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シビル

- a CROWN -


劇が終ったあとに感じる成功の喜びは、

あながたが当てにしていた楽しみよりずっといい、

わたしは、あなたがたが払ったものを手に入れ、

阿呆をやりながら、あなたがたの阿呆ぶりを存分に楽しんだのだから。

ロバート・アーミン


ブレムミュアエ Blemmyae

リビアの砂漠に棲むとされた怪物人種。胸部に目鼻と口がついていて、頭と首がない。別名をアケパロイという。ブレムミュアエという呼び名は、あるラテン語の著述家によるものであるらしい。多くの怪物人種と同様、ヨーロッパにおいて「未開」世界の表象のひとつとなった。

●語源・字義・語形 不明

●形態 頭部のない怪物人種(胸部・肩部に顔がある)

●出自  ①リビア、インド西方。プリニウス『博物誌』

 ②ジャワ島周辺の島々。マンデヴィル『東方旅行記』ほか

●時代 ギリシア・ローマ時代から近世

松平俊久『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』より


王にも道化にも、なろうとしてなれるものではない。

それは生まれつき定まった身分なのだから。

イギリスのジョーク

 シビルは王だった。厳密には王と呼ばれていた。人々は彼に対面しては忠誠と尊敬らしきものを、そうでない時には軽蔑と嘲弄とを込めてその呼称を用いた。

 王制とは王冠そのものである、と断言して良かろう。八月の街に限らずだ。なにを言う、あんなものはただの飾り立てられた帽子ではないかと口を尖らす人あらば、この街の人たちは一様に問い返すだろう、それでは王とは何なのか。裸でいるとき一般人とどうやって区別すればよいのか。王制とはなにか? 国とはなにか? 例えば風呂に入っているとき両目を潰され、地図もコンパスも持たずに国境地帯の荒野に放り込まれた王がいたとして、誰が彼をそれと知るだろうか。盲目の王は自分の国境線を示すことができるだろうか――答えに窮するあなたを、彼らは王と同じように嗤うだろう。

 シビルは、少なくとも裸ではなかった。高級な緋色のローブをまとい、柄に宝石の嵌め込まれた宝剣を提げて、象牙のような色形をしたこわい髭の口元は常に厳しく結ばれていた。たとえ何も持たず、気の触れた状態で荒野をさすらっていたとしても、彼ならば誰もが一廉の人物であることを認めたであろう。彼は見るからに王であり、また実際に王の資質を備えて、ただ王制のみがそこに実在しなかった。

 しかり、ただ王制だけがなかったのだ。彼の判断は的確であり、その人格は偉大であった。彼は平時においては腕の良い医者のように機構のはたらきを循環させ、戦時にあっては自らが堅牢な盾とも犀利なる矛ともなった。人々はそれが虚構であることを了解し、軽蔑と嘲弄とを奥底に秘めながらも、王の治国については「悪くない」と評価を一にした。それは差し当たり、国民性として斯様な空しさを湛えたこの国では最大の賛辞であると考えて良いだろう。


国家

 ほら貝を吹いた存在、ほら貝という一種独特のものを両膝の上に抱いて

この高台の上で坐り、みんなのくるのを待っていた存在――

こういう存在は他の存在とは別格だった。

ゴールディング『蠅の王』平井正穂訳

 権力というものの下らなさを知っていたという点で、この国の民が大いに分別ある人々だったのには違いない。当時はどこにでも見られたような、明確な輪郭を持った国家形成を志向する時期がこの国にもやはりあって、その頃はそれなりに政党間の政権競争であるとか、国際会議への代表派遣が行われもした。しかしやはりまた他の国々がそうなったように、ここでも次第に民族が入り乱れてその境界が曖昧となり、多文化の尊重と社会的平等性がさけばれ、つまるところは打つ手がなくなり、人々は国家というものについてかくのごとき漠然とした意識を抱くに至った。――国とは結局のところ手の込んだ一つの嘘なのだ。問題は全員が、その嘘について認識を一にしていないことである。

「要するに、嘘をつく主体をどの範囲で定義するかということ、そしてだれに向かってその嘘をつけば良いのかということです」

現存する議事録によれば、国会でそういう意見を述べた者がいる。

「歴史においてこの主体は、あるときは神授の権力を唱える王であり、あるときは人種主義をさけぶ総統であったわけです。あの共和国を生んだ革命はその嘘が国民に隠しきれなくなった瞬間であり、かの大量虐殺の遂行にはその嘘による被保護の権利を当て込んだ国民たちの多少なりの自発的協力がありました。つまるところ国家の在り方とは、為政者から人々へのある物語の提案であり、ある国民とは作家たる為政者の嘘に乗ることで生活の糧を得る選択をした人々のことであると定義できるのです。突き詰めれば、意味のやり取りを行う文明生活をするかぎり、人はみな役者なのだと言えます」

「今更めいた話だ」

「そんなことより来期の予算だ」

「おたくの予算案がどう控えめに見ても言語道断、支離滅裂、無知蒙昧、猿猴捉月である件について」

「なにを言う。おまえたちのころの左顧右眄、内股膏薬、狐疑逡巡に比べれば現状で遥かにましではないか」

「なんだとこの漱石枕流」

「遼東之家」

「とにかく」とその議員が続けて言うには、「かくのごとき視点に立って歴史を眺めるとき、この世にはまだ書かれていない筋書きがあるように思われます。嘘としての国家がこれまで革命というものに脅かされてきたのは、ひとえにこれが少数の多数につく嘘であり続けてきたことに拠るのであり、それが常に隠されてきたせいなのです。隠されていれば暴きたくもなり、暴いてみればまた大抵が打倒すべき不平等なものだということにもなるのです」

