廊下を歩いているとき、ふと何かに引かれて流川は視線を流した。そして、半階下方にある階段の踊り場に、これから流川がいる階へと上がってこようとしている三井の姿を見つけた。
 彼の姿を見るのは随分と久しぶりな気がする。引退して受験勉強を真面目にし始めた彼は、部活の時間に体育館に来ることが無くなったから。部活以外の接点を持たない流川とは、顔を合わせるわけがないのだ。
 なんとなく、足が止まった。そこにいたら、三井がこちらに気づき、声をかけてきそうな気がして。
 自分から声をかけるつもりはない。声をかけたところで話す事などとくになりので。それなのに声をかけられる事を待っている自分に、流川は軽く首をひねった。桜木や宮城と一緒になって馬鹿騒ぎする彼のことは鬱陶しいと思っていたはずなのに。いつも黙ってバスケだけをしていればいいのにと思っていたのに、何で声をかけられたがっているのだろうかと、不思議に思って。
 そんな風に流川が自分の考えに首をひねっている間に、三井が上階に上る一段に足をかけた。
 そして、足元を見つめていた視線を上に向けようとしたその瞬間。
 彼は何かに気づいたように足を止め、階下に向けて視線を流した。
「三井先輩っ!」
 と言う高くて可愛らしい声が流川の耳にも届く。その声に、階上に上がりかけていた三井の足が止まり、身体の向きが声を発した少女の方へと向けられた。そんな三井の前に見知らぬ少女が歩み寄り、顔を真っ赤に染め上げながら三井に向かって何かを語りかけはじめた。
 何を言っているのかは、回りの喧噪の為に流川の耳には届かない。恥ずかしそうに時々自分の足元に視線を落としながら喋る少女の声は、とても小さかったから、余計に。
 その少女が大きく息を吸い、何かを決意したように顔を上げた。そして、自分の背に隠すように持っていた小さな包みを三井の胸元へとさしだした。
 綺麗にラッピングされた、一目でプレゼントと分かる代物を。
 ソレを見て三井が軽く目を見張り、すぐにその顔を照れくさそうな、嬉しそうな笑みへと作り替える。そして、差し出されたモノを受け取った。小さく呟くように言葉を発しながら。
 彼が何を言ったのかは、流川の耳には届かなかった。だけど、その口の動きから礼を言ったのが分かる。彼の態度から、快くその贈り物を受け取ったことも。
 少女の顔に、これ以上ないほど嬉しそうな笑顔が浮かび上がった。そんな少女に、三井が何かを語りかけている。その言葉に益々笑みを深くした少女は、激しく首を横に振りながら、こぼれ落ちんばかりの笑みを振りまいて言葉を返す。そんな少女の姿に三井の笑みも深くなり、二人の間には穏やかで優しい空気が流れていくのが、流川にも感じ取れた。
 しばらくの間一連のやり取りを黙って眺めていた流川だったが、二人の会話がしばらく終わりそうにない気配を察してフイッと視線を反らした。そして、止めていた足を動かす。
 なんとなく、この場に居たくなくなって。
 嬉しそうに微笑む、三井の姿を見ていたくなくて。
 なんで見ていたくないと思ったのか分からなかったけれど、流川はその場から静かに離れたのだった。





















 いつも以上にしつこく絡んでくる女生徒と、いつの間にやら机の中や上に置かれた嫌がらせとしか思えないようなプレゼント攻撃に辟易していた流川は、それらのモノを隣の席の人間に押しつけた。そして、終業の挨拶もそこそこに教室を出て、一直線に部室を目指す。
 他の部員達はそんなに早く部室に赴いても鍵が開いていない事を知っているので、教室で時間を遅らせてくるのだが、一人遅くまで残る流川には部室の合い鍵を持たされているので、鍵当番や宮城を待たずとも部室に入れるからなんの問題も無いのだ。
 他の生徒達が動き出す前に部室の前にたどり着いた流川は、ポケットの中から使い慣れた鍵を取り出して開けようとした。だが、そこではたと気づく。ドアの鍵が既に開いていることに。
 自分より先に来る奴が居るとは。
 何となく負けたような気分になって更に機嫌を悪くした流川は、眉間に皺を刻み込んだ。今日の当番は誰だっただろうかと考えながらドアに手をかけ、常よりも乱暴な所作でドアを開け放つ。そんな流川の所作に、決して立派とは言えないドアが大きな音を立てながら開いた。そのドアの向こうに居る人間の姿を見た流川の瞳が、大きく開く。
 そこに居たのが、全く予期していなかった人物だったので。
「よぉ、流川。久しぶり」
「――――うす」
