放課後。一人で居残り練習をしていた流川は、見回りの教師に怒られた所でようやく練習を切り上げた。
部室に向う道は、他の生徒が帰った後だから妙に静まりかえっている。心なしか空気も重い気がしたが、そんな事にびびるような男でない流川は、まったく気にせずズカズカと大股で廊下を歩いていく。
「・・・・・・・・・・・・あ。」
たどり着いた部室の戸を開けた途端。流川の口から一言漏れた。
それは誰も居ないと思っていた部室に人が居たため。しかも、その人物は眠り込んでいた。
制服に着替えているから、帰る気はあったのだろう。とは言え、帰る前に力尽きたのか。ちょっとした物音位では目を覚ましそうもない位に深く眠り込んでいる。
「・・・・・・・・体力ねーから。」
一年坊主にそんな事を言われたら、彼は烈火の如く怒りまくるだろう。だが、事実なのでどうしようもない。
悔しかったら体力を付けろ。
まだ怒鳴られても居ないのに内心でそう返答しながら、流川は眠る男の肩に手を伸ばした。
「・・・・・・・センパイ。」
「・・・・・・・・・・ん・・・・・・・・・・・・」
軽く身体を揺すり声をかけても、不明瞭な言葉が漏れるだけで起きる気配が窺えない。
さて、どうしたモノか。
流川は腕を組んで考え込んだ。
殴ればさすがに起きるだろう。しかし、後が面倒だ。絶対に彼は反撃してくる。反撃されたところで負ける気はしないが、相手が引き際を知らない男だけに、決着が付くのが遅くなりそうなのだ。出来る事ならこのまま放置しておくのが一番良いと思う。だが、放置して置いたらこの男だけではなく、自分までもが明日赤木に怒られる事は目に見えて明らかな事だ。
殴らず。しかし確実に目を覚まさせる方法。
考え込んだ瞬間。流川の脳裏に名案が閃いた。
寝汚いと言われる自分にも効果があったのだ。睡眠欲は普通だろうと思われるこの男にも有効に違いない。というか、元々この男に教わったようなものなのだから、効くに決まっている。
そう考え、流川は再度男の肩に手をかけた。そして、上体をゆっくりを屈めていく。
「・・・・・・・・センパイ。起きないと、襲うっすよ。」
言いながら、耳朶を口に含み軽く歯を立てる。
途端に、手の平を乗せていた肩がビクリと跳ね上がった。
「うわっ!!!」
叫びと共に目を見開き、身体を跳ね上がらせた男−−−三井は、勢い余って座っていたパイプ椅子から転がり落ちた。
「って・・・・・・なっ・・・・・・・・畜生!誰だ!!」
一気に覚醒したのか。軽く二三度瞬きを繰り返した三井は、床に尻を付けたままの格好でギッと目の前の人間を睨み付けてきた。
その射殺さん勢いの瞳に移ったのが流川だと気付いたらしい三井は、途端にその瞳を驚きに見開いた。
「・・・・・・・・流川?」
「うす。」
確認するような問いかけに、流川は小さく頷く。その様を呆然と見つめていた三井は、何かを確認するようにキョロキョロと辺りを見回し始めた。
しかし、自分達の他に誰も居ない事に気が付いたのだろう。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべているような表情で、流川の顔を覗き込んできた。
「流川。今の・・・・・・・・・お前?」
「今の?」
「俺の耳を囓ったの。」
「うす。」
それがどうしたと瞳で語りかけながら三井の顔を見やれば、彼は唖然とした表情で見つめ返してきた。
そして、深々と息を吐き出す。
「・・・・・・・・んだよ。脅かすなよな・・・・・・・・・・・」
「脅かしてねー。起こしただけ。」
「起こすだけなら、もっと方法があるじゃねーか。」
「声かけても起きなかった。」
その言葉に、再びジロリと睨み付けられた。
折角起こしてやったのに恩知らずな、と心の中で思いながら、流川は自分の着替えをし始める。
その傍らで、床に座ったままの三井が大きく伸びをしたのが気配で分かった。
変な体勢で寝ていたせいでこった身体を解すように、首を回している事も。
「流川ぁ・・・・・・・・・・・」
突如呼ばれて、チラリと視線を向ければ、三井は項垂れたように首を倒し、床を見つめていた。その様子に、鉄面皮だと言われる流川の眉間にもほんの少しだけ皺が寄る。
その姿がなんだか、妙に頼りなくて。いつもやたらとデカイ態度を取っている三井にしては。
いつもと様子の違う彼にどう返事をして良いモノやらと悩んでいたら、そもそも流川からの返事など期待していなかったのだろう。三井が言葉を続けてきた。
「腹へらねー?なんか食って帰ろーぜー。」
その言葉にちょっと目を見張る。
人からその手の誘いを受けた事が余り無いから。集団の時はたまに声をかけられたりするが、一対一で誰かに声をかけられた事など、記憶に無いくらいだ。
「このままじゃ家までもたねーよ。歩くのうぜー。お前、チャリだろ?奢ってやるから連れてって。」
その言葉に、眉間に皺が寄った。珍しく自分の事を誘ったと思ったら、良いように使いたいだけかと、そう思って。
そう思ったらなんで不愉快な気分になるのかは分からないけれど。
「おい。なんとか言えよ!行くの?行かねーの?」
