04
フィア
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POCKETBOOK -
フィアが新品の手帳を買い求めるとき、真っ白なはずのその頁に文字が既に書かれてあるのは、彼女に物心付いた時から当然のことであった。手帳のどこをめくってもそこには、黒く小さな文字が整然と並んでいる。フィアが何時に起床し、どこへ行き、誰と会い、何を見て、いつ就寝するか、そういった先のこと全てが、詳細に記述されている。一日に複数頁に渡って記述のある場合もあれば、平和な一日と見えて三行程度しかないような日もある。
事情を知らない人は一見して、これを勤勉な人が書いた日記だと思うに違いなかった。しかし取りも直さずこれは手帳なのであり――後述にて覆さねばならない認識ではあるが――未来の事に関しては明確な予言書であった。そして現在の先端が記述の時間の上に接して直立し、過去へと傾いだ後には、予言書だった部分は正確な日記帳へと体裁を変えるのである。
物心ついた時から身近にあるもの――時計や手鏡、なんとなく捨てないである玩具、元体験の形に凝固した記憶、酸素、それを吸って二酸化炭素を吐くシステム、父親の運転する自動車の揺れ、自分の眼の高さから世界が見えることへの了解などなど――を我々が日頃どう取り扱っているかに思いを馳せれば容易に想像が付くことではあるが、フィアは自分の手帳に起こる現象について、少しともそれが特別であるとは考えていなかった。考えるに正常とは異常でないことであり、異常とは即ち異変を隔てた正常である。少なくともフィアの人生にあって手帳の在り方にこれまで異変はなかったのだから、手帳に未来の出来事が書いてあるなどということは、フィアにとって前述の物々と同じく了解されていることだった。この『人物譚』がフィアの話を取り上げることの意義は、この「当たり前であることの偉大さ」こそが、シリーズの常なる大きな命題の一つであるからだ。
ところでフィクションの中にはそれこそ、未来の書かれた書物あるいは日記なるものが数多く在る。これを手に入れた主人公達は総じてまずこの最後のページを読むことを避け、しかし数日後だとか数年後までの事項については熟読し、良い出来事と悪い出来事とを取り上げて並べ連ね、差引勘定をしたのち悟った顔で暖炉へ投げ込んだりするものだが、当のフィアが手帳を見ることは、恐らくこの手の物語にかぶれた読者の想像するようには頻繁でなかった。せいぜい週に二、三回、次週あたりの事項を一瞥する程度で、その意図も知るためというよりは思い出すためという方が適切だった。
思い出す、というのは未来を、である。読者にはとんと見当の付かないことであろうし、筆者としても経験のないことではあるが、それはフィアに関しては可能なことだったのだ。未来を知るのでも予測するのでもなく、記憶しそれを引き出す作業として目の当たりにすることが、彼女の選択肢には常に泰然として在った訳である。人生は太さ早さの異なった幾つかの流れが組み合わさったものであり、手帳を見るのは自分の属す流れのそれぞれがどのような状態であるかを確認するためである、と彼女はある場において語っている。
フィアと手帳の関わりを正確に捉え、この話についてよく理解するためには、まず「未来」という言葉がどういうものなのかを改めてよく考える必要があるかと思われる。というのは、これまでより一層フィアの感覚に即して書くならば、この手帳は決して前述したように「預言書」としてのみ捉えられるべきものではなかったからだ。以下しばらく講義めいた、堅苦しい文を羅列することになるが、こんなものはこのややこしい手帳の存在なしには成立しない一種のパラノイアだという向きもあるので、この辺りに興味のない読者におかれては読み飛ばしてもらっても構わない。筆者は何を提起したいのでもなく、ただこういった人知を超えたもののあること、そしていざそれと向き合う場合に人はこういう処置をするのだということを大仰に感心してみたいだけなのである。
フィアは手帳とは別に、日頃思想した事を書き留めた手記を遺している。序文によればその動機は、彼女が「現在」とは「感覚すること」だと考えたからである。つまりはリンゴの赤さやグラタンの熱さ、アレイの重みといったクオリアを知覚する能力のみが過去にも未来にもない、現在の特権足り得るものだと彼女は主張するのだ。手記の解釈とそこで主張されていることの正しさに関しては諸説があるが、まず大枠を掴んでもらうために、この先は手記本文の抜粋に譲るが早いだろう。
あの手帳については多くの高名な学者様が見解を持っていらっしゃいますが、いま私なりに名を与えるとすれば、あれは「現在でないもの」というようになるでしょう。あれに記載されているのは未来であり過去になったものであって、この二つの間にあるのは現在を通る変遷ではなく単なる名称の変換であるように私には思われるのです。
(中略)
