個展作品集 1994 

晩秋の記録T 151×212cm

晩秋の記録U 150×210cm
秋深まり、霧立つ頃になると、山野は色を失い、静寂の世界に還る。
その静寂の中にあって、なお去り行く秋を謳歌しつづける蔦の実は更に輝きを
増し、己の存在を誇示し続ける。
晩秋の記録V 182×136cm
野の詩 151×215cm
からまつの詩 91×116cm
からまつの詩 182×367cm
杜の朝 182×367cm  
慈光 182×367cm

川原寺 79×136cm

塔 116×91cm

春立つ野(スケッチ) 54×76cm

(スケッチ) 38×54cm

   画面に心象の声が聞こえる

 其阿弥さんは日本画家であって、なお花鳥風月の華美を措こうとしない。
 10年ほど前其阿弥さんは自分の作品に「浄韻」という題を好んでつけていた。

 題材は雪のシンシンと降る森の中の御堂であったり、薄日の漏れる樹間に立つ寺院であった。
 たんに世俗の騒音や雑音がそこまでは届かないという意味での事実としての静寂ではない
 人の心に住まう雑念、世事への関心が無に帰してしまう沈黙の境地にあって
 どこからかいつからか、音ではない音が響いてくる。その昔「浄韻」を見えるようにしたい
 其阿弥さんはそう思ったのであろう。

 其阿弥さんはいつも、手当りしだい、身の回りにあるもの、野菜や貝殻や草花などを写生している
 画帳の上に、ものの襞、光の陰影が見事に描きあげられ、そこにまるで新しいかたちが
 誕生してくるようだ。それでも其阿弥さんは依怙地にそれをそのまま作品にしない。

 心象を措く、そう其阿弥さんは言う。

 自宅の近くの薮に生えるたけのこを何枚も何枚も写生する。あるとき突然
 それがヨーロッパ中世のゴシック聖堂へと変貌する。そこから作品がはじまる。
 それはかつて、たとえばフランス施行中に見上げた一回限りの光景なぞではなく
 かれにとってずうっと以前から身近にあって、朝夕見上げては祈りの合図を送る世界である。

 写生で獲得した物の実在感を内に秘めながら、大きな画面に細筆で絵具を挿しこんで行く。
 形のうえに別の形があらわれ、色の上に別の色が置かれ、しかもいちばん下地の形や色が
 最上層に透かし出てくる。そこに、欲望の届かぬ夢幻の空間が現出する。

 心象は時間の表情であり、声と響きの世界である。私の好きな詩人ポール・クローデルは、
 自分の唯一の美術論集に『眼が聴く』と題をつけた。
 其阿弥芸術はその長く忘れていた限の聴覚能力を私たちに思い出させてくれる 。
           
            広島大学教授(美学) 金 田  晋

宇宙の不可思議・東洋の神秘性・幽玄性など、現実の対象物青かりて表現しようと追い求めて来ましたが、奥は広く・深く、疑問や構想が入り乱れ、果てしなく続いています。

しかし、深ければ深いほど心は躍り、より高次元を求めて試作をくりかえしています。

楽しみながら息長く続けることが出来れば幸です。

                       其阿弥 赫土

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き
からまつは…………………


白秋の「落葉松」の詩にひかれ、画材を求めてあちこち旅した
浅間山麓に拡がるからまつの林は静寂そのものだった。上高地の大正池に着い
たのは夜明け前だった。夜の明けいくとともに、降りしきっていた雨も小雨と
なり、からまつの中に、虹の立つのを見た。
戸隠では、夕日に染まる林が、晩秋の哀歌を無言のまゝ訴えているようだった。
十日余り居た妙高では秋陽を受けて、黄金色の小さな針葉がキラキラ輝きなが
ら舞い落ちるのに出会った。幻想の世界だった。落ちゆく音を耳にすることは
出きないが、その「落ちゆく音」を「観る」ことが出来たように思えた。
平成五年一月、三越広島店より「広島アジア大会」に美術面で協賛するにつけ、
作品展を開催して頂きたいとの依頼を受けた。私は感謝を込めて承諾した。
しかし自選展という事で承諾したことを大いに悔やんだ。
私が五十余年の歳月を画き続けてきた事は事実だが、過去の絵を展示すると
いうことは過去を振りむく老齢化した消極的な自分の心をあらわに露出するこ
とに外ならないと思うと、たとえ寸時たりともそのような安易な考えをおこし
た自分が情けなく、自分自身に反省を求める外なかった。
私は出来るだけ新作でやろうと決意した。新作でやろうと思っても、どれだけ
の作品が出来るかは、やって見なければ答は出ない。約二十ヶ月という制限さ
れた期間、自分の才能を試し、自分と闘って見ようと思うと、血騒ぎ肉躍ると
いう言葉の如く、心の躍動を覚え、若き日に返ったようだった。体力の減退は
如何ともすることは出来なくても、言葉では表現できない内なるものがむらむ
らと湧き返り、体の熱くなってくる現象に驚きを覚えたのだった。
展覧会構成上、野の詩、晩秋の記録等々出品したが、此の度、再度加筆したも
のである。