「珍紛漢紛」

「つまり私が提案したいのは、これまで行われてきたのとはちがう嘘のつき方をしてみようということなのです」

判読可能なのはここまでである。この議論を収めた議事録は、近年になって一部が発見されるまで長らく、その数年後に文書館で起こった小火により全て消失したとされてきた。先の発言をした議員は当時首相の座にまで登り詰めており、火事は史料の隠滅を狙った彼の指図によるものであるとの説も実しやかに囁かれるが、ここではその点についての判断は見送りたい。確かであるのは、彼は議員時代からこの構想を持ち続け、首相の任期を通してこれを推進し完成させたらしいということのみである。

こうした国家を構想するに至ったのは、政治家に珍しく学生時分には文学を専攻し、別けても文芸復興時代に関心が強かったとされる彼ならではのことであろう[i]。また個人研究を通してさきごろ発刊された伝記によれば、首相は先の大戦がはじまってすぐ婚約者をあとにパイロットとして出軍し、撃墜されて数年間にわたり密林に遭難している。軍記録を参照する限りこれは事実であり、してみれば終戦後に生まれているシビルは長らくそうとされてきた首相の実子では有り得ない[ii]。おそらくは個人的な怨恨により、シビルは道化としての王座に据えられたのだ[iii]

もちろん必然性など望むべくもないが、一応はここに理由を見出すしかない。かくも荒唐無稽な案が実現したのには、戦争を通した極端な人口の減少、その後数十年間の着実な復興、その裏で民草の溜め込んでいった倦怠感などが多くを負っていたのだろうとしか言いようが無い。成立過程についての細かい研究はまだまだ途上段階であり、飽くまでその滅亡を対象とする本稿では創生期の記述をここまでに留めるが、ともかくもこうしてこの国に、大革命以来絶えていた王権が数百年ぶりの復活をとげたのである。



[i]六人中二人の妻を殺し、教皇と決別して国王至上法という本家に向こうを張る「大ボラ」を発したかの強権王が、まさにこの国の歴史で最も道化を愛した王であったことを想起されたい。

[ii]またシビルの母親は出産の後に病死しているが、遺品の中からは首相の親友であり、やや遅れて出征したさる男性が認めたと思しき遺書が見つかっている。これにシビルの名がすでに言及されていることをもって著者はこの男性こそシビルの真の父であると結論しているが、筆者としては余りにメロドラマ的に感ぜられ、首相とシビルの血縁関係を疑うには吝かでないものの、この説をすぐ持論に採るには首鼠両端を禁じ得ない。

[iii]市民たちの間で当時やり取りされていたとされる暗号文字では、シビルはたいてい「王(笑)」と表記されている。恐らくは王たる称号のシビルに関する虚構性を踏まえた表現であろうが、この暗号文字文化に関する研究はまだ十分に進んでいないのが現状であり、多くの研究者同様、シビルを他の王と並べて呼称するには本稿もシェーミ女史による「道化王」を用いる事とする。この言語には他にも「ワロス」「セクロス」など意味の判定が困難な単語が見受けられ、現時点では主に尊称のように用いられることから前者を戦時に活躍した英雄の名、後者は当時流行した剣ないし棒を用いるスポーツの類と考える向きが強い。


 神はわたしたち使徒を死刑囚のように最後に登場する者として引き出し、

こうしてわたしたちは、全世界に対して、

つまり、天使に対しても人々に対しても、見世物にされたのだ。

わたしたちはキリストのために愚かな者となる。

「コリント人への第一の手紙」第四章九節

それは国民から王に対して嘘の吐かれる王権だった。シビルは嗤い者にされるための王だった。人々はこぞって彼にその王たる権威を騙り、さも敬服し称揚しているかのように担ぎながら、陰では自らこの虚構をせせら笑うのである。数年のうちは国民の大半がこの無意味さをこそ冷笑し、首相の意地悪さに批判を浴びせもしたが、シビルが成長して王としての自覚を見せ始めるにつれ、その無意味さこそが持つ意味をついに理解するようになった。恭しく頭を垂れながら心の中で味わう優越感、これに唯の道化が後光射すような威厳をもって頷き返すことの筆舌に尽くせぬ滑稽、こうしたものが病みつきになって、程なく全国民がこの王制への心からの忠誠を誓うようになったのである。彼らはかつてどんな国民にも持たれたことのないような連帯意識を分かち合い、この嘘から降りようとする者があれば寄って集って即座に口を封じた。彼らの自尊心は愛国心へ直結し、あらゆる階級差異もまた等しく神ので均されて事実上の完全平等社会が実現した。