未来が現在になり過去になるといった考えは、こと私に関しては了承しかねるものです。その訳は私にあの手帳があるからであり、遵って私の考える理屈は私以外には当てはまらないとも言えます。しかし仮にあなたの運命をそっくり写した手帳があるとして、あなたはその紙面からあなたを得ることができるでしょうか? 時間の可能な限り細分化されただけの数の、そのそれぞれの瞬間にいるあなたの群像の中から、あなたがあなたでいる意味を看取して正気を保ち続けることが? 少なくとも私にはそれが困難であり、私がこうしてここにいること即ちが、この一種の一方的なルール決めをすることの必要だったのであります。
(中略)
「存在は世界から自分の形をした不在を取得しない限りあり得ない」というのはどなたかの論でしたが、あの日記に私の時間の全てが記されているのなら、私はこの次元において皆様とお会いする機会がないはずではないかという気がするのです。まるで自分が勘違いをしてここに生まれて来てしまった、絵空事の中の人物であるかのような心持ち――私にとって手帳の内容と現在とを切り離して考えることは、ですから、あなたたちがそこに「いる」のと同じく自然な流れであるのを理解して頂きたいのです。いるために場所というものを取る、この世に浮遊する分子の一部分を形の保持に充ててもらう、それはそういう作業なのです。
確かに我々にとってはそう簡単に適用できるとも思えない考えだが、実際に「手帳」を持つ者の意見として、この見解にはどこかしら真に迫ったものを感じるのも事実である。我々の常用する「未来」という言葉は、彼女からすれば既に数字の振られた過去をより過去の数字から引き算しただけの数値でしかない。そうした用法をするしかないのが我々三次元の人間の限界であり、我々が四次元について考えることそのものが無意味であるとする意見の所以である。どうあっても手に届かないもの、目に見えないものを、人はただ想像してみるしかなく、その本質的に無駄なことは絶望的なほどなのだが、反してその無駄さゆえに我々はこれを深く理解する必要もなく、遵って発狂せずにここに至ることが出来ているのである。フィアが感じたこのような寂寞については、しかし恐らく我々にとってはそれこそ絶望的に考えるだけ無駄なのだ。我々は手帳を持たない。我々はフィアではない。
我々はフィアではない。しかし手帳に書かれた人生を寸分違わず生きることが出来れば話は別なのかも知れない。フィアが死んで長らく経った昨今、十月の街に住む一人の女性の辿っている因果が、どうやらフィアの手帳に書かれているものと全く同じであるらしいことが分かった。彼女によれば、そこに書かれたことは避けられないといった次元ですらなく、ただ運命としてあるようだということだ。彼女は自分が「フィア」であるかも知れないことについて述べている。曰く「私は疑いようもなくフィアなのでしょう。もし私が誰であるのかが、私がものをどう見るかでなく、私がものからどう見えるのかということであるならば」と。
筆者はこれを今さら「人間の運命は使い回されているのではないか?」といった次元の提起にまとめ上げようとするのではない。ただこの機会にあって垣間見える、定められた運命の偉大さ、揺るがし難さ、そして何よりこの手帳が「在る」ということに慄然とするのみである。手帳はやはり焼き捨てるべきであろうか? 蓋しそれは得策であるとも言い難いのだ。運命は変えられるものであるとか、そもそも我々は自らが今どう行動するかだけを真に考えていれば良いのだというような思想は、もはや虚しいのだから。
言うなればフィアにとって、この手帳は世界で唯一の「真実の書」であっただろう。全ての文字は本来一つの仮定であり、一つの確信的な誤りであり、一つの可能性であるに留まらなければならない。何故ならその文字はいつでも、決して他人ではない何者かが自分の「現在」に即した見地から記すものであったからだ。しかるに手帳の文字は外れることのない「予言」であり、しかも過去の寸分違わぬ「記録」である(人の運命が輪廻するものなら、これらの要素は二つながら同時に存在することにもなり、確かに手帳はフィアの言うように「現在でないもの」と表わされるのが適切らしいことになる)。つまり手帳は、文字が文字たるために受けねばならない制限を踏み越えてしまった文字によって書かれているのである。
筆者はここに感銘せざるを得ない。人間は言葉を発明することでここまでの発展を見た。その発明の過程には、どこかで自分と他人が本当に理解し合うというのがどうやら難しいようであること、そして言葉というものがその理解への道をある意味で決定的に閉ざしてしまう可能性への了解があったはずである。そうまでして達成した文字の意義が壊れるとき、人は生きていけるのか? ――このフィアの話はそのとき、筆者に「現在を見ることで可能だ」という一つの答えを提示しているように思われてならない。集約は生存を無下にしての発展を、拡散は発展を引き換えにしての生存を生む。全ての生きる意志はそのようにして続いてきたのであり、これからも続いて行くのである。