振り返って見れば二十ヶ月という期間は自分との斗いは勿論であるが、二十四
時間という如何ともすることの出来ない一日を短くうらめしく思ったのも事実
である。

作品の善し悪しは別として、精一杯目的に向って制作し続けてくることの出来
た幸に感謝し、これを記念して画集が発刊されることは私にとって喜びに耐え
ない。

展覧会開催、及び画集出版に関し、多くの方々に御支援頂きました事、紙面を
借り厚く御礼申し上げます。
昭和四十六年三月、私は黒瀬川の畔にいた。何かを求め、何かに出会い、何
かをつかみたい一念だった。
苦悩の時代だった。暗く長いトンネルの彼方に、かすかな灯りが見えるよう
な気がしても、それを心象として確証することは出来なかった。
思考の中の幻は一定の場所に止まることなく常に揺れ動いていた。風に乗り、
波に消され、嘆息に明け暮れする日の連続だった。笑顔で人と語るときも、脳
裡の片隅には絵に対する窓が開いていた。が、仲々通ることの出来ない針の穴
のように小さな窓だった。

三月中旬とはいえ、寒い日だった。
川の流れは白く光り、砂まじりの身を切るような冷たい風の吹き舞う中、芒
の群れは揺れていた。揺れ乍らもその莖は冷たく拡がる寒空に立っていた。
うつろな眼で見ていた枯れすすきの根本の小さな緑が私の脳裡に拡がった。

私の体に稲妻が走った。
若い小さな緑の芽が驚く程の鮮明さで私の眼中に飛び込んできた。春を告げ
るその小さな芽との出会いが、静かな思考の池に大きな波紋をひろげていっ
た。
求めても、なお求めても届かなかった感動の世界。消え行くものと生まれ出ず
るものの対比。その小さな芽には、厳しい冬の寒さ、冷たさを耐え忍んだ中
に、春の訪れの喜びが一杯に秘められているように思われた。
全く想像もしていなったこの無視していた雑草の世界。画材を求めて稚内
から鹿児島迄歩き廻り、表面のみに満足していた虚しさ、愚かさ、風が吹く
と小刻に震えていたあの小さな芽が、私を嘲け笑っているように思われた。
私の制作態度は一変した。
晩秋の記録、野の詩、からまつの詩、杉林等々連作が続く。
杉を写生している時に寺への暗示。早速四国八十八ヶ寺を写生して廻る。
京都・奈良に居た七年余、寺や仏像等、当事の私の力では画けるものではな
いと諦め、あまり写生しなかった事を残念に思う。
杉木立に包まれて山奥にと参道は続く。寺は見えなくても寺を感じる宗教の
世界。東洋の神秘性・幽玄性。あの小さな芽が教えてくれた内面的精神性。
物質的説明的表現ではなく、ベールの下から、霧の中から、時として闇の中
から滲み出るような絵。或いは母親の温もりや安らぎ、仏の慈悲に包まれた
ような幸せを感じさせてくれる絵、いたずらに多弁であったり、説明的に多く
を画くことではなく、如何に多くの要素を含有した表現が出来るかという事
であろう。対象物を描いて対象物なき境地。無が無でなく、無がより多くの
要素を有する無。そんな底なしの深さを有する絵。もし枯れすすき一本で、東
洋の神秘性・幽玄性が表現できたらと思うけど、私の微力では一生かけても
出来ないかも知れない。が是非挑戦してみたいと思っている。

