風が吹いていた。
 生ぬるさを感じる風が。
 傭兵砦のバルコニーで空を見ていたフリックは、血の臭いを含んだその風に小さく笑みを漏らした。
「ビクトール。」
 傍らに立つ男の名前を呼ぶと、こちらに視線を向けたことを気配で察知することが出来た。
 何も尋ねはしない。
 ただ、その優しい色の瞳が自分の方をむき、静かに次の言葉を待っている。
 その空気に、何ともいえぬ心地よさがあるのを感じる。
 いつからそんな風に思うようになったのか、覚えてはいないが。
「戦いが始まるぞ。」
 ニヤリと、口元に笑みを浮かべながらそう呟く。
 その言葉に、ビクトールは困ったように苦笑を浮かべてかえした。
「いやな予言をするんじゃねーよ。」
「何を言っていやがるんだ。戦うのが俺達の仕事だろうが。」
「それはそうだけどよ。平和な方が良いじゃねーか。世の中的には。」
「世の中はな。でも、俺達は違うだろう?」
 伺うようにその顔を覗き込めば、大きな手のひらで頭を軽く叩かれた。
 大人が子供をあやすように。
「確かにな。俺達みたいなのは戦場の中でしか生きてはいけないさ。だけどやっぱ、平和な方が良いと、俺は思うぜ?」
 ニッと笑う顔には、子供のように無邪気で、それでいて大人の落ち着きも含まれている。
 揺るぎ無い深い色の瞳に見つめられると、少し気分が落ち着かなくなる。何故なのかは分からないが。
 そんな気持ちになる自分の心がなんとなく不快になり、フリックはさりげなく視線を外した。
 青い眼差しを遠くに向ける。
 今は夕日しか見えないその視界に、戦火の炎が見える気がした。
 他人と関わることを良しとしない自分にとっても、気さくな仲間と、相棒とも言うべき男のいるこの砦は、案外居心地の良いものだった。
 だが、自分が一番身を置きたいのは、様々な赤が交錯する戦場の中なのだ。
 戦いの予感に、身の内に沸き上がる興奮を感じる。
 新たな混乱がすぐそこまで迫ってきている事を、長年の勘が告げていた。
「ま、何にせよ。俺はお前と離れる気なんて更々ないからな。どこに行っても、背中を預けるのはお前だけだ。それだけは忘れるなよ?」
 冗談めかした口調に視線をビクトールへと戻すと、見つめかえした視線にはからかいの色はなく、真摯な光が宿っていた。
「・・・ああ、分かってるさ。俺も、お前以外の奴には背中を預ける気なんて無いからな。」
 ニッと笑って言葉を返す。
 嘘も偽りの無い言葉を。
 オデッサに会うまで一人で生きてきた。彼女の望みが叶ったら、再び一人で生きて行こうと思っていたフリックの考えを、この男に覆された。
 最初は鬱陶しくて仕方の無かったこの男が、隣に居るのが自然なことだと思いはじめたのはいつのことからだろうか。
 つい最近の事なのに、ずっと昔のことのように思い出せない。
 それぐらい、彼の存在が自然なものになったということだろうか。
 ビクトールの瞳を見つめたまま考え込んだフリックのことをどう思ったのか。彼は居心地悪げに身を捩った後、困ったように眉を顰めながらも笑みを浮かべて見せた。
「お前のその手の予言は外れた事がないしな。そうと分かれば戦いに備えて置くとしようぜ。」
「そうだな。兵達の気持ちも引き締めて置かないと。最近少し弛み気味だからな。誰かさんの訓練が腑抜けなせいで。」
 口元だけで笑みかえし、馬鹿にするような口調でそう言葉を続けると、ビクトールが慌てて言い返して来る。
「なっ!俺が悪いって言うのかよ!」
「俺は訓練に参加出来てないからなぁ。誰かさんの仕事を肩代わりしているせいで。」
「・・・・・・けっ!」
 言い返せなくなったビクトールはふて腐れたように顔を歪め、それ以上の言葉を避けるように慌ててバルコニーから出ていった。
 その背中に意地の悪い笑みを向けながら声をかける。
「明日からはしっかり頼むぜ。隊長。」
 一瞬足を止めた相棒は、振り返り模せずに軽く片手を上げて返した。
 それだけで十分だ。彼はやるといった事は必ずやる男だから。
 今、何が必要なのかしっかり判断できる男でもある。身体がでかく、力だけに頼っている馬鹿な男ではないのだ。ビクトールは。
 階段を降りていく足音に耳を傾けながら、フリックは再び視線を夕日へと向けた。
 先ほどよりも大分低い位置に来たそれの光は、大地を燃やしているようにも見える。
「・・・・早く来いよ。」
 ビクトールが聞いたらきっと眉を寄せるだろう言葉を呟く。
 戦っていない自分に生きている実感は無い。
 戦いの中にこそ、自分の生はあるのだ。
 戦いの空気は、すぐそこまで来ている。ミューズからまわされるような小さな仕事の戦いではない、大きく、長く続く戦いの空気が。
 それを運んできてくれるような、血のように赤い夕日に優しく微笑みながら、フリックは戦いの合図を待っていた。






















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予兆