「お前にとって一番大事な事って、何だ?」
 ビクトールがそう聞いてきたのは、いつのことだっただろうか。二人で旅をし始めた、最初の頃だったかも知れない。人里離れた青々した草原が見える街道の横で、僅かな休憩を取っていた時に語りかけてきた事は、覚えている。
 男が何故そんなことを聞いてきたのか。その理由は分からない。その場で聞いてもはぐらかされたし、今聞いてもそんな会話は覚えていないと言うだろう。理由は、闇に葬り去られたようなものだ。
『大事なモノ』ではなく、『大事なコト』と聞いてきた事にどんな意味があったのか。それすらも当時のフリックには分からなかった。ビクトールとの付き合いが、まだ浅かったから。今だったら、何となく分かるけれど。
 彼は、『恋人』の名を言わせたく無かったのだろう。『大事なモノ』と聞かれたら、当時も今も、少しの迷いも無くその名を返していただろうから。
 彼女は、『モノ』に執着しない自分が、初めてその存在を認めた人間だった。傍らに居ても良いと、そう思える存在だった。だから、今でも彼女は特別な『モノ』なのだ。
 冷めた目で世の中を見つめ、無邪気な笑顔で仲間と戯れる。
 冷静な心で戦況を見ているくせに、情に流されやすい甘さも持っている。
 そんな、相反する心を併せ持ち、人の上に立っていた、女。
 本当の『恋人』では無かったけれど、大切だった、『モノ』。
 その名を封じられては、フリックには答えるべき言葉が無いに等しい。ビクトールが何を聞きたいのか、それすらも分からない状況で、答える言葉はさらに無くなっていく。
 だから、こう返した。
「人に聞くときは、先に自分の答えを出すもんだぜ?」
 ビクトールに聞く事で、自分が答えるべき言葉の傾向を探るために。
 そんなフリックの内心など少しも気付かずに、彼は得意げな顔で答えてきた。
「俺にとって大事なコトは、大切な人達が楽しく暮らしているって、事だな。」
「大切な人?」
「ああ。家族とか、仲間とか、恋人とかがな。」
 当然だろうと言うように、何かを自慢するようにそう言い切ったビクトールの態度に、フリックの顔には自然と苦笑がこぼれ落ちた。
 彼らしい答えだと、思ったから。
 そんなフリックの反応にニッと笑いかけてきたビクトールは、思いついたように付け加えてくる。
「ああ、あと。そこら辺にいる子供達もな。子供が笑っている姿を見ると、こっちまで幸せな気分になるもんだからなぁ・・・・・。」
 そう言ったビクトールは、目の前に子供達がいるような眼差しをしている。目の前に広がっているのは、青々とした草原なのに。子供など、一人もいないというのに。
 その顔を見つめながら、ふと思い出した。城にいたとき、彼が積極的に子供達と遊んでいた姿を。下手をすると、兵士の訓練に立ち会っている回数よりも、子供達と遊んでいる回数の方が多かったのでは無いだろうか。
 そう遠くない過去の情景を思い浮かべていると、トンッと、軽く肩を叩かれた。
「ほら、俺は答えたんだから、お前も言えよ!」
 初恋の相手の名を教え合う少年のように、ビクトールの瞳には興味と好奇心と期待に満ちあふれていた。
 彼がどんな言葉を望んでいるのか、いまいち分からない。どうしようかと悩んだ挙げ句、結局正直な心の内を教えてやった。あまり差し障りが無いくらいに、正直に。
「生きているコト、かな。」
「生きてること?」
「ああ。」
「・・・・・・それはまぁ、随分とシンプルだなぁ・・・・・。」
「だけど、大事なコトだろう?」
「まぁなぁ・・・・・・・。」
 ニッと笑いかければ、ビクトールは渋々と言った様子で頷き返してきた。どうやら彼の期待には応えられなかったらしい。フリックは、小さく笑いを零した。
 フリックにとって一番大事なことは、『今、生きている』と言うこと。『命』ではない。生きている実感を得られる事が、一番大事な事なのだ。
 長い間戦場に身を置いているせいなのか、生まれついての性分なのか。フリックは、戦っていないと生の実感を得られない。
 ビクトールは戦いのない平和な地でも村人に紛れ、何事もなく暮らしていけるだろう。だが、自分には絶対に無理だ。どんなに頑張っても、ぬるま湯に浸かったような生活は三ヶ月も持たない。戦わない生活など、剣を振るわずにいる生活など、フリックには耐えられない。それは、今までの経験から分かっている事だ。
 自分が生きている実感を得るために他の命を切り捨てるというのは、間違っているのだろう。例え斬るのをモンスターだけに止めたとしても。そう分かっているのだが、敵に斬りかかる事を止める事は出来ない。止めたら、自分が『生きて』行けないから。呼吸をしていても、生きている実感がなければ死体と同じだ。
