朝、いつもの時間に目覚まし時計が鳴った。
時刻は六時。
だが、まだ目蓋は開こうとしなかった。
朝は駄目なのだ。どうにもこうにも。さっさと起きあがることが出来ない。
起きるに起きれなくてベットの中でグダグダしている間に、もう一つの目覚ましが鳴った。
六時十五分。
まだ、なんとかなる。
微睡みかけたところに、更に音が被さった。
六時三十分。
それでもまだ起きあがれずにベットの中でうなり声を上げていると、さらに音が鳴り出した。
六時四十五分。
さすがにそれが鳴って起きずにいたら遅刻だ。
起き上がってからがまた長いのだから。自分は。
眠さで重い頭をなんとか持ち上げながら、フラフラとベットから抜けだし、洗面所へと向かう。
まずは顔を洗って、思考をすっきりさせなければならない。
半分眠りながらも顔を洗い、フラフラと室内を歩いていく。
目指すのはキッチンだが、目的地にたどり着く前にテレビの電源を入れる。
画面から時折流れる時刻が行動の目安になるし、ある程度の情報も耳に入ってくるから、画面を見ることはなくてもとりあえず点けるのが習慣になっているのだ。
程なくして画像が浮かび上がったテレビからアナウンサーがニュースを読み上げる声を聞くともなしに聞きながら、キッチンへと足を踏み入れた。
朝食は取らない。朝から物を食べたら内蔵が重くて動けなくなるのだ。吐き気すら覚える日もあるくらいなので、滅多な事では取らない事にしている。気付けのつもりで熱いコーヒーを飲むだけだ。
時間がないので、味を二の次にしたインスタントコーヒーを飲み干していく。
その時点で思考は大分晴れてくる。
玄関に向かって新聞を取り、一面と経済面にザッと目を通してから、再び寝室へと取って返した。
そろそろ着替えないとまずいのだ。
時刻は七時四十五分。
会社まで電車で三十分。
始業時刻は九時。
ギリギリに行くのもどうかと思うので早めに着きたいところだから、八時ちょっと過ぎには出かけたい所だ。
少し動作を速めてワイシャツに着替え、スラックスに足を通す。
上着はリビングのイスに投げかけて、洗面所に取って返して髪を整える。
「・・・・こんなものか。」
鏡の中の自分にそう呟くと、リビングに戻って上着に袖を通し、鞄を手に取った。
財布はある。定期入れも、家の鍵も。
それさえあれば、なんとかなる。
その三点を持っている事を確認してから、足早に玄関へと向かった。
そろそろ八時五分になる。
慌てる時間でもないが、早く動いて損することはない。
もう思考ははっきりしていることだし。
家の鍵を閉めると、早足気味で歩き始めた。
最寄りの駅には徒歩五分で着く。
駅に着いたのは八時十分過ぎ。
どうやら今日も間に合いそうだ。
ホッとため息を付きながら、ホームに走り込んでくる電車を待った。
程なくして、電車は現れる。
車内は混雑していた。だが、それなりにスペースが残っている。
下車する人を見送った後、空いたスペースになんとか身を滑り込ませた。
ドアが閉まり、ほんの少しだけスペースが広がる。
そのスペースにそっと身体を移動し、ホッとため息を付いた。
毎朝毎朝。
この混雑にはウンザリする。
これを避けたいのならば早起きをしろと言いたいところだが、そんなことが出来ているのならとっくのとうにそうしている。どんなに努力しても、早起きなどできっこない。
そんな事は学生時代から分かっていることなので、今更チャレンジしようとも思わないのだ。
と、その時。
妙なモノを身体に感じた。
最初は気のせいだと思った。
誰かの鞄が当たっているのだろうと、その程度に思っていたのだ。
何しろ自分は男なのだ。
子供の頃は整った顔立ちが災いしたのか、変な大人に声をかけられる事が多々あったが、成長期を迎えてからはそんなことは無くなっている。
だから、そんなことは気のせいだと。そう思いこんでいた。
だが、これはどう考えてもおかしい。
何か明確は意思を持って動いているとしか思えない。
自分の臀部をまさぐる、この手の動きは。
これが噂に聞く痴女と言う物だろうかと最初は思った。
だが、周りに視線を向けても女性の姿は影も見当たらない。
自分の周りを囲むのは、彩りの乏しいスーツの群れ。
ならば、この手の持ち主も男なのだろう。
何が楽しくて男のシリなど撫でるのだ。
訝しんでいると、抵抗が無いことに味を占めたのか、手の動きが積極的になってきた。
臀部をなで回すだけだったソレは、前へと回り、股間の物へと伸びてくる。
「・・・・・っ!!」
それはさすがに黙っておくわけにはいかない。
身をよじって逃れようと試みたが、周りにある肉壁は厚く、手から逃れる事が出来ない。
それどころか、抵抗されてさらに燃えたのか、動きはドンドン積極的になってくる。
形をなぞるように指先が上下し、股間のモノを握りこんではやんわりと刺激を与えてくる。
止めてくれと声を大にして叫びたい所だが、大の男が痴漢だと騒ぎ立てるのも恥ずかしい。
次の駅に着いたら、遅刻覚悟で降りよう。
そう決意し、甘んじて手の与える刺激を受け入れていた。
だが、嫌なものはやはりイヤだった。
イヤなのに、弄ばれる股間の物は熱を持ち始める。
そんな生理現象を起こす自分への怒りと羞恥心に顔が赤く染まっていく。
男の自分でもこうなのだ。
女の人は、さぞ怖いのだろう。
