リンツへはウィーン西駅から特急電車で約2時間で到着。人口は20万人余。ウィーン、グラーツに次ぐオーストリア第3の都市で、国内最大の工業都市であると同時に、伝統文化遺産も残す、美しき青きドナウが流れるきれいな街である。駅の案内所でペンションを探す。カラフルなラッピング広告が施されている路面電車に乗ってたどり着いたペンションは、歴史を感じさせる石造りの重厚な建物であった。1階はレストランというか、居酒屋というか、庶民が気さくに食事を取り、酒を飲めるそんな雰囲気の店だ。2階の部屋は質素だけれど清潔感にあふれ、その上、1泊250シリング(約3,800円)である。ウィーンよりずっと良い。2泊することに即決。清潔なシーツに包まれ熟睡。

翌日、小雨の中旧市街を散策する。ハウプト広場は、ヨーロッパで最大でかつ最も美しい広場と言われる。高さ26mの三位一体記念柱は大理石で、リンツがオスマントルコ軍の侵入、火災、ペストを克服し立ち直ったことを記念して1717〜23年に造られた。ケルビム(知識を司る天使)と、頂上に三位一体の像があり、当時多くの町に建てられたバロック石柱の代表例である。石柱の周辺は石畳の改修中であった。当時のままに後世に継承していく。ヨーロッパ文明の奥深さに感じ入った。

翌朝8時55分発の特急でザルツブルクに向かう。10時20分着。ザルツブルクはドイツと国境を接するオーストリア第4の都市。古くから岩塩の集散地として有名で、ドイツとフランスを結ぶ交通路としても栄えた。ザルツブルクとは「塩の城」の意味。当時、塩は「白い金」と言われる程の貴重品であった。そして、古典派を代表する偉大な作曲家モーツァルトの生誕地でもある。1756年1月27日、この地に生まれたモーツァルトは、バイオリニスト・作曲家で大司教に仕える宮廷音楽家だった父・レオポルトによって、4歳頃から音楽のレッスンを始め、5歳で早くも作曲をしている。父は毎年のようにヨーロッパ各地の宮廷を訪ねる旅に息子を連れ歩き、様々な音楽様式に触れさせた。しかし、次第に大司教への不満や音楽家を尊重しない風土に満たされない思いが募っていく。

1781年、ザルツブルク大司教・コロレードから呼び出され、職務怠慢を厳しく叱責される。この時、大司教の従臣に足蹴にされるという屈辱を受けた。これを機に、モーツァルトはザルツブルクとの決別を決意する。ウィーンへ移ってからの苦しい家計に、4人の子どもと父が相次いで死去するという不幸が追い討ちをかける。モーツァルト自身も過労から健康を損ね、病と闘いながらながら灰色の服を着た不気味な男から依頼された『レクイエム』を半ばまで作曲したところで力尽き、35歳の若さで世を去った…