 依然と変わらぬ気さくな態度で言葉を発して軽く右手を挙げてくる三井に、流川は少しの間を開けた後にコクリと頷いた。そして、しばしその場に立ち尽くした。これは本物なのだろうかと、考えて。
 我が物顔でイスに腰掛け流川の顔を見上げてくる三井の姿は、あまりにもこの場にしっくりし過ぎでいて、違和感を感じるから。そう感じるのは、この場所に彼が居ない事に慣れてしまったからだろうか。
 そんなことを考えながら立ち尽くす流川の姿に、三井は軽く首を傾げた。どうしたんだと、その仕草で問うように。
 その動きで空気が揺れ、流川は我に返った。
 入り口でボンヤリと立ち尽くしているのはおかしいだろう。一分一秒も惜しんで練習に励む自分が、部室に着て着替えもしないなんてどう考えてもおかしい。なんでボンヤリしてしまったのだろうか。自分で自分の行動が分からずに首を捻った流川だったが、考えても分からなそうだったのでそれ以上思考する事は放棄し、ゆっくりと足を動かして室内に身体を入れて扉を閉じた。
 部屋に置かれたイスに腰掛ける三井に一歩二歩と近づいていき、自分のロッカーの前で足を止めた流川は、いつものように、持っていたスポーツバッグを己の足元に投げ落とした。
 ロッカーの扉を開けて学ランを脱ごうとボタンを外しにかかる。だが、流川の動きはそこでピタリと止まった。ゆっくりと立ち上がった三井が、流川の傍らに歩み寄ってきたのを視界の隅で確認して。
 その三井は流川に声をかけるでもなく流川の鞄の前にしゃがみ込み、おもむろにそのチャックを引き開けた。
 唐突な三井の行動に、流川はぽかんと口を開けた。いったいなんなのだろうか、この人はと、思って。
 人の持ち物を持ち主に断りも無く開けるとは。周りの人間に散々な事を言われている流川でも、そんなことをしたことはないのに。
 唖然としながら足元に見える三井の後頭部を眺め下ろす。そんな流川の耳に、三井の驚いたような声が聞こえてきた。
「お前――――1個も貰ってねーのかよ?絶対に持てない位の量を担いでくると思ったのに………おっかしいなぁ…………もしかしたらトラック呼んでおいてて、全部そこに詰め込んできたのか?お前ならそれくらい出来そうだよなぁ…………」
 彼が語る言葉の意味が分からず、流川は首を傾げた。こちらを見ていない三井にはそれでは伝わらないだろうと思うのに。
 分かっていながら、それでも声に出さずに首を傾げるのに止めて居ると、三井がヒョイと顔を上げてきた。そして、窺うような瞳で見つめ返してくる。向けられた人よりも色の薄い瞳を無言で見つめ返す。言葉はなくても、流川が考えている事は察してくれと想いながら。そんな都合の良いことがあるわけが無いのだが、そう分かっていても流川はジッと三井の瞳を見つめ続けた。
 静かな時間がしばし流れる。そんな中、三井は唐突にスッと視線を反らした。そして、小さく息を吐く。
「――――まぁ、お前がわざわざそんなことをするとは思えねーからな。アレだろ。近づいてくる女共をことごとく切って捨てて歩いたんだろ。あーそうだ。お前はそう言う奴だ。モテてる自覚がねーんだからな」
「――――何が言いたい?」
「別に、何も」
 理解できない言葉の羅列に訝しむような瞳を向けながら問いかける流川にどうでも良さそうな口調でそう返してきた三井は、そこで一旦言葉を切ってヒョイとその場に立ち上がった。
 そして、息が掛かりそうな位近い位置から流川の瞳を見上げてくる。
「なぁ、お前って、好きな奴、居る?」
「――――え?」
「人を好きになった事って、あるか?」
「――――イヤ」
 何で突然そんな事をと思ったが、向けられている瞳が思いがけないほど真剣なものだったので、流川は素直に言葉を返した。
 そんな流川に、三井は薄く微笑みかけてくる。
 どこか、諦めたような瞳で。
「お前には、いつまで経っても分からないのかもしれねーな。そう言うこと。お前の瞳に映っているのは、バスケだけだ」
「………それだけで十分」
「そうだろうな、お前は。まぁ、わかっちゃ居たけどよ」
 三井の言いたいことが分からず、眉間に刻み込んだ皺を益々深くしながら答えた言葉に、三井はクスリと小さく笑みを零し、一度自分の足元に視線を落とす。
 しばしその状態で動きを止めた三井は、その静かな空気に流川が居心地の悪さを感じ始めた頃にようやく顔を上げ、もう一度流川の瞳を見つめてきた。そして、ゆっくりと口端を引き上げる。
「お前には、分からないんだろうな。送られたモノの甘さも、苦さも。どんな安物でも最高級品に感じさせる思いも。贈り物を選ぶときの楽しさも嬉しさも不安も。その気持ちがどんなモノでも美味くするって事も、お前には分からないんだろうな」
