インターハイでの怪我が治り、リハビリもやり抜いた桜木は、医者の口からようやくバスケ部の練習に参加しても良いとの許可を得ることが出来た。
そんなわけで、桜木は早朝から機嫌良く体育館へと足を運んでいた。時間が時間だからまだ部室は空いていないだろうと、自宅から部活スタイルを取り、制服を小脇に抱えて。
「復帰初日から朝練一番乗り………さすが天才、やる気が違うっ!」
彩子辺りが聞いたらハリセンが飛んできそうな自画自賛をしつつ、体育館の戸を開けようと取っ手に手をかけた桜木だったが、その手は扉を開ける事無く、ピタリと止まった。
中から、人の話し声が聞こえてきたので。
「うぬぅ。この天才より早いとは………なんて図々しいヤツだ。きっとキツネ野郎だな。この天才桜木様が不在だからといって、生意気なマネを…………しかしっ! 今日からはお前の好きにはさせーーーんっ! この天才が居る限りっ!」
誰が聞いているわけでも無いのに高らかに宣言しながら、再度扉に手をかけた。
だが、再度手を止める。
中から漏れ聞こえてきた声に、ビクリと身体を震わせて。
「――――っ! ぁっ…………! 止めろッ………て……………っ!」
その苦しげな。だが妙に甘味のあるうめき声に、桜木の背筋が泡だった。
そして、ゴクリと、唾を飲み込む。
「ミッ…………ミッチー?」
聞き間違いでなければ、それは三井の声だ。耳に馴染んだ彼の声よりも妙な艶があったが。一瞬彼のモノでは無いのではと思ったくらいにいつもの彼とは違ったが。
だが、ここは体育館で、バスケ部が使う場所だ。彼が居る確率は極めて高いから、多分、三井の声なのだろう。
「いや、でも、違うって事も…………」
耳にした声の色っぽさに動揺しつつ、桜木は耳を扉にひっつけ、息を殺した。もっと良く、中の声を聞き取ろうと。
「あっ………もう、駄目だって…………無理……………」
「無理じゃない。まだ行ける」
苦しげな息を吐く三井に答える声は、流川の声だ。天敵とも言うべき男の声を聞き間違えるわけがないので、それに間違いはない。
いったい彼等は中で何をしているのだろうか。桜木は、更に二人の会話に意識を集中させた。
「ヤッ………! 流川、本当、無理だって………勘弁してくれよ、もう……………」
「駄目。ちゃんと解さないと、辛いのセンパイ」
「大丈夫だって、もう、いけるって。だから――――」
「駄目。それで怪我されたら困る」
「困るって…………誰が……………」
「オレが。センパイと出来なくなるのは、困る。毎日やりてーから」
「これくらいで、怪我なんて、しねって…………」
「駄目。あんたの大丈夫は信用出来ねーし、万全じゃないセンパイとやってもつまんねーし。やるならガンガンやりたいから、ちゃんとやれ」
「――――自己中野郎……………」
「今更。そんなオレの相手をするのを楽しんでるのは、アンタだろ?」
「むかつくガキ……………くっ!!」
「無駄口叩いてないで、集中しろ。このままじゃ、いつまでたってもオレが出来ねー」
「なら、一人でやってろよ…………」
「一人より、二人でやった方が良いっす」
「そうかよ……………あっ…………っ! てめっ、人の隙をつきやがって………卑怯モノッ…………!」
「そうでもしねーとアンタ、力を抜かないだろ」
「畜生……………くっ……………つれぇ………………」
「続けてりゃ、慣れてくる」
「分かってるけどよぉ…………………あっ……………はぁっ………………!」
扉に耳を当てて中の会話を漏れなく聞いていた桜木の耳が、顔が、全身が、真っ赤に色づいた。
「コレって…………アレ、だよ、な……………??」
傍らには誰もいないと言うのに、微妙に問いかけ風味で言葉を漏らす。しかし、二人とも男だ。しかもここは誰が来るとも分からない体育館だ。そんな所で、するだろうか。
いや、あのキツネならやりかねない。何しろ、キツネだから。
と、混乱した思考でモノを考えていた桜木は、ヨロヨロとよろめきながら扉から耳を放し、一歩二歩と足を後退させていった。
その背に、何かが当たる。
慌てて振り返ると、そこには不思議そうに自分の顔を見上げている宮城の姿が在った。
「――――何やってんだ、花道?」
「え? …………いや、その……………」
なんと言って良いのか分からず、しどろもどろに言葉を返したら、宮城は眉間に深い皺を刻み込んでいった。しかし、構うのも馬鹿らしいと思ったのだろう。桜木の存在を無視してさっさと歩を進めだした。
その背に、慌てて声をかける。
「あぁっ! ま、待てッ、リョーチンっ! そこでは、今、恐ろしいことが………っ!」
「あぁ? 何言ってンだ、お前」
振り返りはしたものの、眉間に深い皺を刻んだままガラの悪い表情を寄越してきた宮城は、動きを止めることなく、体育館の扉の前に歩み寄った。そして、なんの躊躇いも無くその扉を開け放つ。
「うわーーーーっ!」
