とある田舎にある高校の職員室から、お昼のワイドショーの音が聞こえてきた。
そんなものが職員室から聞こえてくるのはどうかと思ったが、この学校の影の支配者だと言われている年配の女性教諭がやったことなので、誰も何も言えなかった。
他の教員に出来ることは、テレビの音に耳を傾けるか、無視して仕事を片付けるか、部屋の外に出るかの三つしかない。
その中の一つである、『無視して仕事を進める』を選んだ、就任2年目の若い男性教諭は、黙々と午前中に行った小テストの採点を行っていた。時々、何をどう考えたらそんな回答を導き出したのかと首を捻りたくなる珍回答を見つけ、眉間に皺を刻み込みながら。
それでも黙々と採点を進め、もう少しで全てが終わるといったところで、青年の耳にテレビの音が飛び込んできた。
『あっ! 来ました。流川選手ですっ! 日本人で初めてNBAファイナルに出場し、MVPを獲得した流川選手が、今、故国日本の地に降り立ちましたっ! NBAに入ってから初めての帰国です。MVPとなった今年っ! 満を持してと言った感じでしょうか。ようやくの帰国です。日本のファンが待ち望んだ瞬間です。沢山のファンが声援を送っております。周りに居る男性はボディーガードでしょうか。押し寄せる女性ファンを押しのけながら歩いています。取材陣も近づけません。あ、流川選手が近くに来ました。流川選手っ! 流川選手っ! おめでとうございますっ!』
年かさの女性リポーターが叫ぶように発している声が聞こえているだろうに、声をかけられた流川は視線を向けようともせずに歩き続けている。まるでそこには誰もいないと言わんばかりの態度だ。
はっきり言って、いけ好かない。何様のつもりだと、胸ぐらを掴んで怒鳴り付けたくなる程に尊大な態度だ。
「……流川様なんだろうな」
机上の答案からテレビ画面に視線を移し、ボソリと言葉を漏らした。
濃いサングラスの下にある表情はテレビ画面からでは見て取れないが、ろくに表情なんぞは浮かべていないだろう事は簡単に分かった。これだけ沢山の人に囲まれ、口々に祝いの言葉を述べられ、手を振られているのに。少しも嬉しそうにしていない。
普通、これだけ騒がれたら手の一つでも振るだろうに。そんな動きを欠片も見せやしない。
「……無愛想なヤツ」
もう一度呟きを漏らして、手にしていたペンを握る力を込めた。
視線をテレビから外そうとしたのだが、何故か身体が言うことを聞かず、ジッとテレビ画面を見つめ続ける。
テレビ画面の中にいる、無愛想な男の顔から視線を外せない。
そんな自分に焦りを感じたところで、カメラが流川の姿を捕らえられなくなったらしい。画面がスタジオに切り替わり、司会者とコメンテーターのどうでも良いトークが始まった。
その隙をつくように視線を画面から机上に戻し、ホッと息を吐く。そして、テレビの音を耳に入れないよう気を付けながら、残った仕事を片付けようと気持ちを引き締める。
だが、努力も空しく、耳はテレビの音を追ってしまう。
コメンテーターが流川の事を褒め称える声がはっきりと聞こえてくる。彼の特集を組んでいるのか、彼が生まれたときから現在に至るまでのストーリーを紹介し、妙なドラマまで流した。
それで流川に関する報道が終わるだろうと思った瞬間、スタジオの中がざわめきだした。
どうやら再度流川の姿をカメラに納める事が出来たらしい。画面が唐突に切り替わり、ボディーガードに囲まれながら黙々と歩いている流川の姿が流れた。
カメラマンが流川に近づいていったのだろうか。最初は引き気味だった流川の姿が徐々に大きくなり、その端整な顔が大写しになる。
職員室に黄色い歓声が上がった。その声に引かれるように、青年も顔を上げ、テレビ画面へと視線を移してしまった。
『流川選手っ! MVP、おめでとうございますっ!』
興奮気味のリポーターの声にも、流川は少しも反応を示さない。
普通だったらそんな態度を取られたところで声をかける気が失せるだろうが、そんな対応は慣れっこなのか、リポーターは怯まずに言葉をかけ始めた。
『ファンの皆さんに、何か一言お願いします。流川選手ッ!』
その声にも、流川は無言で通した。本当にリポーターの声が聞こえていないかのように。
それでもリポーターは怯まなかった。しつこいくらいに追いかけ、声をかけている。なんとかして流川からのコメントを得ようと。
