03
トレ

- a LOCKET -


 トレという名のその男は、七月の街のその酒場に毎年ぶらりとやって来て、最初に店の中を見渡しながらこのように言う。

「妹を見なかったか?」

 常連客たちは今年も来たな、と嬉しそうな笑顔を見せ、口々に「見てないよ」というような事を告げる。トレは肩をすくめ、勧められるままにカウンター席に腰を下ろす。手渡されたグラスを大事そうに両手で持ち、ゆっくりと一口、酒を味わう。常連客たちはお喋りを束の間止め、それをにこにこと見つめている。

 いつ始まったのかは誰も覚えてはいないが、こうした事はもうかれこれ長いことこの酒場で繰り返されていた。それは二番街の親父がまた女房と喧嘩をぶちかまして銭もないくせに飛び込んできやがっただとか、六番街の一人暮らしの呆け老人が姿を消したがまた墓場の妻にゲートボールの戦績を報告しに行っているのだなというような、繰り返されることがどこかしら保証された、七月の街のありふれた風景とも呼ぶべきものの一つだった。

「今回はどこへ行ってきたんだい」

 トレがグラスを下ろすのと同時に、客の一人がわくわくして待ちきれないというように訊いた。

「ああ、今度は南の方へ行ってみた。ワインの有名な港町の辺りだよ。あすこに住んでる小説家の先生の所へ下宿させて貰って、そこを拠点にあちこちへね……」

 トレは楽しそうに、常連客たちへ向かって旅の思い出を語ってみせる。この瞬間は客たちの極上の楽しみである。

 彼の話し方は不思議な魅力を宿していた。その言葉の一つ一つは色を持ち、匂いを持ち、質感を持っていた。人はトレの話を聴くたびに、彼の歩いた道のりの苦労を、目の当たりにした風景を、口にした食べ物の記憶をありありと感じ取るのである。彼らはあたかも、自分達がトレの後ろに並んで旅を共にしていたかのような感慨を得る。トレの話を聴くことは、知るというより思い出すのに似ていた。

 彼は家族を探して旅をしている。妹を捜しているのだと言う時もあれば、父を捜しているという時もあった。母もいるし、兄もいる。祖父も祖母も、七人の―現在確認されている数、ということではあるが―従兄弟も、みな生き別れになっているだという。

酒場の客たちは、彼のそうした話をあるいは信じていたし、あるいは信じてやっていた。思い込んでいるのだろうかと思っても、その点について穿った話をすることは避けていた。彼の話の面白さや、身のこなしから仄かに漂う気品といったものは、どことなくそうした神秘と連絡しているように思われた。彼らは神秘的な魅力についてはこれを是非とも詮索するべきであるが、魅力的な神秘に関しては限りでないという事をよく心得ていたのである。

「いまは誰を探してるんだい?」

「二番目の姉の三番目の姪でね。金色の髪をいつもポニーテールにまとめている、溌剌とした女の子さ。最後に会った時からだいぶ時間が経つから今はどうなっているか分からないけど、僕はきっと見つけ出すつもりだ。しばらくしたら、また旅に出るよ」

 常連客たちは品高く軽妙なトレとの会話を楽しむ一方で、彼が時折見せるこうした家族への執念の強さには不可解なものを感じる時があった。それは見方によっては先に述べたような魅力的な神秘という形を取るが、やはり場合によっては得体の知れない不気味なものとして捉えられることも否定できなかった。彼らは会話によって十分な笑いと心の余裕を得たのち、それの一部を恐る恐る還元するようにして彼の家族についての話を探った。詳しく話を訊くにつれ、そして後でそれらをまとめるにつれ、トレの「家族」の多さがどう考えてもおかしいものであることは否応も無く認められた。

 この店にウェイトレスとして勤めている一人の娘は、そういった違和感を誰よりも大きく感じていた。それは彼女のトレを見る眼差しが、常連客たちのような友愛のそれとは少しく異なっていたからに他ならなかった。三月の街で生まれ、三月の街を出ずに育ったこの娘にとって、恋愛と異郷という妙齢の娘の関心事をトレほど豊かに、そして確かに備え付けた人間はいなかった。異国の風の匂いがする外套を預るたび、深く響きのある声を聴くたび、見たことのない硬貨でチップを貰うたび、彼女は彼への憧れを募らせた。

娘はよく、彼に必死になって探してもらえる「家族」とは誰かしらと考えた。あわよくばいつか旅に供することはできないかとさえ考えている彼女の、ただ一点の不安がここだった。なにせトレがこの酒場にやって来て語った「家族」の人数は百を下らないのである。一人の人間の肉親の数として明らかにおかしいのに、どうして人々はこれを笑って聞くばかりなのかしら――恋情の昂じた娘にとって、その神秘は解決されるべき問題でさえあった。彼女は若さ故に、蝶は手に掴めばその美しい羽を無残に壊してしまうのだという事を理解しなかった。

