きみはだれかとほしをみた。
とおいとおい、むかしのことだ。
「ああ」
それはことばにもならない「きれいだね」だった。
それはことばにもならない「ほんとだね」だった。
それは星であり、海だった。
青空であり、湖でもあった。
ことばにもならない花が咲き、
ことばにもならない鳥が鳴き、
ことばにもならない風が吹き、
ことばにもならない月が輝き、
すべてがまだ、ことばでなかったころ、
それは時に君であり、時に僕でもあった。
いま、ことばにならないのはなんだろう。
きみは、ほしをみる。
そうとおくない、みらいのことだ。
どこかで、こえがきこえるだろう。
「ああ」
そこには、
ことばにならなくていい
ことばがある。
○ 1 ○
サウサンプトンの港から処女航海に出るその船への乗船が決まったのは、
随分と土壇場での事だった。
乗れればいいなあ、というくらいの軽い気持ちでいたのが良かったのかもしれない。
変に力が入っていなかったからこそ、
港の倉庫で行われていたポーカー大会に参加して、
あっさり勝ち抜く事が出来たのだろう。
参加費がけっこう高く、それがまた3等船室のものとはいえ、
どっちみち行く当てのない旅をする僕には、
手に入れたチケットはとても眩しく、輝いて見えた。
「忘れられない旅になりますよ」
乗り込む時に乗員が笑いながらそう言ったが、
旅を満喫するまでもなく、チケットが手に入った時点で僕は幸運だった。
漠然と夢みていたニューヨークへの旅立ちが、
このように豪華なものになろうとは想像もしなかった。
二等・三等船室客の乗船から一等船室客の乗船までは二時間ほどあったので、
自分の部屋に荷物を置いてから船のあちこちを見て回る事にした。
見れば見るほど、舌を巻いた。
船内に据えられたバーには世界の銘酒がずらりと並び、
その中央のステージには煌びやかなバンド楽器が既に配置されている。
夜になれば優雅にジャズなど奏でて、客の酔いに心地よく拍車を掛ける事だろう。
レストランはテーブルから蝋燭台、
オブジェとして置かれた大きな鏡に至るまで丁寧に磨き込まれ、
もう少しで迎える出番を誇らしげに待ち受けていた。
一等客が乗船してきて、船の中は俄に騒がしくなった。
上流階級の人々の間にはそれなりに面識のある顔ぶれが多いのだろう、
あちこちで会釈と握手と紹介の応酬が繰り広げられ、
僕のような一般庶民たちはすごすごと自室へ退散しなければならなかった。
自分の部屋へ向かう廊下を歩いていると、見知らぬ男に声を掛けられた。
なぜか僕の事を、乗員と勘違いしたらしい。
「すみません、712号室へはどう行けば良いのでしょうか」
「ああ、それならちょうど……」
男の顔を見るなり、僕はあんぐり口を開けて固まってしまった。
黒い上物の背広を着て、品の良いシルクハットを被ったその男は、
ねずみ色の顔をしていた。長く突き出た鼻の側からにょきりと虎髭を伸ばし、
あろう事かズボンの真ん中から節くれ立った尻尾さえ突き出ていた。
とりも直さず、ネズミなのである。
「ご存じないでしょうか」
背の高い二本足のそのネズミは、唖然としている僕に困ったように繰り返した。
ハッと我に返った僕は、自分の頬をつねってみた。
こんな船に乗れるなんて、道理でおかしいと思ったのだ。
しかし幸運なことに(もちろん同時に残念でもあることに)、
つねった頬は確かに痛かった。僕は観念して、男と向き合った。
「ちょうど僕の部屋の隣ですから、一緒に行きましょう」
部屋に向かって歩く途中たくさんの人とすれ違ったが、
誰も男を見て驚きはしなかった。
僕の頭がおかしいのだろうか。皆の頭がおかしいのだろうか。