答えが返って来ない事に焦れた三井が、ムッと顔を歪めて問いかけてくる。
その表情に、何故か心臓が小さく跳ね上がった。
「・・・・・・・・・行くっす。」
無意識に頷いていた。
そんな自分の言葉に驚く。
三井は流川の内心の動揺など少しも気付いていないのだろう。自分の誘いに流川が乗った事に、実に嬉しそうに微笑み返してきた。
「そうかそうか。んじゃあ、さっさと着替えろよ。待っててやるから。」
連れてけだの待っててやるだの。やたらと偉そうな三井の態度に呆れてモノも言えない。
深々と溜息を吐いた流川は、言われた様に着替えを再開した。
と言っても、途中まで終わっているのだからそう時間はかからない。程なくして、流川の着替えは終了した。
流川が着替える様子を見ていたらしい三井は、流川がロッカーの戸を閉めた音を合図にするように、声をかけてきた。
「よし、じゃあ、さっさと・・・・・・・・・・・っ!!」
立ち上がりながらそう言葉を発してきた三井は、途中で息を飲み込んだ。
何事かと視線を向けると、そこには苦痛を表すように眉間に皺を寄せ、左膝に手を当てている三井の姿が。
その姿を目にした途端に。流川の頭から血の気が失せた。
「センパイ!!」
慌てて傍らにしゃがみこみ、彼の顔を覗き込む。
「大丈夫っすか?今ので、膝を・・・・・・・・・・・・」
いつもサポーターで保護している古傷を再び痛めたのかと問いかける流川の耳に、苦しげな息づかいが聞えてくる。
「・・・・・・・・・・・・・・・る・・・・・・・・」
「え?」
「腹減って、目がまわる・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・センパイ・・・・・・・・・・・・」
聞えてきた言葉に、流川の常から冷たいと言われる瞳がさらに冷たさを増した。
彼の親衛隊ですら、その瞳で射抜かれたら恐怖で震え上がるだろう。
しかし、一番震え上がって欲しい男にはまったく効果がなかった。
「流川。手。」
言われた言葉の意味が分からず見つめ返したら、目の前に右手を差し出された。
「起こしてくんねー?」
首を傾げながら言われた言葉に、流川は何度目か分からない溜息を深々と息を吐き出す。
「・・・・・・・・ざけんな。」
「良いじゃねーか。マジに立ち上がる力がねーんだよ。」
そう言いながら持ち上げた右手をヒラヒラと振って見せる三井の言葉と態度に、流川は再度息を吐き出した。
目の前の男が桜木だったら、声をかけずに部室を出ていただろう。
宮城でも、手を貸したりはしないと思う。
だけど、三井には思わず手を差し出していた。言葉では嫌がりながらも。
「サンキュー。」
本当に嬉しそうに微笑みながら礼を言われ、胸の奥がチクリと痛んだ。
その痛みを誤魔化すために、重いけれど自分よりも軽い身体を一気に引き上げる。
流川に引っ張られてようやく立ち上がった三井は、倒れ込んで汚れた制服の埃を払っている。
その三井の姿を横目で見ながら、流川は彼のモノと思われる鞄を手に取った。
「おい・・・・・・・・・?」
不思議そうな問いかけに、もう片方の肩に自分の荷物をかけながら、ボソリと返す。
「・・・・・・・・・持ってく。」
「え?」
「あんた、体力ねーから。」
告げた言葉に、三井は不愉快そうに顔を歪めた。
想像通りの反応に、流川の口元に小さく笑みが浮かび上がる。
その流川の後頭部に、三井が軽く拳骨をお見舞いしてきた。
「うるせーよ。・・・・・・・・・でも・・・・・・・・・・・・・」
途切れた言葉の先が気になって、数p下にある三井の顔に視線を向ける。
その視線に気付いたのだろう。流川と視線を合わせるように顔を上げた三井が、照れくさそうに微笑み返してきた。
「サンキュー。」
「・・・・・・・・・うす。」
それしか、言えなかった。
妙に早い心臓の音が三井に聞えてしまうのではないかと、気になって。
「流川ぁー。何食いてぇ?」
「何でも良いっす。」
「それが一番困るんだよ。」
「じゃあ、センパイは?」
「俺?俺は、食えるもんならなんでも良い。」
「・・・・・・・・・・・・」
自分の言った言葉にうひゃひゃと品無く笑う三井の姿にチラリと視線を向けた。
何をするんでも楽しそうだなと、そう思って。
こんな人が、何故ほんのちょっとの挫折でバスケから離れてしまったのだろうか。
他人にまったく興味のない自分から見ても、三井がバスケを好きだと言う事は分かるのに。そのバスケからどうして離れてしまったのか。それが、少し気になった。
「センパイ・・・・・・・・・・」
「うん?」
いつか、教えてくれますか?
そんな言葉がを瞳に込める。
だが、三井には届かなかったようだ。
キョトンと目を丸め、流川の顔を見上げてくる。
だから、流川は違う事を口にした。
「ラーメン。」
「え?」
「食いたいっす。」
「そうか。」
ニコッと笑いかけられ、胸が騒いだ。
奮発してチャーシュー麺を奢ってやると言葉をかけてくる三井の言葉に、小さく頷く。
人との関わりはウザイけど。
こんな時間も悪くないと、そう思った。
恋心の自覚無く。
気になる人