清水勇氏のご逝去に心から哀悼の意を表します

元社会党の衆議院議員であった清水勇氏が1月14日お亡くなりになった。享年84歳。初めての市議選に際して支持者への挨拶回りでお世話になったのがお付き合いの始まりであった。政治集会、護憲などの集まりで挨拶をさせていただく程度の存在であった私が青天の霹靂で政治にかかわりを持つことになった。11年前のことだ。戦後長野県労働運動のリーダーとして活躍し、衆議院議員を6期務められた大先輩にとって、44歳の新人候補者はいかにも頼りなく思われたのではないだろうか。以来3回の市議選においてご支援をいただいた。足の速いこと、速いこと。かって知ったる町内の支持者を手際よく案内してくれた。

1993年の衆議院選挙のプロフィールには次のように記載されている。 長野市吉田町出身。旧制早大高工在学中に戦災に遭い、兄の戦死で「平和こそ」を決意。戦後プロレタリア文学に興味を憶え文化活動に加わる。21歳で印刷労組委員長に選ばれて以来大衆運動一筋を貫く。1952年に長野県評の結成にあたり、53年には今でも語りぐさの浅間山米軍基地反対の超党派県民運動に成功し、脚光を浴びる。50年代半ばに林知事、倉島長野市長の政策ブレーンとして活躍、安保闘争を経て県評議長となり、全国屈指の中小企業の組織化に貢献した。76年の初当選以来連続6期当選。「陽の当たらない所に光を当て、力の弱い者に力をつける」を信条に予算委員、議運筆頭理事、災害対策委員長等でがんばり、党政審副会長でも活躍した。趣味は、スポーツ、将棋。ファミリーは妻、弁護士の長男夫婦と女児2人。

私の社民党党員番号は32−04775、入党年月日は1999年2月26日。党員歴はわずか11年のにわか党員だ。社民党を自虐的に「絶滅危惧種」と言うような一地方議員の私にとっては余りに大きな存在だ。しかし、「百万人と言えども我れ行かん」。そして、田中正造の「正道一意、進ムアッテ退リナシ」だ。

社民党の行く末を案じつつ、日本の「平和こそ」を貫いた故清水勇氏のご冥福を心からお祈りします。

合掌。