誰もいないなんて、おかしい。小さい頃から船に乗っているからか、サンジは燃料の扱い方がキッチリしている。どんなに疲れていても、火の始末や灯りの始末はしっかりとするし、無駄な燃料は使わない。
「見張りのゾロが付けっぱなしにしたのかしら………」
ソレは大いにあり得ると、ナミは力強く頷いた。
「明日はリンチね」
寝不足だからいつもより力が入らなくてたいしたダメージを与えられないかも知れないが、ちょっと声をかけたらサンジが喜んで加勢してくれるだろう。いや、声をかけなくても加勢してくれるだろう。寄ると触ると喧嘩ばかりしている二人だから。
期待したモノが無かったのは少々残念だが、最初はコーヒーを飲むだけのつもりだったのだ。予定通りにコーヒーを飲むだけにしておこう。そう考え、ナミは室内に一歩足を踏み入れた。
そして、気付く。
人の寝息が聞こえてくることに。
慌ててその方向に視線を向ければ、床に投げ出された黒いスーツに包まれた長い足が見えた。その先を視線で辿れば、安らかな寝息を立てながら眠りこけるサンジの顔が。
「―――こんな所で寝るなんて、よっぽど疲れてるのかしら」
だったら起こして部屋に帰すよりも、このままここで寝かせておいた方が良いのだろうか。そう思い、とりあえず毛布だけでも掛けてあげようかと近づきかけたナミだったが、すぐにその足を止めた。なんとなく、違和感を感じて。
その違和感の正体を確かめるべく、眠り込むサンジの姿を凝視して、気付いた。
彼が、何か太いモノを枕にしている事に。
その枕がなんなのだろうかと視線を流してみると、壁に背を預けた体勢で瞳を閉じているゾロの姿が目に入ってきた。
「――――え?」
目にしたモノが信じられず、ナミは思わずそう呟いていた。そして、慌てて口を手で押さえる。
「なに、これ?」
そう、胸の内で呟く。
寄ると触ると睨み合い、本気で殺し合っているのかと思う程激しく喧嘩をしている二人が、仲良く寝こけている。
しかも、ゾロがサンジに膝枕なんてモノをしているのを見た日には、驚きに目玉が飛び出すというモノだ。
なんの弾みでそうなったのだろうか。想像を絶する。
いつも眉間に縦皺が入っているゾロが、微妙に微笑んで居るっぽいのも不気味だ。
あまりの不気味さに目を離したかったが、何故か事細かに観察してしまったナミは、ゾロの微笑みよりも恐ろしいものを目にしてしまった。
小さく息を飲む。
そして、ソレをマジマジと見つめた。
ゾロとサンジが、互いの指を絡め合うようにして握り混んでいる、手を。
日に焼けたゾロのごつい手に絡め取られたサンジの手が、妙に白くて、細くて、頼りなく見える。
実際は重い包丁も軽々と扱えるくらいに逞しい手である事を、知っているのに。
意識せぬままヨロリと、足が後退した。そして、背後の椅子に足を引っかけ、静かな室内にガタリと大きな音を響かせる。
「――――んっ…………」
その音を耳にしたのか、それまで気持ちよさそうに眠っていたサンジの眉間がピクリと動いた。
微かな声を、漏らしつつ。
「ひぃっ!」
内心でそう叫んだナミは、足音を立てないよう細心の注意を払いながらも、脱兎の如く駆けだした。
そしてそのまま真っ直ぐ、駆けるスピードを落とすことなく、格納庫に駆け込む。
勢いよくドアを閉め、そのドアに背中をもたれかけた。
たいした距離を走ったわけでもないのに、心臓がもの凄く早く脈打っている。額からは、ダラダラと止めどなく、冷や汗がしたたり落ちてきた。
「なっ………なんだったの、アレ………?」
ガクリと膝を落としながら、呟いた。
普段の彼等からは想像もできないくらい甘い空気が流れていた。トゲトゲしさなど、欠片もなかった。顔を合わせる度にくだらない喧嘩をして船のどこかしらを壊している奴らの面影など、どこにもなかった。
暫し、考え込む。
アレがなんだったのかと。
見間違いではなかったのかと。
見間違いではないなら、なんであんな事になっていたのかと。
「――――忘れよう」
自分に言い聞かせるように大きな声で言葉を発し、大きく頷く。
いくら考えても行き着く答えは一つしかなかったので。
相手を貶められたり、からかえたりするネタなら覚えておきたいところだが、多分、そんな事には使えない。
いや、使えるかも知れないが、本人達が何も言ってきていない以上、知らない振りをしておいてあげるのが仲間としての優しさではないかと思う。なにしろ、狭くて小さい上に少人数しか乗り込んでいない船なのだから。
とはいえ、自分の胸にだけ秘めていたら居たたまれない気分になりそうだし。おもしろおかしく吹聴して歩くのはどうだろうかと思うものがあるし。忘れるのが一番だ。忘れられるかどうかは、わからないけれども。
「――――早く寝よう」
ボソリと呟きを漏らす。
アレは夢だと思っておこうと、そう思って。
そう思うのに、脳裏には二人の絡まった指がはっきりと浮かび上がってくる。
日に焼けた太くてたくましい指と、白くて細い指が絡まっている様が。
多分、しばらく忘れられないだろう。
二人の手を、指を見る度に思い出すに違いない。
それぐらい、インパクトの強い光景だった。
だけど、不快感は感じない。
そんな自分を不思議に思いながら、ナミは静かに自室へと戻っていった。
二人の眠りが安らかな者であればいいと、願いながら。
《20090323》
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