02
アル
- an OVERCOAT -
アルは自邸のドアを勢い良く開け、その後を追い掛けてきた妻を振り返って何事かを怒鳴ると、グウィンハード26番通りを西に向かって猛然と歩き始めた。外套の右袖には二月の夜の街の冷たい寒気、左袖には暖炉にくべられた薪の発した仄かな芳香を伴う暖気が、それぞれ振り落とされまいと必死にしがみ付いていた。本作の属する『人物譚』というシリーズの性格上、主人公はアルという事にはなるが、この話に関して言えばこの暖気と寒気にこそ気を留めて読み進めてもらいたい。本作のタイトルは実は『アル ~暖気と寒気の戦記~』である。
アルが帰宅し、妻と間男のもんどりうっては奇声を上げる様を目撃したとき、その茶色のコートはまだ半分しか脱がれていなかった。その時コートの中における主こそは寒気であり、侵入者こそは暖気であった。相対する二つは生者と死者のように、いつでもお互いをお互いへと変容させる可能性を秘め、隙あらば相手を自分の陣営に取り込まんとじりじりして睨み合っていた。
行き先も確認せず乗り込んだ周回バスの二階席で、アルは妻のことを考えている。着られている今、コートの中で寒気は成す術も無くその領域を狭めていたが、今後の見通しを考えると暖気としてもこの状況を必ずしも楽観できなかった。彼はパブで一杯引っ掛けてきたばかりで、それで少しばかり上気してはいるものの、懐の持ち合わせは必ずしも多くないのである。彼には他に泊まる場所のあてがなく、バスを降りた後は家に向かって道を引き返すか、どこか無理やりにでも宿を求めてさまようしかないと思われた。前者の帰結はたっぷり薪の盛られた明るい暖炉の傍らを、後者の顛末は錆びたベッドの横たわる暗いレンガの窓際を想像させた。
この行く当てのない男はひとまず、差し当たっての判断を状況に任せることにした。彼はやや窓を開け、肘掛を支点にして頬杖をつき、スコッチの酔いが醒めていくのを黙って待った。その頭に曲がりなりにも冷静な思考が戻り、例えばどこかその顔に見覚えのあるように思われたあの間男の名前を思い出せたとき、自分が怒りに任せて家の近くでバスを降りることになるか、それとも虚しさに包まれて家から更に遠く離れたいと思うことになるかは知れなかった。どうなるにせよ、目の前に具体的な魅力を持った行動の示される時には、それに素直に従おうと思った。窓からの風は彼の疑問と恐れに対し、それはね、というのに似た音響を伴って吹きつけながら、徐々に彼の頭を、そして体を冷やし、コートの中の暖気の攻勢に俄かに暗い影を落としていった。
暖気にとっては忍耐の刻であった。酔いを醒ます男は襟元を閉じることをしなかった。寒気はそこから吹き込む追い風に乗って揚々と進軍した。首から胸へ、脇から肘へと前線は移り、勝敗はまもなく決するかに思われた。しかし外套戦線の決着に辛くも先立って、アルの頭の中を冷静さが占めた。大きな鼻や尖った顎といった特徴は、彼が数日前に妻と共に訪れた市場の魚売りの顔面の中に認められ、その威勢の良い掛け声は確かな固有名詞を間男に与えた。名前はかの間男にまつわる様々な情報を矢継ぎ早に取り上げ、少し前から魚屋が我が家のある一帯にだけ配達サービスを始めたと聞いたときのアルの疑問を氷解させた。液体となった疑問はさらに沸騰し蒸気と化し、彼の脳漿をぐつぐつと煮え返らせた。熱く滾った血が行き渡り、暖気の勢は一気呵成に戦局を盛り返した。
そのときバスは、家からだいぶ離れた所にいた。怒りに震える男は財布の中身を確認し、五つ先の停留所でバスを降りようと算段をつけた。二月の街は、南に開けた市街部を馬蹄形の森が三方囲んだような形をしている。半円形の運路を辿るバスは今しも円周の頂点を過ぎ、下端の直線の真ん中ほどに位置する彼の家へ向かって些か急な曲線を描きつつあった。
