旅立つ君を前にして

「―――ふぅん」
 具体的な数字を示された三井は、小さくそう漏らした。そして、手にしていたコーヒーカップを口元に引き上げ、まだ十分に熱い液体をコクリと飲み込む。
 そして、数字を告げてきた男へと、視線を向けた。
「で?」
 その返しに相手は不服そうに顔を歪めた。
 ほんの僅かな変化だから、気付かない人の方が多いだろうが。
 無言で見つめ返してくる黒い双眸には、三井の言葉の意味がわからないと書かれている。どうしてそんな反応が返ってくるのか分からないと。
 そんな無言のメッセージを読み取れるようになった自分に苦笑を浮かべる。そんなことをするから、彼がますます口を開かなくなるのだろうと思って。
 だから、彼が口を開くように言葉を続けてやる。
「それがなんだ? 俺に祝いの言葉を言えって? 『おめでとう。長年の夢が叶って良かったな』ってよ」
 茶化すような口調と眼差しで告げると、男は更に顔を歪めた後、軽く首を左右に振った。
「そうじゃない」
「ならなんだ?」
 発せられた言葉に直ぐさま問い返せば、男は一瞬口を噤んだ。
 瞳には、それくらいわかるだろうと言いたげな光が宿っている。
 確かに、彼が言わんとしていることはわかる。だが、今回は絶対に自分からそれを口にしようとは思わない。彼から告げられた言葉への返答は、もうずっと長いこと用意してきたのだから。そのシチュエーション通りに事を運んで貰わないと困る。
 だから、素知らぬ顔で目の前に座っている男の、自分よりも色の濃い瞳を見つめた。
 この瞳を見つめるのもあと少しなのだと、思いながら。
「言う気がないなら俺は帰るぜ。レポートの期限がせまってんだよ」
 言いながら席を立ち上がろうとしたら、前方から長い腕が伸びてきた。そして、三井の手首を掴み取る。
「待て。―――ちゃんと、言うっす」
 その言葉に、僅かに瞳を細めて男の言葉が嘘か本当か見定めるためにジッと見つめる。
 その眼差しに、男は揺るぎない視線を返してきた。
 どうやら本気でちゃんと言うつもりになったようだ。そう判断し、三井は小さく気を吐いた。そして、軽く捕まれた腕を振って男の手を放し、立ったばかりの席に再度腰を下ろした。
 ドカリと、大きな音を立てて。
 不遜としか言いようのない態度で。
 そして、さっさと言えと言わんばかりの視線を投げてやる。
 そんな三井の視線をしばし見つめ返した男は、小さく息を吐いた後、感情の色が見え難い瞳に、強い光を宿して言葉を発してきた。
「センパイ」
「なんだ」
「一緒に来てください」
「アホか」
 冗談の色など欠片もない男の言葉を、軽い口調で切って捨てた。
 そして深々と息を吐き出し、呆れの色を十分にふくませた声と表情で言葉を続ける。
「ンな事出来るわけねぇだろ。俺には俺の生活があるんだよ!」
「センパイも俺と一緒に留学すればいい」
「冗談言うな。俺程度の腕で本場の奴らに太刀打ちできるわけがねぇだろうが」
 三井の返答に、男は不服そうに顔を歪ませた。だが、それは間違いの無いことだ。
 人並み以上にバスケが上手いとは思っているが、アメリカの人間に敵うほどではないだろう。実際に試したわけではないが、そこまで自信過剰な人間ではない。
 そもそも、バスケで一生食べていこうとは思っていない。一生続けていきたいとは思っているが、プロとしてコートに立って居られる年月はそう長くないと思っているので。
 だから、自分なりに自分の将来設計を立てている。一生バスケと関わっていられる環境を、手に入れるために。
 その将来設計の中に、彼と共にアメリカに行く、と言う選択肢はない。
 揺るぎない瞳で男の黒い双眸を見つめ返す。何をどう言われても、お前の言うことは聞かないというメッセージを込めて。
 そのメッセージを正確に受け取ったのだろう。男は力なく頷いた。
「―――わかりました。でも、見送りくらいは来てください」
「やだね」
「―――なんで?」
「赤木や宮城やアヤコ……ってか、バスケ部の連中やらなにやらが大挙して見送りに行くのは目に見えてるからな。そんなところに加わりたくねぇんだよ、俺は」
「あいつ等に来させなければいいのか?」
「無理無理。来るなって言われたら余計に見送りに行きたくなるのが宮城だぜ? アヤコもな。親が死なない限り、お前の見送りには行くだろうよ」
 だからいかないと、告げる。
 嘘でもなんでもなく、本心から。
 でも、誰も居なくても、きっと自分は見送りになんて行かないだろう。彼が旅立つ姿を見るのは嬉しいけれども、同じくらい悔しくて寂しくもあるから。
 多分、綺麗に笑って送り出せない。だから、行かない。それは高校生の時から決めていたことだ。
 そんなことは、流川にはいわないけれど。
 三井はニヤリと笑んだ。いつも通りの、不遜な笑みを。
 そして、目の前にある触り慣れた頭に細く長い腕を伸ばし、グリグリと撫で回す。
「まぁ、その分出発前にはかまい倒してやるよ」
「かまい倒す?」
「おう。餞別代わりにお前の気が済むまで付き合ってやるよ。バスケでも酒でも、何でもな」
 だからこれ以上駄々をこねるなと言い返せば、流川は不服そうに顔を歪めた。
 空港での見送りに何か淡い幻想を抱いていたのだろうか。
「キャラじゃねぇぞ。そんなんはよ」
 そう胸の内で呟きながら、難しい顔で考え込んでいる男の顔を見つめた。
 あと僅かで見られなくなるその顔を、脳裏に焼き付けるために。