どこか冷静な部分でそう考えた。
いや、冷静なのではない。
現実逃避をしているのだ。
だが、逃避出来るほど現実は甘くなかった。
悔しさに涙が浮かんでくる。
抵抗出来ない自分への情けなさにも。
と、突然イヤラシイ動きを繰り返す手の存在が無くなった。
何事かと思って振り向こうとしたところに、背後から怒鳴り声が立ち上がった。
「貴様っ!何をしているっ!!」
その怒声に慌てて振り返ると、そこには僅かな隙間が出来ていた。
そしてそこには、一人の男の腕を捻り上げる、男の姿が。
「朝っぱらからそんな恥ずかしい事をするなど・・・・・。いい大人のする事かっ!警察につきだしてやるっ!」
どうやら、自分に痴漢行為を働いていた男をこの青年が捕まえてくれたらしい。
未だに涙がにじんでいる瞳でそんな姿を見つめていると、彼はその視線に気が付いたらしい。
痴漢男を組み敷きながら、こちらへと視線を向けてきた。
綺麗な金色の柔らかそうな髪に、濁りのない、正義感に燃えた紫の瞳。
その瞳に見つめられ、発しようと思っていた言葉を飲み込んでしまった。
何故かは分からないが。
早く礼を言わなければ。
次の駅に着いたら、この男は降りてしまう。
そう思うのに、言葉が出てこなかった。
「・・・・大丈夫ですか?」
先に問いかけられ、何故か身体が小さく震えた。
「・・・・はい。ご迷惑を、おかけして・・・・・。」
「迷惑など。」
ニコリと微笑む顔に、引きつけられる。
「・・・・あの、あなたの名前は・・・・・?」
「俺ですか?俺は・・・・・・・・」
「・・・・・ルっ!・・・・・ヴァルっ!!!パーシヴァルっ!!!!」
突然耳元で叫ばれた怒声に、閉じていた瞳が反射的に勢いよく開いた。
視界には見慣れた天井が映っている。だが、一瞬自分の居場所が分からなかった。
辺りをキョロキョロと見回し、漸く自室であることに気が付く。自室と言っても、仮の宿ではあるのだが。
「・・・・・まったく。珍しく遅くまで寝ていると思ったら・・・・。寝過ぎだぞ。」
どこか心配した様な声音でかけられた言葉に視線を向けると、そこには金色の髪と紫の瞳を持つ見慣れた同僚の姿があった。
「・・・・・ボルス。」
「なんだ?」
思わず名を呼びかけてしまったが、とくに何があるというわけでもなく。その先に続ける言葉は無かった。
その事に首を傾げたボルスは、すぐにその顔に心配するような表情を浮かべて返した。
「・・・・大丈夫か?なんだかぼうっとしているが・・・・。熱でもあるのか?」
「大丈夫だ。なんともない。ちょっと、寝ぼけていただけで・・・・・。」
「そうか?・・・・なら、良いんだが・・・・・・・。」
納得していない様子ではあったが、ボルスはそれ以上何も言っては来なかった。
変わりに窓辺に向かうと、勢いよく窓を開け放ち、新鮮な空気を室内に取り込んでみせる。
その空気で、頭が徐々に冴えてくる。それと同時に、先ほどまで見ていた夢の断片を思い出した。
「・・・・ボルス・・・・。」
「なんだ?」
「変な、夢を見たぞ。」
「夢?」
僅かに首を傾げながら問い返してくるボルスに、パーシヴァルは小さく頷き返した。
夢の印象は、すでにボンヤリとしたものになっている。なんだか不思議な世界だったような気もするのだが、どんな世界だったのかすら、もう記憶にない。
だが、一つだけはっきり覚えているモノがあった。
金色の髪と、紫の瞳の青年の姿。
それだけは、はっきりと覚えている。
普段の五割増しくらいには格好良かったその姿を思い出し、自然と口元に笑みが広がった。
「ああ・・・・・。どんな夢か忘れたが、お前が出ていた事は覚えているぞ。」
「俺が?」
「ああ。結構、おいしし役どころだったよ。」
「・・・・・夢でか?・・・・・あまり、嬉しくないな。」
ニコリと笑みながら言ったパーシヴァルの言葉に、ボルスは眉間に皺を寄せている。
てっきり喜ぶと思ったのに、これは意外な反応だと驚いていた。
「なんでだ?」
「だって、所詮夢だろう?俺は、現実の世界でお前の支えになりたいからな。」
力強くそう言い切るボルスの言葉に、一瞬返す言葉を失った。
だが、すぐに笑いが浮かび上がってくる。
「・・・・なんで笑うんだ?」
「悪い。なんとなく、お前らしいと思ってな。」
その言葉が褒めている言葉なのか思案しているのだろう。ボルスが考え込む様に首を傾げている様に、新しい笑みが広がってくる。
彼と共にいると、心が落ち着く。
いつの頃からか分からないが。
「ボルス。」
「なんだ?」
「朝食でも食べに行くか。」
ベットから起きあがってそう言うと、彼は一瞬驚いた顔をした。
しかし、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせてくる。
「今からだと、朝食じゃなくて昼食だぞ?」
「別に構わないだろう。食べないよりはマシだ。」
「それもそうだな。」
既に身支度が調っているボルスが、何くれと無く振ってくる話に相づちを打ちながら着替えを済ませていく。
いつもだったら、着替えが終わるのを待つのは自分の方だけれど。
今日は違った。
だけど、これも悪くない。そう思うのは、なんでだろうか。
夢落ちゴメン。
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