「前々から聞きたかったんだけど、なんでシグレさんって、そんなに前髪長くしてるの?」
 湯船に浸かり、旅の疲れを癒しながらボンヤリしていたシグレは、不意に傍らからかけられた言葉にチラリと視線を横に流した。
 その視線の先には、ニコニコと楽しげな笑みを浮かべているリヒャルトの姿がある。
「………なんだって?」
「だから、なんでそんなに前髪長いの?」
 突然投げかけられた質問の意図が分からず問い返すと、リヒャルトはニコニコと問いかけ直してくる。
 その笑顔を見て、軽く眉間に皺が寄った。一見屈託無く微笑んでいるように見えるその笑顔に、サギリに似た気配を感じて。
 ソレを感じたのは、今だけではない。共に遠征に赴くことが多くて言葉を交わす事が多いのだが、そのたびに感じている。
 彼の過去に何があったのかは知らない。だが、多分彼も、そう言う顔をする事しか知らないのでは無いだろうと、推察出来た。サギリと同じように。だから何となく気にはなっているのだが、他人の問題に首を突っ込む程お人好しではない。これ以上気にかけないようにするためには、無駄に会話をしないに限るだろうと判断し、シグレはスイッと視線を反らした。
「お前には関係無いだろ」
「うん。関係はないけど、気になったから」
 興味なさげな態度でサクリと返し、これ以上会話をするつもりが無いと言う意思を態度で示したのだが、リヒャルトは少しも気にした様子はなく、変わらぬ声音で言葉を返してくる。そして、視線を外したシグレの横顔をジッと見つめてくる。
 殺気があるわけではない。だが、何かを探られているようなその視線に軽く苛立ちがつのってくる。彼が何を言いたいのか、何をしたいのかが、さっぱり分からなくて。
 と、突然。リヒャルトがクスリと軽い笑みを零した。
 作った物ではなく、心から零された気配があるその音に、外していた視線を思わず傍らへと戻してしまった。その視線の先に、楽しげな笑みを浮かべているリヒャルトの顔が映る。
 なんでそんな表情を浮かべるのか意味が分からず、眉間に刻み込まれた皺が更に深くなった。そして、訝しんでいる気配が如実に表れた声音で返す。
「……なんだ?」
 短い問いかけに、リヒャルトは軽く眉を跳ね上げた。そして、クスクスと笑いながら言葉を返してくる。
「いや、シグレさんって、怒りの表情とイヤそうな表情は上手だなぁと、思って」
「はぁ?」
「逆に楽しいとか悲しいとかって表情は苦手でしょ」
 サクリと、屈託無く返された言葉に一瞬言葉を飲み込んだ。そして、僅かに瞳に力を入れて目の前の少年を見つめる。
 何を言いたいのだと、その眼差しで問いかけるように。
 向けられた視線の意味に気付いたのか。少年は一度笑みを深くした。そして、楽しげな声で続けてくる。
「楽しいとか、嬉しいとか悲しいとか。そう言う表情を浮かべる方が、穏便に物事を進められる事の方が多いのにね。損な性分だよねぇ」
「……何が言いたいんだ?」
「別になにも? 思ったことを言っただけだけど」
 ニコッと笑いかけてくる少年の顔からは、心の裏を読み取れない。裏などないようにも見えるが、この若さで数多の死線をくぐり抜けてきた少年だ。油断は出来ない。
 暫し考える。どう返したら、適当なところで少年の意識をこちらから反らすことが出来るのだろうかと。
 だが、結局上手い考えが浮かばず、訳の分からないことを言われて不愉快だと言う空気を全身から発しながら、スイッと視線を反らすに止めた。
 人なつっこそうに見えてそうではない少年だ。そう言う態度に出ればそれ以上突っ込んでこないだろうと思ったのだが、今日は人に構いたい気分だったのだろうか。空いていた距離を詰めるように湯船の中を移動してきたリヒャルトは、肩が触れあう程近くに腰を下ろし、シグレの顔を覗き込んできた。
