晩秋の記録T 151×212cm
川原寺 79×136cm
塔 116×91cm
雲辺寺 182×137cm
夢殿 149×206cm
夢殿 91×116cm
大宝寺 72×91cm
大宝寺 168×219cm
円教寺 152×201cm
平等院 162×130cm
筍(下図) 160×92cm
桜 182×367cm
春立つ野(スケッチ) 54×76cm
芒(スケッチ) 38×54cm
其阿弥さんは花鳥風月の華美よりは写生で獲得した物の実在感を内に秘めながら大きな画面に細筆で絵具を挿しこんで行く。光の陰影が見事に描きあげられ、そこにまるで新しいかたちが誕生する。
それでも其阿弥さんは依怙地にそれをそのまま作品にはしない。形のうえに別の形があらわれ、色の上に別の色が置かれ、しかもいちばん下地の形や色が最上層に透かし出てくる。欲望の届かぬ夢幻の空間が現出する
「心象を描く」そう其阿弥さんは言う
10年ほど前其阿弥さんは自分の作品に「浄韻」という題を好んでつけた
題材は雪降る森の中の御堂、薄日の漏れる樹間に立つ寺院であったりする
たんに世俗の騒音や雑音が届かないという意味での事実としての静寂ではない
人の心に住まう雑念、世事への関心が無に帰してしまう沈黙の境地にあって どこからかいつからか、音ではない音が響いてくる
その「浄韻」を見えるようにしたい
自宅の近くの薮に生えるたけのこを何枚も何枚も写生する。あるとき突然、それがヨーロッパ中世のゴシック聖堂へと変貌する。それはかつて、たとえばフランス旅行中に見上げた一回限りの光景なぞではなく、かれにとってずうっと以前から身近にあって、朝夕見上げては祈りを送る世界である
心象は時間の表情であり、声と響きの世界である。私の好きな詩人ポール・クローデルは、自分の唯一の美術論集に『眼が聴く』と題をつけた。
其阿弥芸術はその長く忘れていた眼の聴覚能力を私たちに思い出させてくれる
広島大学教授(美学) 金田 晋 から抜粋
宇宙の不可思議・東洋の神秘性・幽玄性・・・
現実の対象物を借りて表現しようと求めるも、奥は広く、深い。
深ければ深いほど心は躍り、疑問や構想が入り乱れ、
より高次元への試作を果てしなく繰りかえす。
其阿弥 赫土
筍(下図) 160×92cm
筍(下図) 160×92cm