 そんな事を内心で考えていたフリックの耳に、ビクトールの呟きが聞えてきた。
「・・・・・・でもまぁ、それなら大丈夫か。」
 ボソリと零れた一言。その一言で、彼が何を知りたかったのか、何となく分かった。
 ビクトールは、フリックが『恋人』の後を追って自ら命を断つ事を恐れていたのだろう。自分が救い出し、この世に繋ぎ止めた命が、失われる事を。
 そう思うと、自然と口元に笑みが広がった。まだ『フリック』というモノが見えていない彼に。人を見る目があると豪語しているくせに、それでもまだ自分を『青雷』として見ている彼に。
 だから、ワザとこんな事を言ってみた。
「何を心配しているのか知らないが、俺は生きられるだけ生き抜くよ。お前の身体を、盾にしてでもな。」
 ホンノ少し本心を混ぜてそう言い返せば、ビクトールは驚いたように瞳を大きく見開いて見せた。しかし、すぐにその顔には満面の笑みが広がっていく。
「・・・・・そっか。そりゃー、良いな。」
 実に嬉しそうに返され、今度はフリックが驚いた。盾にすると宣言されて喜ぶ人間などいないだろうに。そう思うから、思わず聞き返していた。
「何が良いんだよ。」
「うん?生きる気満々な所がさ。良いんじゃねーの?」
「お前の事を盾にするって、言っているのにか?」
「ああ。俺はそう簡単には死なないからな。屁でも無いぜ。それくらい。」
 自信満々な言葉に、フリックは呆れてしまった。確かに、彼は人並み以上に打たれ強いし、体力もある。そう簡単に死にはしないだろう。だが、そう過信しているといつか必ず痛い目を見るだろう。過信は、隙を作るのだ。
 そうは思うが、それは自分には関係のない事だ。怪我をするのは自分では無いのだから。彼とは後少しで離れる事になるのだから、彼がどこでのたれ死ぬ事になろうと関係ない。命からがらその状況を脱する事が出来たのなら、この自信過剰な男でも一度痛い目を見たら考えを変えるだろう。その時に、命があればの、話だが。
 どちらにしろ、自分が心を砕く事では無い。そう思うから、フリックは適当に頷き返して見せた。
「じゃあ、遠慮無く利用させて貰うよ。」。
「おう!任せとけって!」
 そう言いながら彼が自分の胸を力強く叩いていたのはつい最近の事のような気がしていたが、思い出してみれば随分と昔の出来事だ。もう、あの男と共に旅をするようになってから三年近くも経っているのだから。
 人とは長く付き合えない自分にしては、驚異的な長さだ。オデッサ以外に、そんな人間に出会うとは、思っていなかったのに。
 その三年の年月を感慨深く思っていたフリックは、いきなり背中を強く叩かれて思いの底から意識を引き上げた。
「フリックさん!!しっかりして!!」
 かけられた言葉に視線を向けると、そこには城主である少年、チッチが大きな瞳に涙を溜めて、フリックの顔を見上げて立っていた。
 その瞳を見つめ返した事で、漸く思い出した。今がどういう状況なのか。
 書類仕事をしていた所を呼び出されて赴いた医務室に、これ以上ない位に青ざめた顔色のビクトールが、運び込まれていた事を。
 どうやらチッチ共に出かけた遠征先で強力なモンスターに出会い、そのモンスターの一撃を食らいそうになったチッチを身を挺して守り、深手を負ったらしい。それにも関わらずに無謀にも敵に斬りかかったとか。モンスターを倒したものの、今現在出血多量で死にかけているらしい。医務室にやってきた最初の頃に、今夜が峠だと、ホウアンに告げられた。
 はっきり言って、馬鹿も良いところだ。格好つけた結果がコレだとは。
 真っ白い包帯を巻かれ、清潔な寝台に寝かされ、ピクリとも動かない男。いつも生気に満ちあふれた顔が、土気色の変わっている。
「・・・・・・無様だなぁ・・・・・。」
「フリックさんっ!!!」
 見慣れぬ男の姿に思わず本音を零すと、チッチに怒鳴られてしまった。その傍らに立つナナミにも睨み付けられ、ホウアンの手伝いをしていたトウタにも、非難を眼差しを向けられる。
 そんな子供達の瞳に晒されたフリックには、苦笑を浮かべて返す事しか出来なかった。
「悪い悪い。」
「悪いじゃ、無いよっ!ビクトールさんの一大事だって言うのに、なんで、そんなっ・・・・・!」
 潤んでいたチッチの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。自分を守るためにビクトールが怪我をしたのだ。彼も気が気では無いのだろう。
 その少年の心を落ち着けるために、フリックは軽くチッチの頭を叩いてやる。そして、ゆっくりとビクトールの横たわる寝台へと、近づいた。
 生の色を無くした顔を、真上から見下ろした。
 死体を見慣れた自分の目から見ても、ソレ等と大差ない顔色だ。生の気配よりも、死の気配の方が色濃く出ている。