その先にあるであろう光景を想像し、顔を両手で覆う。
男女のそう言うシーンを見たこともないのに、男同士の、しかも知り合いのそう言うシーンを人生で初めて見る生濡れ場にしてしまうなんて、なんて自分は運が悪いのだと、嘆きながら。
そんな桜木の姿を見て、宮城が呆れたような、思いっきり馬鹿にしたような声をかけてくる。
「お前、入院中に馬鹿に磨きがかかったんじゃねーの? もう一回入院して治して貰って来いよ」
「なっ、なんだと、リョーチンっ! この天才に向かって…………っ!」
「おはようッす、三井サン、流川。相変わらず、早いっすね」
怒鳴る桜木を無視して、宮城は常と変わらぬテンションで中に居る二人に向かって声をかけている。
もしや、二人のソレは桜木が居ない間に当たり前の出来事になってしまったのだろうか。だとしたら、なんてハレンチなっ!とてもじゃないが晴子さんには見せられんっ!と、胸の内で絶叫しながら体育館の中へと恐る恐る瞳を向けた桜木は、想像と違う光景を目にして、ポカンと口を開けた。
三井も流川も、いつものようにTシャツとハーフパンツ姿だ。その姿で三井は床に腰を下ろし、大きく足を開いて床に俯せるように上半身を倒している。その背を、流川が上から押さえつけていた。
「宮城…………頼む、このバカ、どけてくれ…………もう、苦しっ…………っ!」
「三井サン、毎朝毎朝ストレッチするたびにエロい声出すの止めてくださいよ」
「エロくねーっつってんだろっ!! いーーーいーーーかーーーらーーー、はーーやーーくーーーーっ!」
「はいはい。流川、もうその辺で止めておいてやれよ」
「ウス」
宮城の指示で、流川が三井の背から手を放した。途端に、床にへばり着いていた三井が思い切りよく上半身を起こした。と思ったら、今度は横倒しに床上に倒れ込む。疲れのにじむ表情を浮かべて。そして、呻くような声で言葉を漏らした。
「ぁ〜〜〜もう。勘弁してくれよ。なんでストレッチごときでこんなに疲れないといけねーんだよ………」
「三井サンの体が固すぎるからいけないんすよ。毎日酢でも飲んで、身体柔らかくしてください」
「――――酢って、マジに効くのかぁ?」
ブツブツと零しながら三井は倒していた身体をゆっくりと起きあがらせた。そこで、ようやく桜木の存在に気付いたらしい。一瞬驚いたように目を丸めた三井は、次の瞬間、ニパッと、もの凄く嬉しそうに顔を輝かせた。
「おっ! 桜木、久しぶりだな。今日からもうやれんのか?」
「おっ…………おう。まぁ、ちょっとずつって言われたけどな」
「そうか。良かったなっ!」
我が事の様に嬉しそうに言いながら近づいてきた三井は、その存在を確かめるように軽く肩を叩いてきた。そして、ニヤリと笑む。
「最初は思うように身体が動かなくて苛々すっかもしれねーけど、無茶はすんなよ? くせになったりまた悪くなったりしたら、元も子も無いからな」
「おっ…………おう」
軽い口調で告げられた言葉なのに妙に重い響きがあるその言葉に、桜木は頷く事しか出来なかった。
そんな桜木の言葉に満足そうに笑んだ三井が、宮城に向かって声をかける。
「よし、宮城っ! お前は桜木とストレッチだ。充分に身体を解せよなっ!」
「あんたに言われたくねー…………ってか、アンタが仕切るなよっ! キャプテンはオレっすよっ!」
「うるせーっ! 2年っ! 最高学年の言うことは素直に聞けっ!」
「うわっ! 嫌だーー………目の上のたんこぶはコレだから……………」
「んだと、このっ!」
ギャーギャー騒ぐ三井と宮城の姿を見ている内に、驚きで固まって居た桜木の心が解れていった。
コレは良く知る光景だ。
安心できる空気だ。
帰ってきたと、戻ってきたと、思える空間だ。
ニッと、口端を引き上げた。そして、騒ぐ三井と宮城の間に飛び込んでいく。
「な〜〜にを騒いでいるのだね。凡人はこの天才の指示に従っていれば良いのだっ!」
「あぁん? ざけんなよ、病み上がりっ!」
「そうだぞ、花道。お前は基礎からやり直しだ。バカっ!」
「なんだとっ! この天才に、そんな地味なことをまたやれと……………っ!!」
背中の怪我も忘れて、三人で怒鳴って暴れた。途中で流川も参戦したために、体育館の中は収集が着きそうにもない騒ぎになったのだが、彩子の登場であっという間にその騒ぎは鎮静され、普段の朝練へと戻っていった。
入部したての頃と同じように体育館脇でドリブルの練習を言い渡された桜木は、激しい屈辱感を感じながらも大人しく示された位置へとついた。久しぶりのボールの感触に胸を躍らせつつ地味な練習をし始めた桜木は、コートの中に入り、動きのある練習をし始めたチームメイト達の姿を目で追った。
そして、頬を綻ばせる。
なんとなく、無性に嬉しくなって。
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帰還日の朝