あるいはこのネズミ、社交界に名が通っているのだろうか。
全く持って訳が分からず、
しかし本人(本鼠、か)の隣で露骨に首を傾げる訳にも行かず、
すごすごと歩いていくうちに、712号室の前へと辿り着いた。
「どうも、有り難うございました」
ネズミは帽子を取って会釈した。
小さな三角の耳が、ぴょこんと動くのが見えた。
何となくお辞儀を返す僕に、お礼にと懐からチョコレートを出して手渡し、
悠々と部屋へ入っていった。
自分の部屋のベッドに腰を下ろして、僕はしばらく呆然としていた。
渡されたチョコレートは食べる気にもなれず、ドレッサーの中にしまい込んだ。
あのネズミはなんなのだ。
立っていた。歩いていた。喋っていた。
小粋なハットを被って、ステッキを提げていた。
どうしてだ。周りの客が全く騒がないのはどういう訳だ。
考えても解る訳がなかった。
隣の部屋にまた会いに行こうかと考えたが、怖くて実行に移す気もしない。
頭を抱える僕を余所に、壁に掛かった時計は出航までの時間を少しずつ削っていった。
「――号はこれより出航致します」
船の名前は、高らかに鳴り渡る汽笛の音で掻き消された。
船はタグボートに曳航されて、ゆっくりと岸を離れた。
埠頭には見送りの人が黒山を作り、
それぞれの見送り人に向かって様々な言葉を投げかけている。
歓声と口笛の中からファンファーレが飛び出し、極彩色の紙吹雪が舞う。
この中に自分を見送ってくれる人がいないのは寂しかったが、
じっと見ている内に何やら自分まで祝福されているように思えてきた。
舞い上がった極彩色の紙吹雪が、船のすぐ近くまで飛んできた。
はらりと海面に落ち、船体の生み出す水流に巻かれて沈んでは浮き上がる。
丸窓からそれを見下ろしていると、上のデッキの方から悲鳴が聞こえた。
顔を上げると、なんと大きな客船がどんどんこちらに迫ってくる。
あわや衝突、というすぐ手前まで迫ったが、なんとかそこで留まった。
この騒ぎで、正午を予定していた出航が一時間ほど延期した。
船が余りに大きいので、生み出す水流に近くの船が巻き込まれてしまったのだという。
耐久性に力を入れて設計され、
不沈船としての前評判が高かったこの船に、こんな落とし穴があろうとは。
客は少し青ざめ、それぞれの部屋に閉じこもってしまった。
一部には青筋を立てて乗員に詰め寄る客もいた。
僕はといえば、人が少ないのを好機とばかりに再度船内へと繰り出す事にした。
バーのマスターと話をし、乗員にニューヨークまでの道のりを尋ねた。
船は出航後イギリス海峡24海里を抜け、
フランス・シェルプール、アイルランド・クイーンズタウンに立ち寄ってから、
数日掛けて大西洋を横断する事になっていた。
途中に氷山などがあるのではないかと訊くと、
4月の大西洋横断にはよくある事だと言って笑った。
しばらくデッキから海を見て、さて部屋に戻ろうとすると、
先ほどの紳士にばったり出くわした。
咄嗟に物陰に隠れようとしたが、あっちが目聡く見つけて声を掛けてきた。
「やあ、先ほどは助かりました。どうも私、方向音痴なもので」
ネズミは髭を撫でながら苦笑した。
ネズミのくせに方向音痴なのか、と口に出しそうになって、僕は慌てて口を閉じる。
「先ほどはびっくりしましたな。危うく衝突する所でしたよ」
小さく笑い、懐からまたチョコレートを出す。
「お食べになりますか?」
「いや、結構です」
「そうですか」
ネズミは三本の指で器用に包み紙を破くと、
カリッと小気味よい音を立ててチョコレートを囓った。
ネズミだから当然と言えば当然だが、前歯が長い。
白く輝いて、固い物でも食べやすそうだ。
「私、色んな船に乗り込んで旅をして参りました」
