レニングラードに別れを告げ、今回の最大の目的地、ポーランドへ向けて国際列車で旅立つ。そもそもこの旅の始まりは卒業論文のテーマとしたポーランドを自分の目で見、自分の肌で感じたいという単純な動機である。卒論『両大戦間期ポーランドの諸問題−ピウスツキを中心として−』では大国ドイツとロシアの狭間にあってどうやって独立を保持することができるのか。ピウスツキの独裁を単にドイツのヒトラーに続く世界で二番目のファシズム体制として決め付けてしまっても良いのだろうか。そこには小国としての苦悩があったのではないか。他に選択肢が果たしてあったのか?拙い論文ではあったが小国の悲哀を究明しようとする内容であった。

ポーランドに関心を持ったもう一つの理由は大学の西洋史の教授2人にある。一人は吉田輝夫教授。ドイツ現代史の第一人者である。もう一人は広瀬健夫助教授。ロシア現代史が専門。かくて反骨精神旺盛な私はそうした大国でない両国の峡間に位置するポーランドにより一層の関心を持ったのである。中世ポーランドは中欧の大国であった。しかし、その後近隣の大国ロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって分割されてしまい、当時の世界地図からポーランドは消滅してしまった。独立を達成できたのは、第一次世界大戦後である。誇り高きポーランド人にとって耐え難い屈辱の時代が続いた。大作曲家であり、ピアニストでもるショパンは「独立」に熱き思いを表現している。卒論を意識し、文献を探しに来た東京神田の古本屋街。洋書専門店「北澤書店」の書架でオーラを放っていたのが『Pilsdski’s Coup d’etat』である。こうして400ページ近い分厚い洋書と格闘し、卒論をまとめることとなったのである。

そして今、念願のポーランドに向かう列車のコンパートメントにいる。レニングラード23時58分発パリ行きの国際寝台特急は定刻どおりにアナウンスもなく動き出した。ワルシャワまで1156q。到着予定時刻は翌日の21時17分。時差が1時間あるのでほぼ丸1日がかりの大移動だ。コンパートメントは2人部屋。同室者はポーランド人の学生オシュレク、20歳。でも、もっと大人びて見える。挨拶程度のポーランド語と英語でコミュニケーションをとる。国境を越えたポーランドの駅では線路の幅が違うため、1台1台車両の台車を交換しなければならない。冷戦の時代とはいえ、国防こそが最優先である。陸続きのヨーロッパ、島国の日本、違いをまざまざと感じる。その間レストランで食事。乗客は当たり前のことと、悠然としている。極東の経済大国からやってきた、時間に追われて生きてきた若者にはイライラがつのる。3時間経過。ようやく全車両の台車交換が終わる。列車は平原をひた走る。ポーランドとは「平原の国」という語源から名付けられた国名。横浜を出て3週間近い。夕日がやけに目に沁みる…