この国の歴史を見ていると、神のごとき下等存在こそ人類が求めてきたものではなかったかとさえ思われてくる。おそらく人間は、まさしく優越感への欲求と同じようにして誰かを尊敬することへの欲求を持っているのである。貶めることの悦びは相手へ潜在的に尊さを認めていてこそ成立するのであってみれば、賤しめることへの淀んだ憧れこそは人間が示し得る最大のものであろう崇敬なる感情の美しさの正確な裏返しである。従来の王制において憧憬が専ら尊敬という名で呼ばれ、実質として嘲弄では有り得なかったのは、畢竟王制というものが上から下への嘘であり続け、それゆえ国民たちに目的としての成り上がりを目指す俗物根性とその手段としての個人主義との相性を良くしてきた為であった。騙された民草として生きるとき、尊敬でない憧憬は酸っぱいぶどうでしかない。この王国の有り方の画期性は、偏にこの尊敬と嘲弄とを完全に融合せしめたことにあった。シビルの、否、彼らの王国では、秩序を維持するための構造そのものは決して損なわれず、しかもその上下の区別の曖昧さは明確であった。酸味を中和された風刺のぶどうに酔い痴れて、人々は自他と上下の境を自由に横断したのである。


王冠

このような空想が、

いったいぜんたいどんなふうにしてとてつもないものに成長し、

そして彼にとって納得のいくものになってしまったのだろうか?

ジョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』中野圭二訳

シビルは王冠を被って生まれてきたことにされている。それはやんごとなき神秘の力を浴びた母体のカルシウムをもって形成され、真珠の如き七色の光を目も綾に放ちながら今も王の頭上に根を張ったように載っているのだが、分娩を担当した侍医がシビルに語るところでは「空が青く、ワンが紐を持つように」王本人の目には見えないのである。

「母君様の血汐を弾いて煌めく冠を目にしましたとき、私めはあなた様の歩まれる高貴な運命を確信致しました。母君様が亡くなられたのは誠に残念であります。出産時に王冠が付けた傷から菌が入って、重い産褥熱を起こしたのでございました(さめざめと泣く)」

若干のアルコールを聞し召しながら発したこの大ボラによって侍医は大きな尊敬を国民の間に得ることとなったが、これがシビルの人格形成に及ぼした影響はおそらく軽視すべきものではない。言わばこれが彼の原罪意識を成し、のちの破滅をもたらすかの激昂の引き金となったのでもあろう。


[傍白]だが、芝居をつづけなくては。ああ、おいたわしい、目から血が。

シェイクスピア『リア王』野島秀勝訳 第四幕第一場

 シビルは清冽に澄んだ青色の眼をしていた。私の素質の全てはここに宿るのだとしばしば嘯いた。空のように遥かな、海のように深いそれに見つめられると、人は全てを見透かされるような気がしたものである。自ら意匠した国旗では白地の中央に青い丸が据わっていて、当人の言によれば白が王権をかこむ民を、青がその中央の理性たる王を表すということだった[i]

私は王たる故に、とシビルは日記やスピーチ、各種の宣言において決まり文句のように述べている。私は王たるが故に、他人の手を生まれつきのものとして使い、自分の眼をほとんど盲目的に信じなければならない。前者は無数にあり、その価値は量にある。後者は一対しかなく、その質に意義の全てを負う。これらは共に替えの効くものではない。

こういう能力の分かり易い一例となるであろうか、次のような話を一つ挿んでおこう。軍隊を引き連れてある遠征に出掛けた時のこと、先鋒隊が突破したあとの敵国兵が累々と横たわる平原を進軍しながら、王はやおら銃を抜いたかと思うとそのまま近くに倒れていた兵士の肩へと三発ほど立て続けに弾を撃ち込んだ[ii]。随行の者たちはひどく驚いたが、撃たれた兵が悲鳴を上げて手に持っていた銃を取り落としたのを見て、これが不意打ちを狙って待ち受けていた者であるのを理解した。

「己の眼を信じろ」

 

王は自分の瞳を指して宣い、臣下たちは感心しながら勿論大いにこれを嗤った。己が目を信じてこうも活躍しながら、しかもこうも謀られていることの滑稽さである。万事が万事この調子であって、それだけに国は上手く回っていた。



[i]全体を一つの青い眼に見立てて、一般には「碧眼旗」とも呼ばれた。この旗が採用されるや、人々は新聞や冊子のあちこちに図案を印刷する許可を申請した。そうして黒インクで印刷された旗を眺めながら、王権の白を王の無知、黒を節穴の眼と読み替えて楽しんだのである。その証拠として、印刷におけるカラー技術が発明されてからは、旗の使用許可申請数は急激に減少している。

[ii] 大戦争(八月中旬~下旬)におけるこの逸話は、国家運営におけるシビルの権限に関する推論の出発点として歴史家たちにしばしば言及されてきた。じっさい軍略の計に長けていたとはいえ道化たる王が銃を持って死地に赴くことの不自然に関しては、全てが王の義務感を満たすための民による芝居であったとする「バーチャル戦場説」が長らく定説であったが、王の戦闘による成果と史実上の領土拡大が一致していることが指摘されると、道化王はやはり実際に出陣していて、国民は彼が死んだら死んだで面白がる算段をしていたのではないかという「底意地最悪説」が優勢となった。


 

 諸君が、片側にロックの頭を吊したら、その方に傾くが、

やがて反対側にカントの頭を吊せば、真直ぐには立てるだろう。

だが、御苦労千万なことだ。

多くの人の精神は、均合を取ることばかりに追われている。

メルヴィル『白鯨』阿部知二訳

ある日、東の方へ派遣されていた探検隊が妙なものを連れて帰ってきた。市街の門でどよめきが起こり、それが大通りを城の方へと近付いてきて、とうとう謁見の間で待つ王の眼に触れた。