(これは、駄目かも知れないな。)
 そんな言葉が、脳裏を掠めた。
 そっと、頬に手を伸ばす。ホウアンは止めようとしてこない。彼も、ビクトールの死期が近いと思っているのだろう。回復出来ずに死ぬ確立の方が、高いのだと。だから、最後の交流をさせようとしているのかも知れない。
 そんな気遣いをして貰うような間柄では無いのだが。なんとなく、苦笑が浮かんだ。
 指先が触れた頬は、体温が高く、真冬でも半袖で過ごしている男とも思えないほど冷たく冷えていた。触れた方が、より強くビクトールの死を感じ取れる。
 いつも生気に満ちあふれている男とは思えない、憔悴した姿。苦悶に歪む顔。
 それらを見つめている内に、何故か段々腹が立ってきた。
 頬に手を触れさせたまま、フリックはビクトールに言葉をかける。
「・・・・・・お前の大事なコトは、何だ?」
 冷えたビクトールの身体を更に冷やすような冷たい声音に、背後の気配が揺れた。もっと優しい言葉をかけろと、そう言いたいのだろう。死に向かうモノの心を現世に引き留めるような、そんな魅惑的な言葉を。
 だが、そんなモノは自分達には必要ない。そんな甘い、優しい関係ではないのだから。そんな関係、フリックは求めていない。
 ジッと、ビクトールの顔を覗き込んだ。僅かな反応を逃さないように。
 そして、自分で言った言葉を頭の中で反芻する。
 ビクトールにとって、大事なコト。
 大切な人達が、幸せでいる事。子供が、笑っている事。
 自分でそう言ったのに、彼は自ら子供を泣かせる行為をしている。そう簡単に死なないと言いながら、今まさに死にかけている。とても、簡単に。
「ほら、見た事か」
 と、内心で呟く。口に出したら、チッチが怒るから。
 そっと、指先を首筋に移してみる。微かに感じる体温と、鼓動。弱々しいモノではあるが、確かに生きている証拠が、そこにある。
 だが、こんな彼に興味は無い。肉体が生きているだけでは、自分の隣に立てはしないから。立たせは、しないから。
 家族を、親しくしていた者達を一日で失い、それ以上失うコトを恐れて恋人を作らなかった、ビクトール。
 その彼が、執着を見せたモノ。
 いつもその傍らに立つ存在。立たせだがっている、存在。
 背中を合わせて戦える、多くを語らずとも息の合う、彼が相棒と呼ぶ存在。
 守るのではなく、共に同じ道を生きていける存在。
 ソレを大事に思わずに、何を大事に思うのだろうか。
 この男が。
 うぬぼれでは無く、そう思う。
 指先でビクトールの鼓動を感じながら、再び言葉をかける。
「お前の大事なモノは、なんだ?」
 その言葉に、ピクリと、ビクトールの身体が揺れた。傍目には分からないくらい、小さく。それでも確かに返ってきた反応に、フリックはニッと口元を引き上げた。
 背後に立つ人達には己の顔が見えない事を、知っているから。だから、素の顔を覗かせる。酷薄とも言える、優しさの欠片も無い笑みを。
「俺の大事なモノになりたかったら、生き抜く事だ。」
 冷たい声音でそれだけ言うと、フリックはさっさと医務室を後にした。チッチが背後で何か叫んでいたが、医者でもない自分があそこに留まっている意味は無い。彼の容態が悪くなっても、何を出来るわけでもないのだから。
 手を握って励ませと言われても、そんな気は少しも起きやしない。人の力に頼って繋ぎ止めるような命には、興味が無い。そもそも彼は、生きる気があるのなら自力で死の淵から立ち上がってくるだろう。そう言う男だ。
 酒場に行く気にもなれなかったフリックは、さっさと自室へと引きこもった。早々に寝てしまおうかと思ったが、その考えはすぐに改める。
 棚にあった酒瓶を一本手にしたフリックは、流れるような動作で屋上へと上っていった。
 そこから見えるのは、満月ではないけれど、僅かに円に見える大きさの月。ホンノ少し端の欠けた月が、フリックの姿を見下ろしている。
 それに目をやり、フッと微笑みかけた。そこに、誰かがいるかのように。
「アイツがそこに行ったら、蹴り出してくれよ。まだ、あいつとは付き合えそうだからな・・・・・・。」
 白く、淡い光を放つ月へと、そう囁いた。
 酒瓶を傾けながら。
 一人で飲んでいるのに二人で飲んでいる気分になるのは、月がジッとこちらを見つめて来るからだろうか。
 その月を見上げながら、脳裏に言葉が浮かぶ。
 今夜は、眠れないかも知れない。と。
 そう思う自分が、少しおかしかった。
























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思いは未だ、曖昧で。


大切なモノ