08
ハチ

- a POCKET TORCH-


 ハチを含めた彼らがそれまでいたのは、インの談話室程度の広さの暗い部屋だった。灯りは一つもなく、話し相手の顔さえ見えないような闇の中だったが、彼らはそこで随分と長いあいだ暮らしていたので、身じろぎや幽かな音からお互いの機微を自然に感じ取ることができた。

物心ついたその時からそこに住み、慣れによって隈なく補完された気ままな生活を送っていた彼らは、灯りの無い自分たちの生活に違和感を持つことがなかった。それに「光」というものを知らない訳ではない、時々だがそれを見ることもあった――もっともそれは彼らに、余り良い気のしない、得体の知れない目に痛いものという印象を与えるのだったが。

彼らの部屋には、幾つかのドアが付いている。先ほどのように彼らの部屋を談話室に喩えるならば、さながらそこからそれぞれの個室へ行くことが出来るかのようだ。その部屋もいつもは暗闇に閉ざされているが、時たまその暗がりから、鋭く細い光が一筋射すことがある。

それは突然にして無差別に、ハチたちの目を射抜く。ドアを閉めても、長方形の輪郭にむしろ広がってやかましく輝く。それほど強い光が向こうから差しているらしい。彼らはそれを感じる度に、刺すような目の痛みを疎ましく思いながら声を上げる。

「まただ、ちくしょう!」言いながら瞑った目をおそるおそる開けると、光は消えている。それでも暫くの間は瞬きする度に、網膜に焼き付いてチカチカと明滅する。それはまるで、どこかへ誘い掛けるかのように――彼らはそれが気になりつつも、一向にそれを確かめに個室へ入って行く決心が付かないでいる。

いや、入ってみたこともあるにはある。しかし中はどうやら途轍もなく広いらしく、その全貌はまったく窺い知れない。初めて足を踏み入れたとき、彼らは自分たちの間にあった世界への理解というようなものが著しく歪むのを感じたものだった。肌身に受ける「広さ」の感覚が尋常でなく、空間に圧し潰されるかのような心細さに身体の縮む思いがする。壁伝いに何時間と歩いても、一隅にさえ辿り着かないその個室では、彼らが頼りにしていた一切――彼らの間に、無言と無明の裡にやり取りされていた或る波動――の一切が通用しなかった。

 

 そんなにも恐れていた個室と不気味な光をどうして今いちど、それも一人で点検してみようと思ったのか、ハチには上手く説明することが出来ない。とにかく彼は、あの光が呼んでいるのは我々ではなくなのだということを悟るに至った。あの部屋には今の段階としては、個人の手による探索が必要なのだと。

あの部屋へ一人で入ってみようと思う。ハチが打ち明けると、他の者は口々にとんでもないことだと喚いた。おいおい、我々がみんな入って行ったって恐ろしい感じがするのに、おまえ一人でどうにかなるものかよ。寂しさで気が狂ってしまうかも知れないぜ。あれはただのああいうことなんだよ、それでいいじゃないか。

とにかくも僕に分かることはと、なおも続こうとする説得を遮ってハチは断言した。

まずは一人が、独りで入ってみることなんだ。

 

 ドアの前にハチが立つと、途端に例の灯りが点った。彼はその目映さに思わず瞬きしてしまうが、光はその後も変わらずに続いている。やはり何かが分かるのだ、とハチは思う。腹をくくって中へと踏み込む。

ドアが閉まる。音が途切れた。自分と光を残して忽然と全てが消え、ハチはまるで閻魔の前にでも立たされたような気分になる。ひどく厄介なものに手を出してしまった、とても余計なことを始めてしまったという思いが、早くも彼を呑み込んでどろりと融かそうとした。

 光は憮然と輝いて、彼の目に嫌がらせを続けていた。闇の中に一点だけを示して、まずはここだ、ここまで来い、と呼び掛けている。ハチは恐る恐る歩いていき、あるいはとても熱いのではないかと心配しながらそれに手を伸ばした。

どうやら取っ手がある。そこを掴んで持ち上げ、ハチは左右に少し揺らしてみた。と、光はやにわに直線状に放射され、無限の闇を整然と二つに切り分けた。それは懐中電灯だった……ハチにとって初めて見ることになるその光の、なんと迅速なことだろう、なんと遠くまで届くことだろう! それまで何もなかった暗い部屋、なにかが「在る」ということと「無い」ということさえ定かでなかった世界に、今では明確な境界が置かれて、その部屋の中になにかのあることを能く感じさせるのだ。部分だけ浮かび上がっているそれに、ハチはゆっくりと手を触れて感じてみた。また耳をそばだてて聴いてもみた。鼻を効かせば香りがするし、舐めれば味もするようだ。

それはなんなのか?――なにか、である。筆者には説明する義理も、また出来るべくもないものだ。また、別になんだっていいのだとも言える。あなたの知らないこと、あるいは分かっていても解っていない何かしらが、この部屋ではとある――あるいはあらゆる――アプローチから理解可能なのだと考えてもらえばいいだろう。

光は手の動きに合わせて部屋を駆け巡った。不思議なことには、それで照らされた部分は細い道筋となってその正体を持ち続けるのだった。さながら光の練り込まれた筆で線を描くように、それで或る真実というものをスケッチしているかのように、光はその軌跡に残って「なにか」の輪郭を示し続ける。道は折り重なって太さを増し、部屋の全貌を着実に明かしていく。この一連のことが、何よりも確かに予感させるのである――或る到達、或る巨大な判明!