 流れるように吐き出された三井の言葉に、流川は眉間に皺を寄せた。そんな流川の態度に三井は僅かに俯き、小さく息を吐き出す。
「分からないから、想像も出来ないから、なんとも思わないんだろうが………それも、可哀想なことだ。お前も、お前に惚れた奴も…………」
「何…………」
 それまで黙って言葉に耳を傾けていた流川だったが、いつまで経っても自分に理解出来る言葉が発せられることは無いだろうと考え、言葉を挟もうとした。だが、すぐに開きかけた口を閉じる。
 突然、胸のポケットに何かを入れられて。
 これはなんだと、短い問いの言葉を己の瞳に宿して三井の色素の薄い瞳を見つめる。そんな風に瞳だけで問いかける流川に、三井はニヤリと、いつもの彼らしい意地の悪さを感じさせる、それで居てガキくさい笑みを向けてきた。
「コレの味は、どれだけお前に感じられるのかな」
「え――――」
「じゃあな」
 困惑する流川の胸元をポンポンと軽く叩いた三井は、それで話は終わりだと言わんばかりに流川の元から離れ、ヒラリと右手を振った。そして、部室のドアに手をかける。
 なんの迷いもなく部室を出て行こうとする三井の背を見て妙に焦りを感じた流川は、慌ててその背に声をかけた。
「センパイっ!」
 呼びかけに、三井の動きが止まった。そして、ゆっくりと振り向く。その彼に向かって何かを言おうとしたのだが、言葉が口から出てこない。何故自分が彼を呼び止めたのかも、分からない。
 何も言えないまま時が静かに流れた。まるで部室の中が凍り付いたかのように、二人とも微動だにしないで見つめ合う。
 その凍り付いた時間を動かしたのは、三井だった。
 今まで見せたことがない柔らかな笑みを浮かべながら、優しい言葉を紡ぐことで。
「頑張れよ。インターハイ、期待してるからな」
 それだけ告げて再度手を振った三井は、ユラリと足を動かし、部室から出て行ってしまった。
 その背を呼び止める言葉はもう、出てこない。
 音を立てて閉まるドアを見つめながら、流川はその場に立ち尽くしていた。
 状況が良く分からない。三井は何を言いたかったのだろうか。彼が発した言葉の意味を、流川は欠片ほども理解することが出来なかった。
ノロノロと手を挙げて、胸ポケットに入れられたモノを取り出す。手のひらの上に乗せたソレを見て、流川は軽く首を傾げた。そして、ボソリと呟く。
「――――チョコ?」
 コンビニでも売っている、なんの変哲もない板チョコだ。なんでこんなモノを寄越すのだと首を傾げる。傾げながらも、なんとなく包みを破き、一列分割って口の中に放り込んだ。
 甘くて苦い味が口の中に広がる。いつも食べているのとなんの変わりもない、多少安っぽさを感じる予想通りの味だ。
 どこからどう見てもなんの変哲もないチョコで、なんの変哲もない味しかしない。
 なのに、何かが引っかかった。何に引っかかりを覚えたのかは、分からないが。
 しばし手の中に残っているチョコレートを見つめた流川は、それをもう一度胸ポケットの中にしまい込んだ。一気に食べきるのは、勿体ないような気がして。これはゆっくりと食べたい。なんとなく。
 その胸ポケットに仕舞ったチョコレートの感触を布地の上から確かめるように撫でた流川は、ふと胸の内で考えた。
 今度三井に廊下で会ったときには、自分から声をかけてみようかと。つい先ほどかけられた、訳の分からない言葉の数々の意味を問いただすためにも。
 彼は素直に答えてはくれないだろうが。
 だが、そうすることで今現在感じている引っかかりの正体が掴めるような気がする。だから、声をかけようと密やかに決意を固めた。
 ゆるりと口端を引き上げる。先ほどかけられた言葉に応えるために。
「――――言われなくても」
 返す相手は居ないけれど、不敵な笑みを浮かべて自信に満ちあふれた声で呟く。
 今年こそ優勝してやるさと胸中で呟きながら、流川は脱ぎかけていた学ランを脱ぎ捨てた。部室に来る前に感じていた深いな気分が払拭されていることに、むしろ妙に気分が高揚していることに、気づきもしないで。



































たまには三井→流川な話。
流川はバレンタインというものそのものを知らなそうですね!










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伝わらぬ想い