曲線が直線と接し、グウィンハード26番通りにバスが乗り入れたとき、対向車線をすれ違うものがあった。助手席に大きなスコップを、運転席にかの憎き間男を乗せたその赤い車は、取りも直さずアルのものであった。本来の所有者たる男は慌てて座席を立ち、降り口へと駆けたが、彼が冷え込む道路へと飛び降りたとき、すでに車は交差点を右に曲がり、バスの通った道を逆周りに進んで森の方へと像をぼやけさせつつあった。
舌打ちをし、とにかくも家へと向かって歩きながら、置き去りにされた男は間男がどこへ行ったのかを考える。車に乗っていなかった妻は一体どこに行ったのだろうと思いかけて、いや、一体どうしたのだろう、というやや漠然とした疑問へとこれをすり替えた。もしも家に帰ったとき、妻がそこに居なければ、その事はどう捉えるべきであろうか。きっと自分を探しに外へ出ているのだというような想像は、あの間男が車を使っているという現実のために成り立たなくなるように思われた。
彼の車の使用が、妻に承諾されての事なのかどうか。それはアルの今後の展開に大きな幅を生む疑問だった。帰宅する男は、その如何が彼の手に委ねられないものである事に圧迫を感じた。家に帰り着いた後の自分の幸福も、転落も、全ては妻の、間男の、あるいはその両者の了解によってのみ動き出すのだ。それが腹立たしかった。自身の夫婦関係においてどころか、もっと大きな――しかし運命より少しく卑小で作為的な――何かにあってさえも、いま彼の意のままになる事は何もないような気がした。吹く風が彼の体温と、昂ぶっていた気持ちを波のように浚って行きつつあった。
アルは妻を愛していた。妻という個人そのものも愛していたし、そういう女を選ぶ事になった自分の人生をも愛していた。男は妻を愛していたが為に、これに自分の生き方への思い入れをそのまま被せてみせる決心があった。それは本来から、必ず夫婦が等しく互いの期待を理解し合っている事を条件にしたが、夫は畢竟そこまで考えが及んでいなかった。小説の傍点部分を単語のままの意味で受け取って読み流してしまうように、彼は一般的な結婚生活の失敗談に見る「性格の不一致」や「異性関係」、あるいは「異常性格」といったような言葉を反芻してみる事をしなかった。これらの単語は、離婚者の各々が歩んできた数十年のうちに、自身の経歴や性格、配偶者の第一印象と生活の中で生まれた実感とのズレなどが複雑に絡み合って出来た結び目の形を大まかに分類したものであるに過ぎないのだが、彼は、いや、俺たちなら、という信頼の蜃気楼に対して一度も目を擦っては見なかったのである。
そしてこの状況にあっても、アルは気付かなかった。彼は自分の苛立ちを、間男よりは妻へと帰し始めていた。言葉の曖昧さを人間への不信と短絡させた者達が辿る道に鳴り物入りで乗り上げたこの男は、まるで断頭台へ昇るような足取りで紋切り型の離婚へ向かってまっすぐに歩いて行った。深まる夜に霧が降りてきた。冷や汗とも脂汗とも付かないものが彼の額から顎へと流れ、外套の中へと次々に滑り落ちて行った。
靄の向こうから現れた断頭台の上端に、ギロチンの刃は輝いていた。いちおう部屋の中に人がいるらしい事が分かったとき、しかしアルは疑いを大事に抱えたままだった。この明かりを求めて方々から飛来した白蟻の群が、柱や壁へぐいぐい食い込んでいく様が浮かんで仕方がなかった。それはこの家をどれほど侵食しているかと考えるとぞっとしなかった。車の停めてあった場所が、やはり空になっているのも見えた。