いや、もしかしたら何を言ってもコメントなど得られないと思っているのかも知れない。なにしろ流川は、『何も言わない』事で有名な男だから。それでも食いついていくのは、くっついていけばカメラに流川の姿を捕らえることが出来、視聴率が稼げるからだろうか。
「………大変な仕事だな」
自分には絶対にあんな仕事は出来ない。何しろ、根性が無いから。そもそもやりたいとも思わない。知りたくもない他人の事を根掘り葉掘り聞くなんて事、やりたくもない。
そんな事をボンヤリと考えながら画面を見つめていたら、リポーターが矢継ぎ早に言葉を発し続けた。
『この喜びを、どなたに伝えたいですか? やはりご両親に? 他に伝えたい方はいますか? このテレビを通してお伝えして下さって構いませんよ!』
その言葉に、珍しく流川が反応を示した。
真っ直ぐに前だけを見つめていた、瞳が見えない色の濃いサングラスが、リポーターの方に向けられる。
その動きだけに手応えを感じたのか、リポーターが更に勢いを増して言葉を発した。
『今回の帰国の際には、やはりご実家に戻られるんですか? 他にお会いする方とかはいらっしゃいますか? 母校を訪ねたりしますか? その時、なんと言って報告を?』
必死にコメントを求めるリポーターに視線を向けていた流川の足が、ピタリと止まった。
画面の向こうからざわりと、空気が揺れる音が聞こえてくる。流川を取り囲んでいたボディーガードも厳つい顔に困惑の色を浮かべている。
そんな周りの動揺など気にした風もなく、流川はリポーターに視線を向けながらも自分に向けられているカメラを指さした。
『――――これ、全国放送?』
『え…………? あ、はいっ! もちろんですっ!』
『どんな田舎にも届く?』
『え…………? は、はい………多分…………』
少し自信無さそうな言葉だったが、流川はそれでも良いと思ったらしい。コクリと頷いた後、ゆっくりとサングラスを外した。そして、カメラへと向き直る。
職員室に黄色い歓声が飛んだ。
それは当たり前の反応だろう。いままで視線一つ寄越してこなかった男が、突然こちらを向いたのだ。
それだけではない。邪魔くさいサングラスを取り、その端整な顔をさらけ出したのだ。騒がない方がおかしい。
いい年の女達が「私を見てるわ!」と騒いでいる声を耳にしながらもろくに知覚出来ずに、青年は画面一杯に映った男の顔を凝視していた。
そんな青年の視線を感じたわけでもないだろうに、しばし無言で居た流川がゆっくりと、その唇を動かし始めた。
『俺は約束を守った。今度はアンタの番だ。何を言っても妥協はしねぇ。アンタがどこに居るのか、俺は知ってる。逃げてもまた捕まえる。だから、大人しくそこで待ってろ。もう逃げ場はねーからな』
平坦な口調で流れるように一気にそう言い切った流川は、それで用は終わりだと言わんばかりに画面から視線を反らし、外していたサングラスをかけた。そして、さっさと踵を返して歩き去る。
突然のコメントにフリーズしていた報道陣が、慌ててその後を追いかけだした。先程のコメントは誰に向けてのものなのだと、大騒ぎしている。
その画面の喧噪が移ったかのように、職員室の中も大騒ぎになった。女性教諭達がギャーギャーと騒ぎ出したために。
男性教諭が五月蠅そうに耳を塞ぎ、顔を歪める中、青年だけはポカンと口を大きく開けてテレビ画面を見つめていた。
画面の奥に微かに移っている、流川の背中を、呆然と。
手の中から握っていたペンがポロリと落ちる。だが、その事に気づく事すら出来なかった。
驚きが強すぎて。
「な…………な……………」
呻くように呟き、顔を一気に青ざめさせる。
そして、先程の流川の言葉と射抜くような強さを持った真っ黒い瞳を思い出して、顔を一気に紅潮させる。
「なっ………なっ…………あ、アイツ………マジ、か………?」
震える声で呟いた青年の言葉に答える者など、誰一人いなかった。
だが翌日、青年はその言葉が確かなものであることを、嫌という程痛感するのだった。
世界のスーパースター流川楓が、目の前にやってきたことで。
そして、三井寿の教員生活は、2年で終わりを告げるのだった。
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《20051114UP》
追いつめる《三井》