ネズミは海を眺めながら、赤い瞳を瞬かせた。
「しかし今回、あんなに港に近い所で沈没の危機に見舞われようとはね。
こういう事には鼻の利く私なんですが、全く予測が付きませんでしたよ」
「船の沈没に、鼻が利くのですか」
「ええ。実際、虫の知らせで降りた船が、後に沈没した事が何回もあります」
「……それは、すごいですね」
「生への執着が強いのです」
ネズミは、チョコレートをまた一口囓る。
「生き物みな、根では生を望んでいます。
しかし昨今の世界の動きを拝見しておりますと、
人は生と死の両方をどうも急ぎすぎる。
第2次産業革命に端を発する植民地獲得競争に伴う帝国主義の台頭、
利権を巡る列強間の対立。
世間では時代はベルエポックだなどと楽観的な風潮に載せられて浮かれておりますが、
その陰でイギリスは南アフリカ戦争を、アメリカは米西戦争を起こし、
日本は日清・日露戦争に立て続けに臨んで国土を貪る。
そのせいで困窮した農民や庶民が各地で反乱を起こし、血で血を洗う大混乱。
ゥラービーの反乱、マフディーの反乱、サモリ=トゥーレの対仏抗争――
血の日曜日事件が起こればソヴィエトが武装蜂起でそれに報復し、
義兵闘争は民の自由を求める叫びごと国家権力に押しつぶされる。
それを気に掛けもせず、寧ろ黙認、もとい推奨して、
列強は中国やアフリカの線引きに夢中です。
さながらそう……カマンベールチーズを分けるように」
「はあ」
「私のような者から見れば、今日の人間のそんな営みは不思議でしょうがない。
こんなにも素晴らしい客船を造る技術が、
どうして他人を殺す武器の発明に応用されるのか。
産業革命は人類に結局何をもたらしたのかと、私は考えずにはいられないのです。
この素敵な宇宙船地球号から、
利口なネズミ達はそろそろ姿を消してしまうのではないか。
ノアの方舟が人類以外を乗せてこの星を飛び出し、
母船の方は哀れに空中分解してしまう――
もしそうなれば、余りに哀しいとは思いませんか」
「………」
「いや失敬、難しい事を尋ねてしまいましたな」
僕はどうしたものか困ってしまった。
ネズミのくせに、やたらと人間世界の情勢に詳しいではないか。
文明の利器を我が物顔で利用しておいて、その裏面には辛辣な意見を発する辺り、
性質が悪いと言えない事も無い。
しかしなかなかどうして、哲学的な事を言うものだ。
人間は生と死の両方を急いでいるとは、ちょっとした名言かもしれない。
「もう少し簡素な質問にしましょう。あなたの旅の目的は?」
僕はまた困ってしまった。これもなかなか、僕にとっては痛い質問なのだ。
「特に目的、というほどの物は無いんです」
「傷心を癒す旅ですか」
「どうしてすぐにそうなるんですか」
「いや、そんな顔をしていらしたのでね」
ネズミはさらりとそう言って、船内へと歩き出す。
ドアの所でこちらを振り返ると、ステッキを掛けた腕を揺らして手招きをした。
「立ち話もなんです、バーで飲みながら話しませんか」
カウンターに腰掛けるや、
ネズミは先ほどぼくが話をしたマスターに向かって陽気に呼び掛けた。
「やあ、ブルーノじゃないか」
「スクィークさんですか。お久しぶりですな」
「そうとなれば手間が省ける。私にはいつものを、この方にはトリコワインを頼むよ」
「分かりました」
「……お知り合いなんですか?」
マスターが棚からボトルを出してグラスに注ぐ間に耳打ちすると
(そうするのには、帽子を持ち上げてやらねばならなかった)、
ネズミはええ、そうですと笑って頷いた。
「客船のバーで働く事が多いので、よく同じ船に乗り合わせるんですよ」
マスターがグラスをよこしながら言った。