「……たまにだけどね。マイナスな表情ばかり見せてるところが、なんとなーく、ミューラーさんに似てるかなぁとか、思うんだよねぇ」
 告げられた言葉に、リヒャルトの上司の顔を思い出す。
 確かに、彼は常日頃から仏頂面をしている。彼が笑顔を浮かべて大笑いしている様というのは、ちょっとどころかかなり想像出来ない姿だ。
「笑うと絶対に可愛いと思うんだけどねぇ……なかなか笑ってくれなくて」
 スッと視線を落として悲しげな表情を浮かべるリヒャルトは、どう考えても本気でそう言っているようにしか見えなかった。
 どこからどう見ても、どうお世辞を言おうにも、可愛いという形容詞が似合うわけがない馬鹿でかいオッサンを可愛いと言うのはどうだろうかと思ったが、言い返したら血を見そうな気がするので黙っておく。
「なんとかして笑って貰いたいと思うんだけど、下手な事をしたら笑うどころか余計に怒られちゃいそうで、なにも行動起こせないんだよねぇ。ホラ、僕って結構ウブだから」
「………へぇ」
 どう突っ込んで良いのか分からず、適当に相づちを打っておく。
「だから、練習しようと思うんだ。自分の腕に自信を持てたら、ウブな僕でも大胆な行動が出来る気がするから」
「………へぇ」
 面倒くさくなってきたので、目もあわせずに相づちだけ返す。さっさとこの無意味な会話に飽きてどこぞに行ってくれないだろうかと、願いながら。
「だから、付き合って」
「へぇ……………………あ?」
 リヒャルトの言葉をまともに聞きもしないで頷き返したところで、何か妙な事を言われた気がして意識を現実に引き戻した。
 そこで、ギョッと目を剥く。
 リヒャルトが、裸の両肩に手を伸ばし、壁に身体を押さえつけてきたために。
「ちょっ………なっ、何やってんだよ、お前っ!」
「何って、だから、練習台になってって」
「はぁっ?! なに訳の分からないこと…………!」
 至極当然の事を言っていると言わんばかりにあっさりと返してきたリヒャルトに怒鳴り返し、何とかその身体を引きはがそうと抵抗を始めたシグレだったが、年齢はこちらの方が高くても、筋力は相手の方が上なのだ。思うように引きはがすことが出来ない。引きはがすどころか、逆により一層巧妙に押さえ込まれてしまった。
 だが、持てる技術を駆使すれば逃れられないこともない。そう思い、普段あまり使わないスキルを使ってその拘束から逃れようとしたところで、再度目を剥いた。
 リヒャルトの手が、あらぬ所に伸びてきた事に気付いて。
「ちょっ………なにやってんだっ!」
「何って、気持ちいい顔をしてくれそうなことをしようかなぁって」
「馬鹿かてめぇっ! ここをどこだと………っ!」
「どこって、お風呂でしょ」
「分かってるならんな事すんじゃねーーーっ!」
「やだなぁ、シグレさんって、結構常識派?」
「お前が非常識すぎるんだろうがっ!」
「まぁまぁ。気持ちよくなったらまわりなんて気にならなくなるからさ」
「ならなくなるかっ!」
 必死に抵抗するシグレの動きを難なく制止ながら、リヒャルトはニコニコと言葉を返してくる。強硬手段に出ようにも、あらぬ所を抑えられているので出るに出られない。睨んでも怯まないし、殺気を発しても怯まない。戦場慣れしているのだから、当たり前だろうが。
 あらぬ所を抑えている手は抑えるだけで動きを見せていないが、何かしらの動きを見せるのも時間の問題だろうか。
 いや、ただ単に自分をからかっているだけで、何もする気が無いのかも知れない。焦っている人間の姿を見て喜びを見いだす人種なのかも知れないから。そう言う人間だったなら、ここで大騒ぎするのは逆効果だが、そう読んで大人しくしてされるがままで居るというのも外聞が悪いだろう。
 そう判断し、シグレは視線をリヒャルトから外し、大声で叫んだ。
「お前っ! このアホの上司なんだから、どうにかしろよっ!」
