09
ヌフ
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KATANA-
ヌフが提げていた刀の、その切れ味といったらなかった。これに斬れぬ物はまず無かった。岩、鉄、鋼、紙を鋏で切るかのよう、船、橋、家、豆腐をギロチンで裂くかのよう。犬、猫、人――とにかく斬れぬ物があるかどうかは問題ではなかった。彼はこの刀を選び、この刀は彼を選んだのである。
気に留めておいて頂きたい事がある。上にあるように、ヌフもまたこの刀を数ある内から、使い手として或る程度の権威を持って選んだのである。彼は何も、この刀があったからヌフになったのではない。ただ無作為に道具によって選ばれたから主人公となったのではない――つまり、ハムサやゼスのようにでは。この男が刀と出会った当代、彼に並ぶ剣豪は確かにどこにも居なかった。この刀はこの刀として働くに十分な抜刀の腕前を備えた男ヌフと出会い、本話の始まる時点に至る。
「斬れぬ物があるかどうかは問題ではなかった」と書いたのにも、多少の説明が必要であろう。本話の始まる時点において、ヌフは既にそこらに転がっている木切れですら全てを斬ることができた。その居合の速さは雲を晴らし、音を止め、光を消した。理屈で言えば簡単なこと――対象の形を成す粒子の間に衝撃の先端を差し込んで、後は摩擦を押し切りつつ滑らかに押し開いていくのだ。試しに本を置いて、手近なものでやってみると良い。賢いあなたは試すまでもなく、微笑ましいあなたは試してみて初めて、そんな芸当はやってみればできるというものではなく、ヌフがどれほど凄まじい使い手なのかを理解する事であろうが。
では、この刀を得てから彼は何をしたか。何という事はない、それまで通りに対峙した侍を斬ったのだ。斬られた相手は血を吹いて、倒れ伏した――凡そ数年後に。した事はそれまで通りだったが、その結果に関しては明確な違いがあった。
時代劇などのチャンバラで、かのような殺陣をご覧になった事やあらん――侍が掛け声と共に(クールに黙ったままというパターンも多いが)剣を振るう、浪人(悪代官の手下も可)たちが不思議そうに体をさすりながら自分達を通り抜けていった侍を見詰める、やがて突如として噴き出す鮮血、アッと言う間に絶命する浪人――ウェルカッソ中央研究所の最近の調査でも明らかになっているように、切断の速さが一定速度を超えたとき、斬られたものは或る程度その形と機能を保ち続けるのである。今となっては自明の理であるこの事の、しかし実例を最初に示したのはヌフであったのを知るや君。
この刀を手に入れ、前述のごとき所業を可能とするようになってからも、ヌフは弛まずに鍛錬を続けた。その居合は音をますます置き去りにし、光をいよいよ引き離し、斬られた者が絶命するまでの時間はどんどん長くなった。彼に勝負を挑むような侍、彼を斬ろうとする者はやがて居なくなり――替わりに彼に斬られようとする者が現れるようになった。余命三年と診断される病人が、彼に斬られれば十五年生きた。ヌフの刀による致命から絶命までの時間は、もはや人の命さえ追い抜いたのである。ここにはっきりする命題が少なくとも二つあろう、すなわち命は光より速く、医者は侍より速かったのだ。
しかしヌフは、自身を決して医者であるとは考えなかった。彼はいつでも人殺しであると自称した。そんな馬鹿な、あんたは死にそうな人を永らえさせてきた、生かしてきたじゃないかと人が言う――それこそ馬鹿な、とヌフは思う。俺は生かしてきたのではない。俺はただ殺しつつあるのだ。
自分に致命傷を与えた相手を、自分がまだ死んでいないからといって有難がるのはおかしな話だ。それではこの世に「殺し」という言葉は有り得ない筈である。殺すとはつまり相手に対し外的な死を、その寿命より手前に故意のもと挿入するという事であり、であれば、ヌフの業をよく表す文句こそは以下のようであった――死ぬ前に殺す――致命性の上塗りによる下手人の名の強奪!
