ズキリと、左膝に痛みを感じて床に倒れ込んだ。
それでも目の前に転がるボールを手に取ろうと、夢中で手を伸ばす。
自分にはこれしかないと、思うから。
このボールを手にしているときは、自分が自分で居られた。
ただ前を。未来を見ていられた。
だから、自分が自分で居るために放してしまったボールを手に取ろうと、懸命に腕を伸ばす。
足の痛みになど、構わずに。
後少しで手が届く。
触り慣れた感触が指先に届きそうになったところで、そのボールが目の前から浚われる。
驚愕に目を見張ってボールの後を追えば、そのボールは大柄な男の手に渡っていた。
同じ年とも思えない程、発達した体躯。
その顔にはどことなく幼さが残っている物の、年相応には見えない程厳つい顔をしている。
その男が、必至に掴み取ろうとしていたボールを片手で軽々と持ち、まるで蔑むような瞳で自分の事を見下ろしていた。
痛む左膝のせいで、立ち上がる事も出来ない、自分の事を。
「・・・・・・・・なんだよ・・・・・・・・・・」
張りつめた空気に耐えられず、ボソリと呟く。
だが、その声に男はなんの反応も示さなかった。
自分と話す価値など無いと、そう言いたげに。
「なんなんだよっ!言いたい事があるなら、はっきり言えば良いだろうっ!!」
瞬間的に沸き上がった怒りに後押しされるように、怒鳴りつける。
それでも男は何も言ってこなかった。
なんの反応も示さなかった。
その無反応に耐えられず、さらに怒鳴りつけようと口を開いた時。
男はようやく反応を示した。
蔑むような、冷え切った瞳に、嘲笑の色を浮かべるという、反応を。
途端にカッと、顔が赤くなる。
立ち上がれない自分を、大きな事を言っておきながらなんの役にも立てなかった自分をあざ笑う男への恥ずかしさと、悔しさと、怒りのために。
その胸ぐらを掴み上げて殴りかかろうにも、今の自分には立つ事すら出来ない。
何も出来ない自分にさらなる怒りが沸き上がり、全身はフルフルと震え出す。
そんな三井に一瞥をくれた男は、ボールを手にしたままなんの未練もなく、背を向けた。
そして、足を踏み出していく。
「ま・・・・・・・・・待てッ!」
その背に、慌てて制止の言葉をかける。
彼が手にしているのは自分のボールなのだ。
彼が持っていても良いものではない。
必至に取りすがろうとするが、思うように身体が動かない。
足が何かに絡み取られたように、動かない。
それでも必死に右腕を伸ばした。
自分にはソレしか無いから。
ソレを奪われたら、自分は空っぽになってしまう。
「待てよっ!」
ドンドン広がる距離に悲痛な叫びが漏れた。
その叫び声にも、男はピクリとも反応を返さない。
床に這い蹲る自分など、最初から居ないと言いたげに。
男の姿が小さくなる。
その手に握られたボールも。
自分の手元からソレが無くなっていく感覚に、自然と涙がこぼれた。
心が凍り付いたように動かない。
瞳にはもう、何も映らない。
ただ、目の前に重苦しい闇が満ちあふれていた。
痛む左足に何かが絡み付き、ズブズブと全身を犯してくる。
鳥肌の立つ不快な感触だったが、少しも気にならなかった。
むしろ、その感触に犯されて当たり前だと胸の内で呟く。
自分の中にあったたった一つのモノを無くしてしまった自分には、このおぞましい闇の中が似合うだろうから。
だから、ゆっくりと目を閉じた。
開けていても閉じていても目の前が暗い事には変わり無いけれど。
それでも、「見えない」よりも「見ない」方が良い。
うっかり見えそうになったら、また胸をかき乱されるから。
闇に絡め取られた自分は、あの明るい世界に相応しくないから。
二度とアソコに戻ろうと思ってはいけない。
だから、あの男は最後に残ってたボールを取り上げたのだろう。
もう戻ってくるなと、そう闇に告げるために。
「・・・・・・・・・・・ははははは・・・・・・・・・・・・・・」
乾いた笑いが口からついて出た。
涙は未だに止まらない。
でも、気にもならなかった。