 視線の先に居る王子に向かってそう告げれば、王子は困ったような笑みを浮かべた。そして、リヒャルトへと視線を向け、何かを言おうと口を開いたのだが、その言葉が発せられる前にリヒャルトが言葉を発してくる。
「なに言ってるの。僕の上司はミューラーさんだよ。ミューラーさんがここにいるから、僕も王子に力を貸してるだけ。王子に命令されたって、僕は動かないよ? 僕に命令出来るのはミューラーさんだけなんだから。……そう。僕を動かせるのは、ミューラーさんだけなんだ」
 嬉々として語る様は、どこからどう見ても本気のモノだ。
 まぁ、彼がミューラーに固執しているのは周知の事実だし、傍らにいてもイヤという程痛感出来るので今更な事ではあるのだが。
「ミューラーさんのためなら、僕はなんでもするよ。戦いにだって出るし、アンナ事もこんな事もソンナ事もする。ミューラーさんに喜んで貰えるなら、命だって惜しくないよ」
「………だったら、俺なんかに構ってないでさっさとそいつん所に行けよ」
 思い人の姿を思い浮かべているのか。ウットリとした表情を浮かべながら呟くリヒャルトに思わず突っ込みを入れる。
 ソレがいけなかったのだろう。あちらの世界に行っていたリヒャルトの意識がこちらに戻ってきた。そしてジンワリと、口元に笑みを刻み込む。
「だから、ミューラーさんに喜んで貰える手管を身につけるために、シグレさんを練習台にしようとしてるんでしょ?」
「なっ………!」
「ホラホラ、余計な事を喋ってないで。僕に身を任せて気持ちよくなってよ」
「任せられるかっ! おい、王子っ! てめぇも、さっさとこのガキどうにかしろっ!」
「どうにかって、言われても………僕はリヒャルトに力では敵いませんし………」
「大丈夫大丈夫。男との経験なんて数に入らないから。気にしないでやられておいた方が気持ちいいだけで終わると思うよ〜〜? 無駄に抵抗すると怪我しちゃうだろうから」
「てめぇっ………」
 困ったように返してきた王子に引き続き、王子の隣で湯船に浸かっていたカイルにサクリと告げられ、眉間に刻まれた皺の本数が増える。
 長い前髪のせいで皺が増える様は人目には触れていないのだが、それでも発した気配でシグレの怒りが伝わったのだろう。二人は見て見ぬふりをするようにスイッと視線を反らした。
 その動きにも腹が立ち、改めて怒鳴りつけようとしたところで、リヒャルトが声をかけてくる。
「ホラホラ、ギャラリーもそう言ってるし。気にしないでやろう?」
「アホかっ! 冗談もほどほどに………」
 カイルの言葉を受けてニコニコと楽しげに微笑みながら、やんわりと手指に動きを見せ始めたリヒャルトに怒鳴り返し、再度制止の言葉を発しようとしたところで、ハッと口を噤んだ。
 そして、慌てて身体を横へと流す。
 同じように身体を流したリヒャルトと共に。
 勢い余り、バシャンと音を立てて身体が湯船に沈み込んだ。その身体を素早く水面に戻し、身体と視線を女湯がある方へと向ける。
 ソコに居るであろう人物の姿を見るために。
「………サギリ」
 女湯と男湯を区切る壁の前に、素っ裸で仁王立ちしているサギリの姿を目にして、思わず口から名がこぼれ落ちた。端から見るといつもと変わらぬ柔和な笑顔を浮かべているように見えるサギリではあるが、その全身からはどす黒い殺気が迸っている。瞳の奥には鋭い光が宿っていることから、彼女が本気で怒っている事がよく分かる。
 チラリと視線を流すと、今まで背中を預けて居た壁面に、彼女の武器である苦無が突き刺さっているのが見えた。当たっていたら、即死間違いないだろう。
 シグレと同じようにリヒャルトも投げ込まれた武器に視線を流した。だが、すぐに屈託ない笑みを浮かべてサギリと向き直る。
「……危ないなぁ。突然何するのさ」
「シグレに変なことするから悪いのよ」
「そのシグレさんに当たってたかもしれないよ、あんたの攻撃」
「シグレはそんなに鈍くないもの」