引き連れられてきたその奇怪な生き物を見て、人々はあんぐりと口を開けたまま、しばらく身動きができなかった。

それは首のない人間の姿をしていた。目が肩の辺りについており、馬蹄形をした大きな口が人でいうみぞおちの所にぱっくりと開いている。肺はどこにあるのだろうか、その在るべき中心線に沿って、隆々と高い鼻さえそびえていた[i]

街の方から、ざわめきがなぜか笑い声へと変わって押し寄せてきた。子どもの大群が城を取り囲んだかのようだ。やがてなんとも言えない可笑しさが煉瓦一つ一つの隙間からこの謁見場の中へも浸み込んできて、立ち会いの高官や貴族の連中にまで伝染し始めた。草食動物然としたつぶらな瞳といい、つねに田舎の農夫のように微笑んで見えるその口元といい、この生き物ときたら国にとっての脅威には到底なりそうもなく、むしろ物笑いの種、愛玩動物にこそ向いていそうなのである。普通であれば首にかけるものであろう手綱が頭のないせいで腰へと巻かれてある辺りも、猿回しの猿を思わせるものがあって妙にしっくりきた。

口々に打ち上げられた笑い声が天井にかかるシャンデリアをしゃらしゃらと鳴らし、やがて赤じゅうたんへと落ちては弾んでいるあいだ、シビルは玉座に腰掛けたままじっとその生き物を見つめていた。王の傍らに立ってやはり笑っていたある宰相はこれに気付くと、その食い入りようにこの生き物と似たような愚昧さを感じ取って、優越感から密かにいま一つの冷笑を洩らした。

笑いがようよう静まると、王は生き物に問うた。

「おまえの名はなんと言うのか?」

 こんな猿に話しかける王とは! 先の宰相は慌てて顔を隠そうとした。広間の笑いも再びシャンデリアへ向かって跳ね上がるかと思われたが、次の瞬間には突然に凍りついて力をすっかり失ってしまった。生き物が馬蹄形の口を開いてこう答えたからである。

「おいらはブレムだ」

 うすら寒い、みょうに白けたような雰囲気が、つかの間だけ辺りに漂った。人々は顔を青くしたり、赤くしたりした。

「ブレムか」と王は、別段に驚きもせず言った。「その名はどのように綴るのだね?」

 生き物は眉をしかめた。後から分かったことだが、これは人でいうところの首をかしげる動作なのである。

「ツヅル、ってなんだい?」

 この先しばらく繰り広げられた堂々巡りは省略する。根気強い王の質問によって分かった所では、この生き物たちは棲息地に数百体からの集落を作って暮らしているが、文字などは持たずにもっぱら口語によって意思の遣り取りをするのだという。

「おまえには仲間がいるのか」

「たくさんいるよ。いつもはみんなで、いるんだけれど、たまたまおいらは水がのみたくって――」

「我々が××河を越えようとしていたところ、この獣は川の水をすくっては腹部の穴へと流し込んでいました」

紐を握っていた探検隊長がブレムの言葉を遮って報告した。その口調は傲岸にして軽蔑的で、この生き物は人の言葉をまねて鳴き声を上げているだけだと言わんばかりだった。

「おいらは水を、のんでたんだってば!」すぐにブレムが抗議した。「なんべん言っても、わかってくれないんだなあ!」

「私はこの者に尋ねておるのだ」隊長をそのように諫めてひどく驚かせておいてから、シビルは更に問うた。「おまえたちの王と話がしたいのだが、取り次いでもらえないだろうか」

 ブレムはまた眉をしかめた。王は二度目でこの意味を理解して、「おまえたちには王がないのか」と声を上げた。

「オー?」ブレムはその柔和な口元にそぐわぬ目をしてしばらく考えこんでいたが、やがて思い付いたように踏んぞり返って(つまりは玉座の方を見上げて)、「ところで、あんたが頭のうえにのっけているそれは何だい?」と質問を返した。

「頭がないくせに、どうして頭なんて言葉を知ってやがる?」探検隊長がうっかりと指摘した。けだし、これは彼にとってかなりの失態である。

「なにいってんだい! おいらだって頭は、もってらい!」ブレムは毅然として反論する。

「それはどこのことを言うのだ?」と王が問うと、ブレムは自分の眉間、人間でいう胸辺りを指さした。「ここだよ。てっとりばやくいうと、目のあるところさ」

「そう教えられるのか?」

「そうだよ」ブレムはお辞儀をして(つまりは頷いて)答える。「みんながいうには、頭っていうのは目の、あるところのことなんだそうだ。そいでもって目っていうのは、生きてること、と死んでることを見わける、ものなんだそうだ」

 このように珍妙なけだものが、しゃっくりをしているようなたどたどしさはさておき人語を操りはじめ、人々が形だけとはいえ頭上に仰いでいる王とまるで対等のような口ぶりで話し合って、あまつさえ目についての何やら哲学めいた定義まで示してみせたのである。お歴々がほとんど恐怖に近い表情をして押し黙っている中で、ただ王だけは玉座から笑い声を上げた。