自分はとっくのとうに壊れているのだから。
今更涙腺の一つや二つおかしくなったところで、どうと言う事は無い。
「・・・・・・もう、イイヤ・・・・・・・・・・・・」
何も考えたくない。
もう、傷つくのはイヤダ。
この先何も期待するものか。
心など傾けるモノか。
胸の内に何か思うモノがなければ、傷など付かないだろうから。
だから、もう何もイラナイ・・・・・・・・・・・
胸の内でそう呟いた。
途端、全身を包むような温かさを感じた。
知っている感触。
心を向けたら駄目だと、いつも心に言い聞かせているモノの温かさ。
ここでこの温かさ引っ張り上げられたら、また同じ事の繰り返しだ。
そう思って必死に目をつむり、身体を硬くしているのに、温かさを与える存在は、縮こまる身体を強引に引っ張り上げてくる。
・・・・・・・・・・・ああ、また、助けられた・・・・・・・・・・・・・
口の中で声も無く呟いたのと同時に、三井はゆっくりと瞳を開けた。
浮上してくる意識と共に。
頬を覆う大きな手の平の存在に、三井はゆっくりと首を巡らせた。
「・・・・・・・・鉄男・・・・・・・・・・・・」
手の平の持ち主の名をそっと呼べば、小さく笑みを返す気配が漂ってくる。
「・・・・・・・・泣きながら寝るな。ガキが。」
からかうように語りかけながら、鉄男はゆっくりとその大きな手の平で三井の濡れた頬を拭い取る。
その、少し乱暴な、だけど鉄男にしては優しい仕草にホッと息を吐き出した。
「・・・・・・・・うるせぇ。」
照れを隠すように態と不機嫌そうに返し、仰向けだった身体を俯けにひっくり返した。そして、枕に己の顔を埋め込む。
大きく息を吸えば鼻腔に鉄男の匂いが届いた。
もう嗅ぎ慣れたその匂いに、ホッとする。
夢にうなされた後だから、余計に。
「いつ帰ってきたんだ?」
「今だ。」
問いかけると、答えはすぐに返ってきた。
「そっか。んじゃ、お帰り。」
ゴロリと身体を転がして再び仰向けになり、ベットの端に腰掛けている鉄男に向って両手を伸ばした。
その甘えるような仕草にからかうような笑みを見せた鉄男だったが、それでも三井の腕に引き寄せられるように上体を倒し、三井が望むように口づけを与えてくれた。
濃厚な口づけを受け入れながら、三井は鉄男の背に腕を回す。その体温を余す事無く、手に入れようとするように。
「・・・・・・・・・鉄男・・・・・・・・・」
口づけの合間に名を呼べば、鉄男がチラリと視線を向けてきた。
三井が何かを話たがっている気配を察して、唇を解放しながら。
「やな、夢を見た・・・・・・・・・・」
いつもいつも。
眠ると毎日のように見る悪夢を。
その内容はいつも鮮明に脳裏に留まっている。
タダの夢だけど、夢では無い。
現実が色濃く混じっているから、苦しさはタダの悪夢の比では無い。
「夢は夢だ。」
三井の言葉を遮るように、口づけながら鉄男が小さく告げる。
三井が見る悪夢と同じように、いつもその口から上る言葉を。
「いつか覚める。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん。」
頷きながらも、信じる事の出来ない自分が居た。
この悪夢はずっと続くのではないかと、そう思って。
途切れた事が無いくらい、見続けているこの夢を。
「鉄男・・・・・・・・・・」
顔を引き寄せて口付ければ、大きな手が身体を撫で上げてきた。
指先が胸の飾りを引っかけた感触に、ビクリと背が震える。
でも、嫌な感じはしない。
鉄男の手は、優しいから。
こんなに優しくされたら、離れる事が出来なくなると思うくらい、優しいから。
自分が近くに居続けるのは彼にとって迷惑でしかないと、分かっているのに。
「鉄男・・・・・・・・・・」
ゴメン。
と言う言葉は、飲み込んだ。
そんな言葉は求めていないだろうから。
だから、言わない。
ガキみたいに、何も分かっていない振りをし続ける。
ガキだから甘えられるのだと、言い訳しながら。
光の中に戻りたいと、願う心は胸の奥に。
痛み