黒瀬川で感動し、写生をはじめて二十余年経過した現在、因縁と言うべきか、
宿命なのか知る由もないが、私の息子が平成三年三月三日、黒瀬川の辺りで
開店し、同五年十月末、私も黒瀬に移転した。

夢殿 149x106cm

夢殿 91×116cm

大宝寺 72×91cm

大宝寺 168×219cm

円教寺 152×201cm

雲辺寺 182×137cm

平等院 162×130cm

朝霧に包まれた竹林で、大きく伸びた筍に出会った。
朝の光は、眠りの中にある筍のうぶ毛にたまっていた露を鮮明に映し出した。
自然の宝玉とも言うべきその露は、一瞬キラリと輝いた。

それは印度最南端のコモリン岬で、明けゆく時の流れとともに,霧の中から、
神秘性に包まれて姿を現した聖堂の映像と大きく重なった。

心象の世界から覚めた時、朝日は辺り一面に拡がり、私の影も長く竹林の中迄
すいこまれていた。

(下図) 160×92cm

(下図) 160×92cm

竹林寺 130×194cm

182×367cm

立久恵峡 182×367cm

岳 182×367cm

潮騒 182×367cm

波濤 182×367cm

寂光 92×46cm

池映 79×136cm

寄せる波 46×92cm

流れ 91×182cm

渓流 182×367cm

 136×79cm

滝 91×46cm

常清の滝 182×91cm

平成五年一月、三越広島店より「広島アジア大会」に美術面で協賛するにつけ、
作品展を開催して頂きたいとの依頼を受けた。私は感謝を込めて承諾した。
しかし自選展という事で承諾したことを大いに悔やんだ。
私が五十余年の歳月を画き続けてきた事は事実だが、過去の絵を展示すると
いうことは過去を振りむく老齢化した消極的な自分の心をあらわに露出するこ
とに外ならないと思うと、たとえ寸時たりともそのような安易な考えをおこし
た自分が情けなく、自分自身に反省を求める外なかった。
私は出来るだけ新作でやろうと決意した。新作でやろうと思っても、どれだけ
の作品が出来るかは、やって見なければ答は出ない。約二十ヶ月という制限さ
れた期間、自分の才能を試し、自分と闘って見ようと思うと、血騒ぎ肉躍ると
いう言葉の如く、心の躍動を覚え、若き日に返ったようだった。体力の減退は
如何ともすることは出来なくても、言葉では表現できない内なるものがむらむ
らと湧き返り、体の熱くなってくる現象に驚きを覚えたのだった。
展覧会構成上、野の詩、晩秋の記録等々出品したが、此の度、再度加筆したも
のである。

振り返って見れば二十ヶ月という期間は自分との斗いは勿論であるが、二十四
時間という如何ともすることの出来ない一日を短くうらめしく思ったのも事実
である。

作品の善し悪しは別として、精一杯目的に向って制作し続けてくることの出来
た幸に感謝し、これを記念して画集が発刊されることは私にとって喜びに耐え
ない。

展覧会開催、及び画集出版に関し、多くの方々に御支援頂きました事、紙面を
借り厚く御礼申し上げます。

春立つ野(スケッチ) 54×76cm

(スケッチ) 38×54cm

ベルンの丘 75×61cm

聖堂 194×130cm

アンコールとム(1969製作) 151×212cm

アンコールワット(スケッチ) 54×38cm

アンコールワット(スケッチ) 54×38cm

毀された遺跡 182×91cm

爭いが、戦いが、宗教の違いが、先人の残したすばらしい遺跡を惜しげもなく
破壊する。
アンコールワットやトムは時の流れとともに、自然の力で崩れかけているので
同一視することは出来ない。
しかし竜門の石仏は人間の意志によって毀された。四百年にわたる長い年月を、
各王朝の手で刻み続けた十万体にも及ぶ石仏を、一朝一夕にして、大半が顔の
部分を毀され、形を無くした。
惜しむに言葉を知らない。
しかし、例え一部が毀されていようとも、私の心を引きつけて離さない。
顔がこわされていなければ、もっとすばらしいだろうとも思う。しかし毀され
ている故に、破壊をまぬがれた大廬那仏の微笑をたたえた顔と重複し、一
層私の心をひきつけて離さない。
薄暗い石窟の中に光明を感じた。

ガルビハーラ遺跡 194×325cm

(下図) 160×92cm