幸せだと、思うこと

人に見つかったら即戻る事、と言う約束を交わしたから、流川は必要以上に外に出ようとしなかった。
三井と共に早朝に学校へ行き、授業が終わり、部活が終わるまでずっと校長室で筋力トレーニングに励み、部活が終わった後、生徒が完全に下校したことを確認してから体育館でボールを使う。
遅い時間に三井と共にアパートに戻り、食事をして風呂に入って寝る。
そう言う生活を、一週間以上続けている。
そこまで行動を制限されたら普通、ストレスが溜まるだろう。少しくらい外に出て歩きたいと思うモノかも知れない。
だが流川は、そんなことを少しも思わなかった。
今の生活に、満足しているから。
何しろ朝から三井と一緒に居られるのだ。
学校に居る間は一緒に居られないのだが、授業が空いている時間には校長室に来てくれるし、部活の後のトレーニングに付き合ってくれる。
その上、家に帰れば手作りの食事を出してくれるのだ。
夜寝るときは、その身体を抱きしめて眠る事が出来る。
こんな幸せな事はない。
アメリカに居るときは、持っていった写真を眺める事しかできなかったのだから。
だから、外に出るのが車に乗り込むまでの短い時間だけだったとしても、なんの文句も無かった。
流川が今の生活になんの不満も抱いていないことは、三井にも分かっていると思う。
鈍いようで案外鋭い男なので、。
それでも、流川に不自由な生活を強いている事が気にかかるらしい。もの凄く気を遣ってくれている。
それがまた、嬉しい。
三井が気を遣ってくれるなら、いくらでも不自由な生活をしてやると、本気で思うほど。
学校から帰る車の中で、流川は口元をゆるめた。
今日は土曜日だったため、体育館でのトレーニングをいつもより早い時間に始められた。だからと言って終了時間が前倒しになったわけではない。帰る時に人目に付かないようにするために、遅い時間に家に戻らなければならないので。
そんなわけで、今日は長く体育館でトレーニングできた。その間、三井もビッシリ付き合ってくれた。
再会した当初は現役の選手じゃないから、ろくに付き合えないと言っていた三井ではあるが、十分に練習相手になっている。なんで選手として実業団に入らず、高校の教師なんてモノになったのだと思うほど、その動きにはキレがあった。
「―――もったいねぇ」
「何か言ったか?」
再会してから目にした三井の動きを思い浮かべながらボソリと呟いた言葉に、三井が不思議そうに問いかけてきた。その問いに、軽く首を振り返す。
多分、その理由を問いかけたところで、答えてくれないと思うから。
答えてくれるのは、何年も先のことだろう。大事なことは、口にしてくれない人だから。
運転席に座る男の顔を、チラリと見る。
アメリカに行ったら、今以上にバスケに打ち込んでくれるだろうか。自分の相手をしてくれるだろうか。そうして貰うには、どうしたら、どう言ったら良いのだろうか。
そう考えながら見つめ続ける流川の視線に気付いたのだろう。三井の視線が助手席に座る流川へと流れてきた。
「なんだよ」
「別になんもないっす。先輩が近くにいて、幸せだって、思ってただけっす」
「―――NBAのMVPプレイヤーが、その程度の事で幸せ感じるってーのはどうなんだよ」
「その程度じゃねぇ。もの凄く凄いことだ」
「もの凄く凄いって……お前、日本語下手になったんじゃねぇの?」
流川の返答に、三井はクスクスと笑いながら、「いや、日本語が乏しいのは昔からか」と続けた。
失礼な事を言われているとは思ったが、三井が楽しそうなので良いかと思い、文句の言葉は発しないでおいた。
自然と口元が綻ぶ。こんな些細な会話にも、幸せを感じて。
そんな流川の顔にチラリと視線を流してきた三井だったが、すぐにその視線を前方へ戻した。そして、軽く眉間に皺を寄せた。
流川の態度に腹を立てた表情ではない。何かを考えているようだ。いったい何を考えているのだろうかと首を傾げたところで、三井は右折を告げるウィンカーを点灯させた。
軽く目を瞬かせた。
三井の家は、目前に迫った交差点を左折した方向にあるので。
一瞬自分の記憶違いかと思ったが、そんなわけはない。三井に関する事は記憶力がもの凄く良いのだ。
「―――先輩?」
どこに行くのだと、胸中で続ける。
その胸の内で発せられた言葉を、不思議そうな瞳の流川から感じ取ったのだろう。三井はニヤリと、口元を引き上げた。
「ちょっと、遠回り」
悪戯を思いついた子供の様な口調でそう告げた三井は、それ以上何も告げずに前方へと視線を戻した。
軽く首を傾げる。これが昼間だったら、景色を見せるために遠回りをしているのかと思うところかも知れないが、今は夜だ。田舎だからか、街頭の数も少なく、周りに何があるのか見て取る事も出来ない。そんな状況で遠回りして、なんの意味があるのだろうか。
三井の考えがさっぱり分からず首を傾げたが、彼と二人で居られるなら、そこがどこでも全く構わないので、すぐに考える事を放棄した。
どれくらい車を走らせただろうか。だんだん潮の香りが強くなってきた。耳には波の音も聞こえ始める。
軽く首を傾げる。海になにか用でもあるのだろうかと。それとも、目的地に向かう途中にたまたま海があっただけだろうか。
三井の住み処の住所や勤めている高校の名前や住所は記憶していても、その周りに何があるのかなんて事まで気にしていなかったので、さっぱり分からない。