 ある日娘は、受け取った彼の外套のポケットに何やら冷たくて硬いものが入っているのに気付いた。好奇心を抑えきれず、彼女はそれをこっそりと取り出してみた。それは甲虫ほどの大きさの、銀でできたロケットだった。

 これこそは彼の「家族」の手がかりではないだろうか? 娘はトレが気付いていないのを確認し、さっと店のカウンターに隠れた。娘は背徳の痛みと、それに必ず付いて回る歓びが、全身を震えのように走るのを感じた。

彼女はしばらく目を閉じて、それに耐え、あるいは噛み締めた。いま自分は彼の神秘と引き換えにし、彼との間に隔たる距離を一気に縮めようとしている! 彼の足許へと延びる階段を窺うのに、その秘密は霧だった、霧は確かに光を屈折させ、その向こうの彼を幾分か美しく誇張して見せていたかも知れなかった、しかし自分には霧が晴れた後の見掛けの差分を措いても彼に付いていく覚悟がある、そして旅立ちは、そう、出発は、必ずや晴れ渡った日の下で行われなければならない――。

緊張から強張った手をツメに掛け、娘はゆっくりと力を込めていった。ロケットは若干の抵抗を見せたが、すぐにカチリと音を立て、二枚貝の肝にも似て生きているはずのその神秘を露にした。

「ここにあったのか」

 頭上から降って来た声に、娘は心臓が弾け飛ぶかと思うほど驚いた。見上げると、トレがにこにこと笑いながらカウンターを覗き込んでいた。

「床に落としていたのかな? お嬢さん、それは僕のものなんだ、渡してくれるかい?」

「ええ……」

 娘からロケットを受け取ると、彼は今一度それを開き、その中を見つめて微笑した。

「いい笑顔をしているだろう?」

「笑顔?」

「ああ」

 トレは会話しながらロケットばかりを見て、一度として娘に目を向けなかった。ロケットは開けばトレの視線のみを受け入れ、トレの視線をのみ取り込んで生きているようだった。

「僕は必ず見つけ出す」

 ロケットを閉じたトレはそろそろお暇しよう、と言って立ち上がり、名残惜しそうにする常連客達に詫びながら店を出て行った。娘はその背中を呆けたように見ていた。

 ここまで書いておけば良いだろう。しかし筆者はここで、あなたがどうしてこの話を読んでいるのかにふと思いを馳せる。あなたはあるいは夜十時、ベッドに横たわった子供にせがまれてこの本を開いているのかも知れない。あなたの子供に少しく想像力が欠如していて、もしくはもうかなりうとうとして来ているために、お話を底まで掬うことが出来なかったということもないとは言い切れない。この話についてなお補足するとすれば、数か月に店へ一通の手紙が届き、

「トレがとうとう家族を見つけたんだとさ」

 手紙を開いた店主が、驚いた声を上げるこの辺りだろう。

「なんとまあ、本当にいたのかね」

「そりゃあ良かったじゃないか」

「しかし、なんだ、ちょっと残念だな」

「また店に来てくれるかなあ」

 口ぐちに祝福や惜別の言葉を述べる常連客達の中に一人、きょろきょろと辺りを見回しては首を傾げている者があった。随分と久しぶりに店を訪れていたこの客は、店主に向かって、おうい、と声を張り上げる。

「ウェイトレスはどこ行ったんだ」

「ああ、あの娘かい」

 店主は封筒の中に一枚の写真が入っているのに気付き、引っ張り出そうと苦心しながら応える。

「この前いきなり辞めてしまってね。なんでも街も出て行ってしまったそうだよ。どこへ行くんだろうね」

「そうか。じゃあしばらくは一人で大変だね」

「ああ、そうだな」

 客はコーヒーを注文しようとしたが、店主の奮闘を見て少し待ってやるかと思い直した。天井をぼうっと見つめ、トレの話の一つを思い出す。すると春の香りのする風が吹いて、彼の頬を優しく撫でていった――

と、ここで終わるが良かろう。子供はあなたに天使のような笑顔を見せ、つまんないや、と言って眼を閉じる。因みに言っておくと「つまんない」のはあなたの読み方が悪かったのだ。

そんなことはともかく、すやすやと寝息を立て始めたあなたの子供の顔は愛らしい。あなたはこの上ない幸福を感じながら、そのまま横で寝てしまっても良いのだ。居間に戻って、夫、あるいは妻との口論を再開するには、もう夜が更けすぎているのだから。


モドル