「まぁ、それはそうだよね」
 ニコニコと柔らかな笑みを浮かべながら、とても親しげに言葉を交わしているように見えるが、互いに殺気を放ち合っている。もの凄く強い殺気を。
 はっきり言って、もの凄く恐い。自分と関係ない所で行われているやり取りだったら、絶対に見て見ぬふりをするだろうと思うくらいに物騒な空気が浴場に満ちていく。
 呼吸するのも辛いくらい重たい空気の中でチラリと視線を流せば、王子もカイルも顔を引きつらせていた。女好きのカイルが素っ裸のサギリを見てそう言う表情を浮かべているのだから、余程物騒な空気なのだろう。
 視線を感じて顔を上げた先には、仕切り壁の一番上に王子の叔母であるサイアリーズの顔が見えた。緊張した面持ちの甥っ子と対照的に、彼女はもの凄く面白そうに瞳を輝かせている。
 そんなところで見てないでさっさと止めてくれと思ったが、そんな事をしてくれそうもない。止めさせたかったら、自分でどうにかしないと行けないようだ。
「………めんどくせぇなぁ………」
 口癖になってしまった言葉をポツリと零し、バリバリと頭を掻く。
 そして小さくため息を吐いた後、リヒャルトと睨み合い、攻撃の隙を窺っているサギリに向かって言葉を発した。
「サギリ。そんな格好で男湯に入ってくるなよ。さっさと戻れ」
「………シグレ」
 かけた言葉に、サギリがほんの少しだけ緊張感を緩めてこちらに視線を向けてきた。そのサギリに向かって、面倒くさそうに告げる。
「俺ももう上がるし」
「………うん」
 コクリと頷いたサギリは、全身から発していた殺気を緩和させた。自分が思っていた程大変な事態では無かったのだと、ようやく分かったのかも知れない。
 それでもリヒャルトへの敵愾心と警戒心を残したままで、ほんの少しだけ笑顔を深くする。
「一緒に戻ろう」
「おう。外で待ってるから、もう一度身体温めてから出てこいよ」
「うん」
 素直に頷いたサギリは、高い仕切りの壁を難なく飛び越え、女湯へと戻っていった。ソレを確認してから、深く息を吐く。
 自分の事を心配してくれるのは嬉しいが、時と場合と場所を考えて貰いたいモノだと、思って。
「怒られちゃったなぁ〜〜。別に痛いことしたわけじゃないのに」
 緊張感のないリヒャルトの声が浴場内に響き渡る。その言葉に、深いため息を吐き出した。
 そんなシグレの態度に気付いているだろうに、リヒャルトは気にした様子もなく、ニコニコと笑いかけてくる。
「今回は邪魔が入ったからここで諦めるけど。今度はちゃんと気持ちよくさせてあげるからね。サギリさんが居ない時を、見計らって」
「………お前なぁ………」
 なんでそんなに自分を構うんだ、と言い返したくなったが、言い返したらまた何かしら言い返してくるだろう。そうなると、サギリよりも先に風呂から上がれなくなる。少しでも遅れたら、サギリがまた男湯に侵入して来かねない。むしろ、今すぐにでも飛び込んでくるかも知れない。彼女の沸点はかなり低いので。
 深く息を吐き出す。貧乏くじを引いたような気がして。
 無言でその場に立ち上がった。そんなシグレにリヒャルトは面白く無さそうな顔をしたが、それ以上構っては来なかった。代わりに、それまで傍観していた王子が声をかけてくる。
「もう上がるんですか?」
「あぁ」
「そうですか。お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
「………あぁ」
 にこやかにかけられた言葉に頷き返しながら、さっさと脱衣所に足を運んだ。そして、さっさと着替えを済ませる。
 今度から、リヒャルトが居ない時を見計らって風呂に入ろうと、密やかに誓いつつ。























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男湯にて