 一体何だというのだろう? 言うに言われぬ感情がハチの手を震わせて、光の動きをやや乱した。いま姿を現しつつあるこれは何なのだろう、それがそこに在るというのはどういうことだろう、それを見つける自分がここに居るということ、そういった或る事の或る者による発見がこの世に有ること、その意味は――例えそんなものが無いとしても光景は――一体何なのだろう!

 しかしハチは、その手の震えにはそういった期待と、それから懼れの如きものも含まれているのだと気付く。果てしなさが希望と共に持ち合わせる性質としての懼れだけではない、実際問題としての距離への惧れである。確実に理解に至る道が縦しんば目の前にあるとしても、果たして終点に辿り着くまでどれだけ掛かるものかは分からないのだ。ひょっとしたらこれは、誰しもに向かって仕掛けられる類の一つの罠かも知れないではないか?

真実は――そして私たちをして「手に入れたい」と思わせるような全てのことは――往々にして真であり、同時に偽りでもある。その境はただ、生きている内にそこへ着けるかどうかということのみである。生きてその手に結実を掴めない者はもれなく狂信者、夢想家、盲従人と呼ばれて死んでいく、例え彼の向いていた先に、確かに真実を得たらしい先達が居たとしてもだ――一部の宗教がそうであるように、轍の付いた道とは本来そういう、歩く者に自らの力で到達することをすっかり差し出させ、その引き換えに安心を与える役割を持っている。

 詰まる所を平たく述べよう。そこに確かに何かがあるのだが、懐中電灯の明かりは細くて頼りなく、部屋は恐ろしく広いのである。生きている間に全てを照らしてしまうことが自分に出来るのか? ここに何かしらが在る、この部屋の懐中電灯を使えばそれを知ることが出来る、それだけを携えてもう部屋へ引き返しても良いのではないか? ……あまり平たくならなかったが、そういう懼れもハチは感じたのである。部屋に入った時にハチが感じた「余計なことをしてしまった」という思い、それが捲土重来、思わぬ方向から帰って来たのだ。

 こうなると打つ手は二つに一つである。何時まで続くとも解らない或る真実の探索に腹を決めて打ち込むか、知識としての有る真実を回想し続けるか。前者には寡黙と自己からの対象への関心が、後者には饒舌と他者からの対照による感心がついて回るだろう。

ハチは評判に関心のない方だった――否、自己顕示欲に乏しいというよりは、真実の探索を取るが当然であると考えるに足る、あの賢明な洞察にして愚かな盲目でもある資質を持っていたと言うべきであろう。それは嗜好の問題だろうかと筆者は考える。たとえ引き返すのが勿体ないことであるにせよ、それは生き物の有限であることから来る、許されるべき怠慢と呼ばれても良いはずなのではあるまいか。

とまれ、彼は部屋に留まることを選び、いよいよ「余計なこと」に打ち込んだのであった。

 

 包括と記憶――知識はそれを経て得られるものだと言われるが、実際には誰もが何もかもを「識って」はいるものである。全ての理解はそれが「在る」ことが意識されたとき、ある面で既に終わっている。

それは写真で言えば、現像が終わっているかどうかということであろう。現像液に浸すと画が浮かび上がり、停止液でそれは固定され、定着液でやっと人に見せられるようになる。しかし実際、写真は感光の時点で出来上がっているとも言えるのだ。もちろん「写真は見る物」だという考えからすれば完成していないのだろうが、この世の一部を写真に撮ることに成功したとして、それを見る我々の部屋が本当に明るいのだと断言することは、どだい可能なのだろうか――?

 

 ハチが部屋から出てくると、談話室には仲間たちのうち一人しか居ない。

彼はソファから、やあ、とハチに挨拶をする。

ついに帰ったね。

「ああ。みんなは……?」

部屋へそれぞれ入って行ったよ。長らく出てこない。

「君は入らないのかい?」

うん。僕は……分かってもらえるかどうか分からないんだが、少なくとも今は――要らないと思うんだ。

「ああ」

君はやはり、部屋でなにかを見たのだろうね?

「ああ」

見せてくれるかい。

「いいとも」

 ハチは応え、懐中電灯を消す。そして全てを一瞬の裡に伝えるあの懐かしい沈黙、その中にだけある会話の始まりを待つ。


モドル