いったいどこに向かっているのだろうかと考えながら、運転席に座る男の横顔を眺めていると、それまで信号が一つも見あたらない道を真っ直ぐに走っていた車が脇にそれた。そしてゆっくりと、停車する。
ちゃんとした駐車場ではないが、駐車できるスペースが確保されている場所のようだ。
チラリと辺りを見回してみたが、何かがありそうな気配はない。暗いので良く分からないが、目の前に海が広がっているだけのように見える。
「降りるぞ」
さっさとキーを抜いた三井が、短く言葉を発した。そして、車から降りる。
今まで、家の前と学校の前以外で流川を車から降ろそうとしたことがなかった三井が突然告げてきた言葉に驚き、すぐに車から降りることが出来なかったが、そんな流川に構わずさっさと海岸へと歩を進めていく三井の姿を目にして、慌てて車から降りた。
先を歩く三井の元まで駆け足で向かい、並んだ所で歩幅を合わせる。
三井の視線がこちらに向く。機嫌が良さそうにも悪そうにも見えない。どちらかというと、無表情に近い顔をしている。
そんな顔でしばし流川の顔を見つめてきた三井が、唐突に左手を差し出してきた。
軽く首を傾げる。その左手が何を告げているのか、分からなくて。
何かを欲しているような気はする。でも、今現在流川が所持しているモノは何もない。買い物の必要もないから、財布の一つも持ち歩いていないのだ。
ポケットの中に小銭が入っていることもない。缶ジュースの一本も買えない状態だ。
そんな自分の状況を、三井も良く分かっているはずなのだが。
考えても彼が求めている事が分からず、差し出された左手をジッと見つめ続けていると、三井の眉間に軽く皺が寄った。そして、苛立たしげに言葉をかけてくる。
「手っ!」
「手?」
短すぎる言葉に首を傾げながらも、訓練された犬のように右手を差し出していた。そんな流川の手を、三井が強引に掴み取ってくる。そしてズカズカと、大股で砂地を歩き出した。
引きずられるようにして歩きながら、ポカンと口を開ける。
これはあれか。手を繋いで歩いていると言う状況だろうか。と言うか、三井に手を繋いで歩こうと誘われていた訳か、さっきは。
ゆるりと、口端を引き上げた。
そして強引に引っ張られていた身体に力を入れ、動きを止める。
途端に、不機嫌も露わな三井の瞳が向けられた。その瞳を無視して掴み取るように捕まれていた手を一旦放し、指に指を絡めるようにして握り返す。そしてニコリと、笑い返した。
「手を繋ぐなら、こうでしょ」
そう告げると、三井はムッと口を尖らせた。ますます機嫌を損ねたように見えるが、そうではないことは分かっている。暗くて見えないが、明るいところで見たら絶対に顔を赤くしているはずだ。彼は案外、恥ずかしがり屋なので。
今度は流川が、動きを止めた三井の手を引くようにして歩き出す。先程とは違って、ゆっくりとしたペースで。
その動きにあわせて三井も歩を進めだした。
会話はない。
聞こえてくるのは互いの呼吸の音と、波の音だけだ。
それでも、気詰まりにならない。もの凄く、気持ちが落ち着いてくる。この一週間程の生活にはなんの不満も無かったが、十分に幸せだと思っていたが、今は、それ以上に幸せだ。
暗い砂浜には自分と三井しか居ないから、この世に自分たちしか居ないような気がして、余計に。
そこまで考えて、気付いた。
三井が、この町に来てから外に出てこんなのんびりした時間を過ごす事が出来ずにいる流川に気を遣って、わざわざここまで車を走らせてくれたのだと。
「―――先輩」
「あぁ? なんだ?」
「大好きっす」
きっぱりと、迷いの無い言葉で告げた言葉に、三井は一瞬言葉を閉ざした。
流川的には、直ぐさま「俺も」と返して欲しいところだったが。
チラリと反応を窺うように視線を流せば、三井は口元に小さく笑みを浮かべていた。
「―――なんすか?」
「いや、大好きって、すげーガキっぽい言い方だなと、思ってよ」
三井の反応がいまいち分からず問いかければ、そんな言葉を返された。
そうだろうかと、首を傾げる。流川的にはそうは思わないが。
でも、その言葉を受け取る三井がそう思うのだったら、そうなのだろう。ならば言葉を変えて自分の気持ちを告げようと、再度口を開く。
「じゃあ、愛してます」
「じゃあってなんだよ、じゃあって」
今度もまたクスクスと小さく笑みを零した三井は、目元と口元に笑みを刻んだまま流川の顔を見上げてきた。そしてニコリと、笑いかけてくる。
「俺も、お前の事が好きだぜ」
「愛してる?」
「ばーか」
小首を傾げながら問いかけた言葉には、軽い拳骨を返された。明確な答えはない。だが、楽しげに細められている瞳を見たら、答えは分かった。
言葉にして欲しいとは、思う。
思うが、自分に付いてきてくれると言う事で、彼の気持ちは十分分かる。
軽く身をかがめ、唇に触れるだけの口づけを落とす。そしてぎゅっと、繋いだままの手を握りしめた。
もう絶対にこの手を放さないと、胸の内で決意しながら。
そんな流川の決意が伝わったのかどうかは分からないが、三井も握り返してくれた。そしてフッと、口元をゆるめる。
「もうちょっと歩こうぜ」
「うす」
柔らかな声に誘われ、ゆっくりと歩を進める。
先程と同じように、とくに言葉を交わすこともせず。
互いの呼吸の音と、波の音を聞きながら。
繋いだ手のぬくもりを、感じながら。










【SDページ、向かえに来られた男の続編になります】






〈20091007〉