「それなら一目見れば分かろうものを。つまりこれは私の頭なのだ。不思議がることはないのだよ。私はおまえたちと、まるきり違うものなのだから」

「ああ、そうか!」ブレムはびっくりしたように身体をひねり(要するに辺りを見回し)ながら言った。「どうして、きづかなかったのかなあ! おれは、てっきりノッペラボウのくににきたのかと、思ってたよ」

 人々の目に侮蔑が一番星のようにしておそるおそる灯り、それに遅れて嘲笑がそろそろ宵闇のように広がっていった。

「じゃあ王さまよ」とブレムはさらに問う。「ここにいるこいつらが、のっけているのも頭なのかい? おれにはまだ、そうは、おもえねえんだがなあ」

この言葉になんらかの感興を催したらしい王がやおら身を乗り出して、「そうか、おまえは王冠のことを言っているのだな! そうだ、この中で王冠を戴いているのは儂だけなのだ!」と叫んだのを聞くと、人々は上体を反らしていよいよ高らかに、涙まで流して笑い続ける始末だった。

「じつに――愉快な生き物ですな」宰相がにたにたと笑って言った。「王よ、この生き物がお気に召したようですな。ならば直ちに第二次探検隊を派遣し、こいつをもう少しこの国へ連れて来ましょう」

「私もそうしたいと思う」王はブレムの動作が移ったのか、身体ごと頷いて言った。「この者にはこの国へ逗留してもらい、互いに人を送って故郷との交流を打ち立てよう」

「承りました」なにを馬鹿なことを、と思いながら宰相は答える。こんなものには国もなければ、向こうから寄こされるような人も居はしないのに。

この宰相がこうした提言をできたのも、この生き物の気味悪さに虫唾が走るのを乗り越えてやっとのことであった。笑いというものの性質を一つしか知らないこの国民たる彼は、先ほどの王の笑いに勇気を得た。単純な三段論法――やはりブレムは下等なのだ、王でさえ嗤っているのだから!

「我々はこの生き物たちと上手くやっていかなければなりませんな」彼はすでにある素晴らしい構想を思い浮かべながら言った。「色々と与えてやれば、得るものも多いでしょう」



[i]この生物の生態調査を命じられたある役人は、古今東西の伝説からブレムに関係あると思われるものを総攬してかのように述べている。「首無しの人とては、西に緑色の騎士、東に夜ごとばいくなる乗物を駆る女有りとなむ。小生初めはこれぞブレムなりやと思いけるも、更に調べるにより近似せし以下の二怪物に行き当たれり。いわく東の国には、地球より水の無き星へ至りて怪物化した人間と、ばね仕掛けの如き伸縮自在の足を持つ全身茶色の怪物有り、前者は棲星怪獣、後者はキックの鬼と異名を取りとや。DVDまたゲームソフトで確認するにその姿も瓜二つにて、小生としてはブレムをこの二怪物と同一ないし同系統の生物と認めて王へ報告せり。またこれの亜種であろうか、さるジャングルには頭部に当たる部分が二つに裂けて脚部と線対称を成す人面の小動物がおり、人々はこれを好んで食する由」。


 道化

 私は人々を楽しませようとした。

 人々は自分たちが好むものを王が好むのを見ると感動する。

 時にはこれが、褒美を与えるよりも人々の心をつかむのだ。

ルイ一四世

 最初のブレムを王の側に置いておき、いちおう人のようなものとして扱うにあたって、人々はこれに何がしかの役職を与えるべきだと考えた。あんな奇怪な化け物をあのままで人間たちの営む社会へ迎え入れるなど許されるはずはなく、参加はたとえ認められても好きなときに反故にできるものであるべきだった。

大臣たちは何日にもわたる合議のあと、ブレムを宮廷付きの道化に任命した。まさに名案である。人民の道化たる王に、さらに道化をつけてやるのだ! それは人として扱われるためのと、この国の王権機構へと迎え入れられるためのとを見事に兼ねていた。そのうえ王が道化のブレムを見て笑えば、それを見て人々はさらに倍ほども笑いを得るのである。ブレムが畢竟人間ではないというのがミソだった。心の底でくすぶっていた貴族階級への憧れを、そもそもの無階級制から得ていた安心を諦めずして満たせるとは、なんとも夢のような話ではないか!

このようなシステムを発明して人々は有頂天だった。おまけに第二次探検隊が東方から連れてきた何百もの新たなブレムたちは、のほほんとした顔で言われるままに働くじつに使いやすい労働力となった。「国籍があいまいであるため」土地所有の認められないブレムたちを人々は争って「専属でお招き」し、掘立小屋へぎゅうぎゅうに「お泊まり頂き」ながら彼らについての「科学的」研究を重ねた。報告によれば彼らは「根本的に文明生活とは相容れぬ下等な種族」であり、頭蓋骨学的にも「問題外」なので、是非とも人間たちの「適切な管理」と「文明の保護」のもとに置かれねばならないのであった。

文字を解さないのも好都合であった。正確に言えば文字を怖がるのである。ブレムたちはそういうものに対し、さながら天敵の接近に気付いた小動物、親に折檻されそうになった子供のような恐怖反応を示した。彼らは区別や分類といった概念をついに理解しなかった。彼らは驚くべきことに個体同士を名前で呼び合うことがなく、ただ種族全体として「ブレム」と名乗った。