それでも彼は勇気を振り絞り、一歩一歩と家へ向かって進んで行った。家の中から漏れる灯を、とにかくも掴み取ってみる事だと思った。その火が白蟻を焼き払うのに役立てるものか、あるいは自分の手に消えない傷を施すだけのものなのかは、どのみち、知る由もないのだ――そう割り切ってしまうと、滾る心を覆っていた油膜が弾け飛ぶようにして消えるのを感じた。近づきつつある火は冷や汗を乾かせ、アルは弱まっていた自身の熱を再び発散させながらドアノブへと手を掛け、それを捻り、中へと踏み込んだ。
暖炉の前に据えられたソファに座っていた妻は、びくりと硬直し、恐る恐るというようにアルを見た。帰宅した男はまず部屋のあちこちを見回したいのをぐっと堪えて、その目をじっと見つめ返した。妻はそれに数秒だけ応えると、何事か相談するように薪の爆ぜる暖炉へと目をやって、そのまま動かなかった。
部屋へと上がり、そこに他に誰もいないのを確かめながら近づいて来たアルに、どうしてなの、と妻は呟いた。問われた男がその意味を量りかねていると、彼女は見つめていた暖炉から写し取ったような火を瞳に盛らせて彼を睨んだ。
あの男に私が襲われているのを、どうして助けてくれなかったの。
その言葉は雷のように彼を貫いた。体の芯を射抜く冷気とどす黒い雲とが連れ立って去来し、頭の中は飛沫と轟音で真っ白に埋め尽くされた。全ては余りに早く押し寄せ、彼の思考に逃げ出す隙を与えないまま取り囲み、飲み込んで、激しい流れの中へと流し去ってしまった。流れは妻が自分を見捨てていたのではなかったのだという安心の気持や、実は自分こそが妻を見損なっていたのだという後悔の念、それから間男への改まった憎悪の感情といった幾つもの心境がない交ぜになっているせいでひどく濁っていた。そこにはこの唐突な展開に対する疑念も含まれていないではなかったが、それはいかにも小さな粒子にしか過ぎなかったし、またアルが心底で願っていたような事と通じる所があったので、本人よりもずっと早く下流へ向かって飛ばされていってしまった。それならどうして、あの時すぐに助けを請わなかったのか――。
ひとまず彼女に怪我がなかった事への喜びと、そうと知らずに助けてやれなかった事への懺悔を支離滅裂な口調で二、三言ぶつぶつと漏らすと、もはや立派な道化師たるこの男はソファへ倒れ掛かって、頭を抱えながら部屋中へ嗚咽をぶちまけた。外套はしとどに涙で濡れ、暖炉の傍にあっていつまでも乾かないように思われた。
妻はそうしたアルを冷たく見据えていたが、通りの方から車の音を聞き取ると、さっと顔を強張らせてそちらへ目配せをした。
斧を持った間男が、その先で小さく頷いた。
外套の中での戦いには突如として終止符が打たれた。戦局は最後に目まぐるしい回転を見せた。
その生ぬるい液体が外套を覆った時、冷気は悲鳴を上げ、暖気は快哉を叫んだが、その戦いの終わりはただ双方にとって惨たらしいものとなった。戦いで流れた血は結局のところ暖気のものでもあり、冷気のものでもあったのだ。
彼らの戦場は、びりびりと音を立てて真っ二つに裂けた。双方が驚いているうちに、片方は暖炉に放り込まれて完全なる暖気の領地になった。もう片方はその主の肩口に執念深くぶら下がったまま二月の街へと今いちど担ぎ出され、しばらく車に揺られたのち、北の森の土の中へと深く埋められて冷気の統べる所となった。
筆者としては、この興味深い戦いが取るに足らない殺人の陰に簡単に隠れてしまう事が不満でならない。しかし見方を変えれば、彼らの戦場は広がったのだとも言える。つまらない男の下らない事情に湿った外套の裏地から抜け出し、あらゆる熱源とその周縁へと飛んで、戦いは次の段階へ移行したのだ。これをそういう話にしようと思えば、できないこともない。