この推論には確かに、一つ検証されねばならない事があろう――彼が追い抜いた人の命とは、果たして生を指すのか死を指すのか――「命」とは「生」であるのか「死」であるのか? 人は死への屈従のもと生かされているのか、それとも死に抵抗して生きているのか。この事に関しヌフは前者であると考える、即ち命とは生であり、生とは死への屈従であると――何となれば彼とても、人を斬ってその寿命を延ばす事までは適わなかったのだ。ヌフはその訳もまた理解していた――それは偏に、彼自身がもはや、取り返しの付かない遅れを取っていたからである――自らの生に。彼自身が既に斬られていたからである――死神の鎌に。まさしくヌフの物語のこの文脈においてこそ、人間の誕生とは絶対的に先行する死刑宣告であった。生はそのものが致命的であった!
どうしてヌフが医者であり得よう? 人の命は身体の続く限りであり、身体とは壊れ物であり、なれば命も壊れ物である。それは実に美しく輝く丸い玉であり、常に荒くれた坂を転がっている。一度付いた瑕は消えず、汚れれば転がる速さをいや増して、やがては全てが落ちていくのだ、あの暗く深い淵へ――玉の汚れをヤスリで削っているだけのヌフが、どうして医者でなど有り得ただろうか?
然るに、その道はあった。
考えてみれば、武士にとっての解決策はいつでも一つしかない――己を正義にしてしまう事である。……何によって? 勝利によって。……何に勝利して? 彼が望む所の対極にあるもの、即ち《殺す者》に勝利して。それはいかにも正当であった――生にとって、そして死に対して。
ヌフの刀には当然のように兄弟とも言うべき刀があって、ヌフ自身にも勿論のこと兄がいた。彼は弟とは違って殺生を厭わず、寧ろ楽しんですらおり、その腰にはヌフの刀の兄弟刀が必然的に収まって、血を吸って月夜に紅く光ったものである。こういう兄弟剣士がおり、ちゃんちゃんばらばら交えるようになるのに、延々と伏線を張ったり、その過去を語ったりする意味が最早あろうか。読者諸君は好きにそこまでの筋を思い描けば良かろう、どうしても面倒だと言うならば、差し詰め赤い着物の可愛い町娘でも攫わせておこう。その娘の髪は長いか、長いが良かろう、その娘は剣術道場の女跡取りなのか、何を根拠にしているのか知らんが恐らくそうだろう、こういう場合は猿轡を噛まされているのが定石なのだがどうか、知らん、好きにしろ。とにかく仕合は始まる。
戦いそのものは一瞬であったということ、それから速さの上ではヌフの方が勝っていたのに相違ないということは述べておこう。しかしこの話においてその事は、必ずしもヌフの勝利を保証しない。何故ならばヌフ兄の抜刀の速さは、少なくともヌフに匹敵するものだったからである。
そのうえ彼の振るっていた刀は、武器としてヌフのそれよりも優秀であったと言えた。即ちそれが持っていた致命性は、銃のように致命的であったのだ――つまりは斬られればすぐ死ぬのだった。付けられたのがどのように小さな傷でも、そこから死そのものが速やかに命へと食い込んで搾取した。遵って兄は実力をそのまま発揮すれば良かったが、ヌフはともすれば倒すべき相手を長生きさせてしまい兼ねなかった。ヌフは適切に、殺せる程度に手を緩めなければならなかった。ヌフ兄が勝負に勝つことは限りなく困難だったが、ヌフが仕合に勝つこともまた至難であった。
肯定する自分のみ肯定し、
否定する自分のみ否定せよ。
それは蓋し打ち崩しようのない、遂行されれば至極まっとうに全的法則足り得る道徳観念ではある。だが勿論のこと、ここに現れているたった二つの言葉の定義こそは難しい――例えば誰かを肯定する事がそのまま誰かの否定である場合、いわゆる択一の場合はどうであろうか、そもそも規範のもとに組まれる秩序、社会の営みとは、全てが或る否定を基にして立っているのではなかろうか――弱肉強食、自由競争、搾取、買収、奴隷労働――健康なる飽食、貧困という不治の病!