ブレムに交接はない。子供はたまに口から出てくる。顔貌はどの個体も全く同じで、生まれる時には計ったように同じ大きさ、これが次第に成長して、また決まった身長に達するとぴたりと止まる。うっかり二つの群れが混ざるとどれが誰の「お招き」していたものか分からなくなって、仕方なく記録された頭数だけを頼りに分配し直すということがよくあった[i]。折り悪く新しい個体が吐き出されていたりすると、そのつど帰趨を巡って主人(ホスト)たちの間で裁判が起こった[ii]

 虚構のうちに保たれていた王制の安定性は、言ってみればこうした成り行きのために崩れ始めたのである。国民たちが少しく苛々していたことには、王は彼らの期待を越えてどうにも良君すぎた。王は政策の評議や軍議において、大臣や将軍たちの立てる案をしばしば簡単に凌駕した。そのようなことは彼らの望むところではなかった。王には是非とも愚かなる暴君であってもらわねばならない。そうであればこそ表向きには畏怖と共に服従するふりをして、裏で憚りなくその驕りを嗤うことができるというものである。投獄されれば楽屋へ引っ込み、しばらく舞台上で甘んじていた張りぼての快楽の本物を愉しむこともできる。死刑宣告ともなればそれこそこの茶番から引退を果たし、劇場の外でかの侍医のような賞賛を受けながら余生を送ることもできよう。だが愚かなるかな、この慈悲深い王はそうした退場を許してはくれぬ!

地位を嗤うこうした世の中であればこそ、官吏たちは自分に割り振られた役が疎ましくてならなかった。最初のうちは身近で王に嘘をつき続けることを栄誉にも思った。だが次第にその嘘の身近にいる自分までが嘘の一部のように思われてならなくなった。嘘とは知恵者から愚者に対して行われる投棄である。論理のパイプラインを通して生産された記号たち、その消費のあとに残った洗浄不能な意味の、政治家とは詰まるところ穢多(ゑた)身分なのではあるまいか? ……そうした鬱屈とした思いを抱く彼らを一層の不安に陥れるのが、その汚穢を一身に蓄積しているはずの王の、威光とでも呼ぶしかないような人格の輝かしさであった。彼の指揮に従って戦に勝利するたび、博識によって融かされ怜悧さに鍛えられた判断がなお温情の照射のもと見事に変形して事態へ寄りそうのを見るたび、この王は真っ当な王政にもさぞ堪えるであろうという思いが彼らの裡にどうしようもなく萌した。われわれはこの王をいまいちど王として立てるため、彼を嗤うことを人々に止めさせるべきではないか? しかしこうしたことを考えるにつけ彼らはすぐさま苦笑する。それをどうやって達成する? 革命でも起こすか? 既にある王権をもって、彼の王位を大いに支持する民衆を倒すか? 傑作だ、それこそ王を本当の道化とするだろう! そうして彼らは、顔に浮かぶ自嘲の笑みこそはまだ自分が王を嗤うのを望んでいることの表れだと無理にも思い為してしまうのであった。



[i] 王室記録を紐解くと、時おり道化ブレムが城下の人々しか知らないようなこと(すなわち王への嘲笑に使われるような文句)を口にして家臣をひやひやさせている様子がある。個体間の見分けが殆どつかない道化ブレムと城下に散ったブレムの間には、何らかの情報交換の機会か、城下へ王と共に出たときに城下ブレムと入れ替わるようなことがあったのではないだろうか。

[ii] 主人たちはそれぞれに子供の「親」を擁立し、綿密な稽古をさせた上で陪審員たちの同情を引くような生き別れの物語をかたらせた。他のブレムにも「親の友人」「子供の兄弟」果ては「実の母親」などの役割が巧みに命名を避けながら割り振られており、後の不条理演劇における登場人物の匿名性、人物の性格よりも人物間の関係性を重視する傾向のルーツをこの王制時代の「法廷ドラマ」に求める文学者も少なくない。じじつ不条理戯曲に数多くの傑作を残したリッシン=ベンニ=フルトーリは、このドラマの熱心な傍聴者であったという。


問答

 飛んでるんじゃない。カッコつけて落ちてるだけさ。

バズ・ライトイヤー

悪役(ヴァイス)というのが出てくる劇を知ってるか?

「しらないよ。なんだい、そりゃ?」

「道徳劇というんだ。寓意のこもった教訓劇で、たった一人の人間の主人公と、善行や美、死、財産とかいった概念たちの擬人化されたものが登場する」

「へえ。そいつはおもしろそうだ」

「《怠惰》や《食欲》、《偽善》というような悪役に割り振られるものは、筋の中で人間を唆して自分の名と同じ悪徳へ陥れようとする。《高慢》は人間の自尊心を煽りたて、《嫉妬》は人をねたませて破滅へさそうというわけだ」

「こわいなあ。たすけてくれる、やつはいないのかい」

「いるとも。《思慮》や《五感》といった役がそれだ。ある話では悪徳に囲まれて暮らしていた主人公の人間(エヴリマン)が、人生の記録簿を持って死の洞窟まで旅をしなければならなくなる。人間(エヴリマン)は苦しみを受けて罪を浄化し、最後までただ一人付いてきた《善行》と共に洞窟へ消えていく。人間を最後に助けるのは美徳だということだ。かつてはこういう劇が、宗教道徳を人々へ教え込むのに大いに役立っていたらしい

「もともと、そういうつもりなんだろうな」

「それはそうだ。この世の言葉はすべて劇のせりふだ。おまえもそう思うだろう?」

「どうしてそんなことをおいらにきくんだい」

「道徳劇はやがて消えて行ったが、悪役(ヴァイス)だけは形を変えて後の時代の演劇に引き継がれたそれが道化という役割なんだ。人につき従って愚かな振る舞いをしてみせながら、じつは主人の持っている愚かさをそのまま表してみせている。おまえがこうしているように」

「なにが言いたいんだい。あんたはおいらが、だれかをバカにしてると思うのかい?」

「それが私にもはっきりしないのだ。おまえが仲間に引き入れようとしている主人公はどちらなのか、私という一人の人間なのか、それともこの国の民たち(エヴリマン)なのか?

