06
ゼス

- a Bullet -


 ゼスは確信するタイプの主人公である。彼はとりあえず五体満足であったから、差し当たって持てるものは二つあった。片手に一丁の銃、もう片方の手に一つの確信である。

彼はある晴れた日に手ぶらで店に入り、両手にそれらを携えて出てきた。それまで只の少年であった彼がどうしてゼスになったのか、無論のこと理由があるのだが、それは追々の描写に納得されるだろう。とにかく少年はありったけの小遣いと迷いの最後の一片とをその店に置き去りにし、本編の主人公となって六月の街に現れた。

彼の確信とは以下のようなものである。

 

自分は銃を撃たなければならない。

それもたった一度きり。

 

もちろん、物語に登場する銃がもれなく時限性であることは世界共通の了解である。ゼスの銃は撃たれることが決まっている。しかし彼は、家へと向かって歩きながら、自分がその発射の機会について熟考しなければならない旨を静かに心得ていた。まず克服するべきは彼の衝動なのだ。彼の確信の前に最初に立ちはだかったそれこそは、彼がこの銃を買い求めた理由であり許可だった。おまえがその銃を持つことを許そう。店のカウンターに金を置きながらゼスが聴いた、どこからともないその声がまたしても響き、彼はポケットからただ一つしかない銃弾を出して、緩やかにリボルバーへと込める。

 その衝動は男の形をして、未だゼスの家のリビングに留まり、彼の母親の亡骸に跨っていた。ゼスは音を立てないように廊下を歩き、撃つためではなく撃たないために銃の安全装置を外した。その銃を撃つことができ、しかも撃ちたいと心から願って、しかし撃たないことが肝心なのだ。限界まで膨らんだ衝動に対峙して、それに真っ向から打ち克つことが課題なのだ。ゼスは男の後頭部へと銃を突きつけ、空いている手を肩に置く。

男は驚いた声を上げる。声はたちまちに冷え、渇いた悲鳴になってゼスの鼓膜を打つ。銃声に似ている、と思いながらゼスは、歯をくいしばって引金を締めそうになる指を留める。男は振り返り、自分の頭に当てられている銃に気付いて反射的に薄ら笑いを浮かべるが、ゼスの右眼に確かに形を取った殺意を見て取るとやおらに激しく震え出し、左眼にそれをやっとのことで押し留めている非殺意を認めると身悶えしながら泣き叫んだ。銃が発射されないことの不条理が、その心を冷たく煮沸した。

ゼスは銃を向けたまま何も言わなかった。男はふらふらと立ち上がり、ズボンを上げてよたよたと逃走した。その間は、体から絶えず泡の弾ける音がしていた。恐らく彼の血は、今後一生涯に凍えたままだろう。そしてもう二度と、如何なる興奮にも沸き立つことはない。

 

この話は勧善懲悪譚である。あなたたちはひとまず、主人公ゼスについて身構える必要はない。殺すのは悪いことだからと言って、嫌悪によって防御することはない。この話の最後にゼスがすることは、厳密に言うと殺しというよりは只の「削除」だ。

さりとて歴として、それは一つの「殺し」であるという認識も持っていてほしい。例えば法律というものについて今一度よく考えてみればいい。法律は行動を規制するが、不可能を生み出すことはできない。人は殺人罪の罰を恐れて人を殺さないが、決して殺せない訳ではない。人が殺されるかどうかは、実際には常に殺人者が殺すかどうかということに懸っているのである。

ゼスは殺す者である。罪を犯す犯罪者ではなく。

 

ゼスは殺すべきものを探している。目下として彼が憎むのは、セックス、人のそれへの欲ではなかった。六月の街に住む他愛のない一人の少年を他ならぬゼスへと変えたのは取りも直さずあの男の形をした性欲であったが、六月の街に住む他愛のない一人の男を形そのままに性欲へと変えてしまったのは、おそらくそれ自体とはまた別のものだった。衝動に駆られながらもゼスには、その人形の四肢に繋がった糸が辛うじて見えたのである。弾を撃ち込むべきは、一人の実行犯ではない。

ゼスはある高い建物に入る。階段を上る。二階の廊下を渡ると次の階段がある。三階の廊下を端から端まで渡ってまた階段を上る。四階の階段を端まで渡って更に階段を上る。ジグザグの行路をたどる。廊下の両側にはずらりと扉が並び、そのどれからもけたたましく何かの弾む音と、高く低く、長く短く、良く響く声がしている。

最上階にただ一つある扉を開ければ、その男が皮張りの椅子に踏ん反り返っている。よく太り、てらてらと光る肌をした禿げ男だ。いかにも下卑た笑みが、弛んだ頬の肉を畳んでいる。立派な服を着ている。身動ぎ一つで、その下に纏っているのであろう装飾品の全てがじゃらじゃらと音を立てる。

