64回 中国文化賞 其阿弥 赫土

  受賞者の業績と横顔 ▽呉市生まれ▽1946年、東京美術学校中退▽49年、第1回広島県美展県知事賞▽68年、広島県日本画懇話会代表世話人▽86年、紺綬褒章▽89年、日本文化振興会の国際芸術文化賞▽97年、広島県日本画協会名誉会長

重厚で深遠な日本画世界を確立

 東洋の心漂う美 追究

 もやにかすむ仏堂や木々。静かな画面は、奥から重厚な存在感を放ってくる。「高い精神性、それも東洋的な心が漂う絵。それを追ってきた」。極みを求める厳しさを、何とも柔和な表情で語る。長い歩みの末に行き着いた画境を感じさせた。
 まばゆい光が包む「夢殿」、やわらかな空気の「杜の朝」…。近づきがたさをたたえる作品群。「多弁でなくていい。気≠ェ満ちていればね」
 画家を志して進んだ東京美術学校で学徒出陣。戦後、中退して郷里の中学教諭を経て、広島大非常勤講師に。制作に打ち込む中で常勤に請われ、生活の安定に心動いたが「縛られたら描けない」と辞退した。
 京都へ移り、さらに全国を歩いて独自の絵を模索。「だれかと似ていたら、絵描きとして意味がない」。だが、納得できぬまま帰郷する。挫折した思いを抱え、黒瀬川のほとりで枯れ野を眺めていたとき、小さな芽吹きに気づいた。その命のドラマに揺さぶられ、制作の原点を見つけた。
 荒野に生命の輝きをとらえた「晩秋の記録」、幻想に満ちた「からまつの詩」「杉林」などのシリーズに結実する。やがて、寺に行き着く。幽玄と力強さが画面を確立した。「迷うて迷うて筆を尽くす。納得がゆくし、人の心に響く」
 広島県日本画懇話会を設立し、後に広島県日本画協会をけん引する。絵画教室では日本画の楽しみを広め、今も四グループを指導する。「常に努力して若い人に刺激を与える画家でいたいね」

 アトリエには膨大な量のデッサンや小下図。画架には、完成間近らしい絵が何点も載っていた。「心に染み入る作品にしたい。だから僕の絵に、いつが完成というのはない」(田原直樹)