死こそは無条件にして原始の否定であるという仮定に対して、人はなぜ肯く事ができないのか。頷くことができ、首を振る事ができる者で、死んでいる者のある筈などないのに。あらゆる二項対立の一方は生に、もう一方は死に帰するのであろうに。……そこには生の陣営に対する「死」という時点の、死の軍団に対する「生」という瞬間の映った一面の鏡があるばかりである。片方に何かが生じる(死する)とき、もう片方にもそれは生まれる(死ぬ)であろう、その中立地帯はまさしく無人地帯であり、ただ物しかそこに在る事はできぬ筈である。しかし我々は時に被害者として、そこに立っている加害者という人を見る――それは何故であろうか。彼は人の欲しいものは常に生で、与えたいものは常に死であるとでも言うのであろうか。そのような身勝手こそが本質であると言われるほど、我々は寛容でない生物なのだろうか。
彼は彼自身が鏡に向かって動く主体である事を主張しながら、それでいて自分のする事は我々の反映であるとも言う。彼はそれを復讐なのだと言う。彼は自分こそが先に否定されたのだと言う――何故なら我々が、明らかに否定すべき時の彼を否定しなかったから。否定の反作用を恐れる余り、遂に鏡に映る自分に対してにこにこ笑い掛けるばかりであったから。考えるに、これは尤もな論駁である。
鏡に映っているのが人間としての自己と絶対的に敵対する死の自分であるのを忘れ、これに必要のない笑みを向ける――それは何と愚かな事であったろう、これこそは人間の行い得る最大の怠慢にして、生ばかりか死までも相手に取った冒涜である。これによって人は生にも死にも加われず、鏡一枚分の幅へと押し込められて、生からも死からも打ち拉がれ、かつその反作用に苦しむ二人の自分を見るだろう。そこで人は抗えないのでありまた抗えない訳でなく、悪いのと同時に悪くもなく、怠慢である一方で勤勉に過ぎ、被害者でありながら加害者でもあり、勝てないのと等しく負けず、そして無視されるほどに注目されるのである――恐らくはこの注目が、随分と麻薬に近い役目を果たしている。それは生きるために死のうとする、快楽物質の分泌が末期段階まできた自傷行為であると言える。
この閉塞を避ける為には、戦い続けるにはどうするべきか? ――生きることは自殺である、これを心に留める事に尽きるであろう。この言葉を巷におけるいわゆる意味でのそれと捉えてはならない。そちらは致死性のある自傷と呼ばれるべきである。ここでの自殺は、自分を傷めつける事を指しはしない。それよりもなお峻烈にして致命的な殺意をもって、そこから常に新たな自己だけがしぶとく生き残ってくる事をどこまでも信じながら自分を攻撃し続けるのが、ここでの自殺の持たれるべき観念である。これまで誰かに優しい言葉を使いながら我々の心に差してきた陰は、この観念のもと霧消する――何故ならそれこそ、我々のそれぞれの核を成す自由意志だからだ。そこに至って初めて、人は言葉を使うこと、自分の秩序をもって自己の人生を芸術として行うことに誇りを持てるようになる――そうして言葉は通じ始める――畢竟すべての無理解は、言葉の不通から来るものである。全ての人間が意志を通じ合わせて作り始めたバベルの塔を不遜として打ち崩したとは、神はよほど卑小なものだったのであろう!
肯定する自分のみ肯定し、
否定する自分のみ否定せよ。
ヌフ兄の刀は切っ先から真っ二つに裂け、もはや誰を斬る事もできそうになかった。
ヌフの刀もまた、中程で真っ二つに折れて、今や誰を斬る事も適わなくなったのだ。
彼らは言葉を得て、大いに不遜であり、もう何者も傷付ける必要がなかった。彼らは確かに致命傷を負っていたが、一方で既に死んでもいた。彼らは優しくなったのか――決してそうではなく、むしろ頭はこれまでより激しく回転し、目はこれまでよりなお血走っていた。全てを迅速に斬る刀と全てを瞬間に殺す刀とは確かに斬り結び、彼ら兄弟のそれぞれにそれぞれの殺傷力を、そしてまた反作用をも及ぼしたのである。
兄弟は握手を交わして別れた。彼らは依然として呪われており、誕生に遅れを取り、死神の鎌に少しずつ損なわれ続けていた。だがヌフの速さと兄の容赦なさとによる自己の更新は、今ここにおいて絶え間なく新しく生まれながら、物に纏わって――差し当たっては飴細工のようになった双刀がダルナウェイ博物館において、そして本話が読者諸兄にこのようにして語り続ける限りは――続き続けるのに相違ない。
赤い着物の可愛い町娘が猿轡を噛まされたまま置き去りになっている?――知らん、好きにしろ。今日のお話はここまで。