「そんなこたあ、はっきりとは言えないよ。ひとりはみんながみんなのひとりさ」

「ならもう一つ訊こう。愚かさの名において引き込もうとしているのがどちらであれ、おまえがこの国に道化として現れたからには人間(エヴリマン)の味方もまた登場するはずだ。いま美徳はどこにいるのか

「おいらがそうだと思うことだって、あんたさまにはできるんじゃないのかね。話を聞いてりゃ、美徳はなんにもしちゃくれないじゃないか。ただ付いててくれるってんなら、最初に付きまとってた、悪徳ってのと一体どこがちがうんだい」

「人生のもっとも重要なときにそばにいてくれることだ」

「あんたたちは死ぬことを一生の一部に入れてるのかい? それも、あんたらがその丸いものを頭と呼んでるのと同じようなおいらたちとの違いなのかい? だったらブレムは悪役(ヴァイス)かもしんねえな。ブレムには一生あれば十分だ。わざわざその先まで、勘定して元の木阿弥にしちまおうとは思わねえよ」

「ブレムにとってはそうだろう。だが人間にとっての人生は必ずしも一生に限らないのだ。文字というものを人間が持つのは、一人一人が一生のあらゆる場面に対しての身体と拘りから離れたところを用意し、参照と解釈を通して改善可能な物語に仕立てるためだ。人間は空白にこそ意味を与え、他者と交錯し、理をもって一人であることに纏わる軛から逃れる。それが想像力だ。高次元への逃避のための力であり、低次元への帰還のための力だ。人間はこの力を所以として、個体ではなく種として人間(エヴリマン)と名乗る。幾度とない再生(プレイ)のくり返しの中で、生より前のことを予見し、死後について想起する。百年ごとに瞬きをしながら数万年の一生を送る生物なのだ」

「なるほどね。だから戦もすれば木も切り倒すってわけだな。あんたらが目ん玉むいて見つめてるあの紙束は、そうやって面倒事からとんずらこいたことの覚え書きなんだね。一枚めくるごとに股ぐらからぽんぽん飛び出して、そのうち続けるのも面倒になって放り出して、あとは最後の一冊をよぼよぼ転がり落ちて、みごと、めでたし、めでたしか」

「おそらくはそうだろう。個体の中では細胞分裂の回数が遺伝子に記録されているというが、それと同じで、人間(エヴリマン)にしたところで大きく見れば破滅へ向かわざるを得ない。最後の一人が救われるために、それまでの者たちは救われもしないのに命をつながなければならない。だが――近ごろ私は頓にこの言葉が好きになってきたのだが――それでも私たちは続けねばならないのだ。この義務意識こそ人間だけが持つもので、人間の人間たる所以なのだ」

「これで分かった! あんたらが頭って呼んでんのはキノコの一種だよ。上から意味を吸い込んで、下から一気にぶっ放すって寸法だ。コトバ菌にホコラシ菌、ウツクシ菌にタクマシ菌、じゅうぶん笠が育ったら、だれかにぶっ刺してこれ注入と。それを人間の専売だっていうんだから世話がないやね」

「おまえ、どうしたというのだ?」

「《善行》がついてくるのは、 人間(エヴリマン)に取りついて死のむこうまで忍び込もうとしたからだとは思わないかい? 本当は《自己欺瞞》とか《親切ごかし》とか《さつまいも》とかいうやつらが後からでっち上げたお話なのかもしれねえぜ。なんせ死ってなあ、誰も見たことないだけに、いちど入っちまや書きこみ放題の言いたい放題だからな。木馬の中から一番乗りして、やあやあ、我が名は彼の《善行》なんちゃって、我のみが人間を救うのだ。さあ気にするな、さあ言いくるめろ、さあ蒸かして焼いてガスを放れってわけさ。くせえくせえ、なんて可哀想なやつらだ、後生大事に《美》だの《善》だの吸い込みやがってよ!」


革命

観客というのは、一人一人は良い人でも、集団になると頭の無い怪物だ。

どちらを向くか分からない。

チャールズ・チャップリン『ライムライト』

「その王冠を被らせておくれよ」と言ったブレムに王が激怒したというのが発端として伝えられる所だが、かのシビルが果たしてそのようなことで冠を曲げたものかという異論もないではない。しかしながら、シビルが自分にまつわる虚構をあるていど理解した上で王を名乗っていたというかの真実らしくも物悲しい見方――その悲痛と真実味はまさに証拠がいっさい残っていないことから来るのだが――に拠って立つならば、シビルの激怒の理由は先に仄めかしたように、王冠にまつわる諸々が彼の唯一見抜き得なかった嘘であったことに帰すべきであろう。シビルにとって恃みの眼には見えないもの、母の不在の由来、自らの原罪の証たる王冠というものがいかに重要であったかを察するのは確かにひどく困難である。だがけだし人間とは皆この「王冠」を被るものであろう。確かなものも不確かなものさえも、人間がそういうものを想像し信じこむことから始まっているのには違いない。