ゼスは銃を向ける。男はやはりゼスの双眸を見て、猿に似た悲痛な鳴き声を上げた。これもまた撃つべき相手ではないとゼスは悟ったが、用心金に掛けていた手に気付いた男が安堵に頬を垂らすのを見て、危うく弾を使いそうになる。

彼ら――まだ替えのいる、唯一ではないこれらのビルの最上階にいる人々――は、実際には決して守られてなどいないことを自覚せず、しかし実際には護られていることを良く理解している。彼らは一人ではない。この男一人を消した所で、彼らは消えはしない。ゼスはまだ上へ行かなければならない。

禿げた男はゼスの瞳を見て、自分があたかも扼殺されかけたかのように喉元へと手を添え、黄色く濁った目をたちまち潤ませて見開く。事業を断念する旨を絞り出すようにして誓うが、ゼスはどちらでもいい、と思う。彼の悪行一つが消えたとて、彼らは消えはしないのだ。

 

しかし悪は果たして、ギャング団のような構造をしているだろうか? つまりは下部から上部へ辿って行って、いつかボスに行き当たることなどは可能だろうか?

ゼスは既に、それがあり得ないことを知っている。悪とは全てレギオンだ。それは大勢であり一つである。ゼスがそのギャングへと名を問えば、彼らは全員がこう答える、我が名はレギオン――我々は大勢であるがゆえ。

 

ゼスはある路地に差し掛かり、青物屋の前で木箱に腰かけた誰かに出くわす。黒いフードをすっぽりと被ったその恰好は、華やかに着飾った人の行きかう六月の街にあってひどく目立つはずだったが、まるで夜の中の蚊のように自然に、ごく寛いだ様子で振舞っていた。齢は窺い知れず、表情は笑っているようにも怒っているようにも見え、しかし無表情であるという印象も同時に感ぜられる顔だった。それが本当に、顔、ならば。

 ゼスはそれを見た。相手はゼスに視線を遣り、眉ひとつ動かさずに笑ってみせた。ゼスは「おまえの名は」と問うことも出来ず、それと見詰め合った。

 黒フードは手近の籠からリンゴを一つ掴み、地面へ叩き付けた。清涼とした香りが振り撒かれ、果汁の飛沫が雑踏の靴を湿す。それは身体をかたかたと震わせて、俯いたまま笑い声とも呟きとも取れない音を発してみせる。しかし歩き去る人々はおろか、青物屋の店主さえ気付きはしない。やがて靴を濡らしたまま五十歩ほど歩いて行った一人の男が、この世のものとも思われぬ金切り声を上げる。手に持ったステッキがしなりながら振り切られ、近くを走っていた子供が耳から血を流したまま動かなくなる。

 通りの先で次々と声が上がる。百歩先で、千歩先で、あるいは数万、数億の距離を隔てて飛沫が上がる。それはゼスの方をまた見て、訊かれてもいない内から答える。豚達が崖から落ちるのは私のせいではないさ。

 ゼスは銃を構える。しかしそれが何になるだろう?

 

 ゼスという人間、その片手、そこに握られた殺傷力十分の一丁の銃、その薬室に収まった鉛製の一発の弾丸は、即ち正義そのものだった。それは悪に対して唯一有効な武器であり、撃たれた者を問答要らずに悪と判定するものであり、持つ者を断固として正義と定める守り札だった。それを持つゼスは、だから誰からも誹られる謂れがなかった。

問題はその正義が一つしか無いことである。そして銃という銃、その弾という弾は必ず発射されなければならないがため、ゼスは機を慎重に選ぼうと努めた。だがレギオンは名乗る、我らは大勢であるがゆえ。弾は一つしかなく、豚は次から次へと海へ向かって身を投げていく。悪は一つにして多数であり、固有名詞であるとともに普通名詞であった。

ゼスの正義はライフリングを擦って回転しながら飛び出し、二度と見つかることが無かった。ダルナウェイ博物館はそれ自体に殆ど価値のないことを承知しながら、拳銃だけを回収するより他なかった。黒フードは血を噴き出して倒れ、ゼスは今や只の人殺しだった。

唸りを上げて駆けてくるパトカーを見ながらゼスは想う。正義はこの世に無いという訳ではないが、悪に対してひどく無力なものであると。圧倒的に正しいことは確かに存在するが、それは数の前には余りに儚く、間違いを正すことの叶わぬものであると。

パトカーから飛び出した警官たちは、ゼスに対して直ちにその正義を行使する。どこかの工場で全体配備用に製造された、無数の画一的な銃弾を受けて倒れながら、悪人ゼスは通りを過ぎ往くレギオンに向かって叫ぶ、おまえたち一人一人がその懐に持っている、無限の殺傷力を持った一発限りの銃弾を、いいか汝らよ、悪に対して使うこと勿れ!


モドル