 また、ブレムがシビルと同じように分かっていなかったことについても思い出さねばならない。胴体部分を「頭」と呼んでいた彼らが、頭に被るものである王冠のことを人間の「顔の上」にある頭部そのものだと思っていたとしても不思議はない。そう考えればブレムの発言を、首を取り外しできるものと思い込んでの、あるいは恐ろしくもそれを見越しての不遜な発言と取ることもできよう。幾つか薄氷を踏むがごとき推定を必要とするとはいえ、この文脈で行けばこの話の最後で起こる凄惨な(よもや描写もするまいが)スペクタクルにも幾許かの心構えができるというものである。

 王はブレムの粛清を命じ、役人たちは動揺した。一体全体どうした乱心か? あれだけ可愛がっておいていきなり処刑とは! 王政になってから死刑の執行はついぞ行われていない。市民たちは長らく城下の広場に処刑台を見ていない。それを事もあろうにそんな馬鹿らしい理由で引き出そうというのか? だいたい絞首にも斬首にもしようがないではないか、元から首がないのだから!

 道化ブレムのを名乗るブレムが現れて、その母の兄も名乗りを上げ、その母の兄の姪、あげくその母の弟の姪の夫の三代前の当主の末の弟の結婚相手の義理の兄の二度目に結婚した婦人[i]に至るまで、道化ブレムの類縁たちが城へ殺到した。もちろん彼らは市民たちに役柄を教え込まれて、法廷ドラマのつもりでやって来たのであろう。裁判所がその血縁関係を糺したところ、収拾のつかないほどの長期にわたる福音書のような「家系図」が提出されたが、名前の所にはただ「○」の印があるだけで、ブレムたちは法廷でしょっちゅう家系図を覗き込んでは「これだ、これ。ここがおれ」と口走って出廷者たちを失笑させたという。

もはや対象は道化ブレムのみに非ず、城下も含めブレムはすべて殲滅せねばならぬと王が言い出すに至って、動揺はさらに戦慄となって人々の間を駆け巡った。王は気が触れたに違いない! 殲滅という前時代的な言葉の生々しさも恐ろしければ、その理由の不明さも気味が悪かった。かつてそうした根絶を図った独裁者はどうなった? 野望は阻止され自殺して、それでも今なお世界史上に影を落としているではないか。ブレムを全員殺せば怒りは収束するのだろうか? その深い暗がりから、今度はこちらへ矛先が向けられるということはないだろうか。すげ替えようという言葉が街の方で囁かれ始め、やがて城の中へと届いてとうとう玉座のシビルへ達した。市民たちは自分たちの関与を否定しているが、首という概念を前提とするこのような言葉がブレムから起こる訳がない。人々はブレムへ以下のように吹き込んだのである。

「お祭りをしよう。一日だけ城から王冠を借りてきて被りっこをやるんだ。それを載せている間は王様扱いにして好きなだけ食べ物をあげるから、みんなで奪い合いをしてごらん」

 そういうわけでブレムたちは城へと傾れ込み、程なく王冠を担いで城下町へと躍り出てきた。処刑台の上で道化ブレムによって祭の開催が宣言され[ii]、市民たちが腹を抱えて笑いながら見守る中でブレムたちは王冠の奪い合いを始めた。道化に豪勢な食事が振舞われるのを見たブレムたちは、その権利を理解して我先にと群がった。王冠は投げられ、蹴られ、手から手へとパスされて、その度ごとに人々の笑い声は一段と高まって耳を聾するばかりであった。だから広場のそこかしこで時おり上がった悲鳴や断末魔の声も、ほとんど耳には入らなかったのである。

 群衆の頭上にぽんぽんと跳ね上がるものが、やがて二つになり、三つになった。享楽の歓声が起こりつつある危機への凝視に変わり、やがて恐怖に引き絞られた絶叫になった時にはもう手遅れだった。ブレムによれば「生と死とを見分ける」ためにあるを、人々は持たなかったのである。さらに言えば、その「目のある所」であるをも彼らは持っていなかったのだ。この国にいた頭持つ唯一の王は斃れ、人々は今や祭りの王の下に統べられようとしていた。かつてはそれを持つ者が多くいたこの国も、いつしか持たない者が余りに大勢を占めるようになっていた。

 祭りは夜半にも続き、日の出と共に終わった。なにもかもの転覆がすっかり終わって、この頃にはもう人の理解の及ばない、しかし整然として新しい秩序がすでに出来上がっていたが、市民たちはさっさと市民であることを止めてどこかへ行ってしまったので、後にはただ有りもしなかった王制の名残り、ようやく形を取ったこの国の王冠たちが、被る者もないままに転がっているばかりだった。



[i] 傍点打つのもバカらしい。

[ii] ダルナウェイ博物館に所蔵されている原文を見るところ、この祭りの開催宣言は多分に共和政宣言のごとき性格を持っている。歴史家たちが一日限りのこの政体とも言えない政体を「ブレム共和政」と呼び習わすのは、この痛々しい教訓を世界史に銘じるためなのである。