「スクィークさんは、私のカクテルを良く気に入ってくださる」
「ブルーノはカクテル作りの天才なんだよ」
「いやいや、何をおっしゃいます」
シェイカーをしゃかしゃか振りながら笑うマスターに、
僕は心の中で必死に問いを投げかけた。
この男、ネズミだとは思わないか。尻尾や耳は気にならないか。
カクテルを誉められるとき、胸に複雑なものが渦巻きはしないか。
「私が旅をするのは、生けるものの自由というものを信じたいと思うからでしてね」
ネズミはまた語り始めた。
「あなたは旅を、どういうものと考えるのでしょうか」
「それは……」
これが旅と呼べるものなのか、どうにも見当が付かなかった。
俯いてワインを見つめる僕を見て、ネズミはパイプを取り出して吹かしながら、
ふむ、と何やら合点した。
「旅をするとき、
生き物は帰らなければならないものと帰らなくて良いものに分かれます。
私が思うに、人は前者ですな。帰って来て初めて旅になる、という言葉もあります。
あなたは差詰め、家を飛び出して来たという所でしょうが」
思わずワインを噴き出しそうになった。
「どうして分かるんですか」
「旅をして様々な人に出逢うと、
初対面の相手の背負う事情のある程度も何となく悟れるようになるものです」
「はあ……そういうものですか」
《大変御迷惑をお掛けしました。船は只今より出航致します》
船内に放送が響くと、ネズミはパイプを消して立ち上がった。
「不躾な詮索をしてしまいました。私は部屋に戻るとします」
カウンターに数枚のコインを置いて立ち上がり、ネズミは言った。
「生きているだけで、人は人を幸せにします。
あなたはただ、精一杯に、誇り高く、そして誠実に生き続けていれば良いのです」
そういうものなのだろうか。
デッキに出て海を見つめながら、僕は考えた。
僕は長らく、
家業の洋服店を継ぐ前に旅というものを一度は体験してみたいと思っていた。
そもそも、父さんからの期待をしきりに受けて育つうち、
定まった自分の未来に対して暗い嫌悪感が膨らんでいた。
世の中はこうも決まり切った生き方しか無い訳ではあるまいと、
いつもどこか遠く、心を馳せていたのだ。
旅へのあこがれはすなわち、
自分ではない何者かへ抱くあこがれだったのかもしれない。
洋服店の若旦那という運命から何とは無しに逃れたい、
与えられるまま生きることは、全く自分の為にならないのではないか……。
予定通りにいかない旅というものへの羨望を抑えきれず、
僕は父さんに三年間の放浪の旅に出る許可を申し出た。父さんはそれを却下した。
この三年はお前にとって、洋服屋の主人としての技量を養う大事な時期だと。
二言目には、どうしても旅に出るなら親子の縁を切るとまで言った。
さしもの僕も感情的になり、少ない荷物を手に家を飛び出したのだ。
ただ、こうして豪華客船に乗っている今、気分は良いものとは言えない。
ネズミの言葉が、妙に胸に引っかかる。
ただ、精一杯に、誇り高く、そして誠実に生き続けていれば良い。
僕は父さんを裏切ったのではないか、
そう思ってしまう自分に、誇り高く誠実に生きることなどできるのだろうか。
ただ自由になりたいだけなのに、
どうして父親の望みを壊さなければならなかったのか。
どうしてこの家に生まれたのだろうか――。
僕はこうしていて良いのだろうか。
考えても考えても、気持ちを収める事はできなかった。
生き続けるだけで人を幸せにする?
僕がいなければ、誰か別のもっと良い息子が父さんに生まれていれば、
こんな事は起きなかったんじゃないのか。
海が、穏やかにうねる。誘っているようにも思えた。
「あの……」
後ろから誰かが呼び掛けた。
振り返ると、白くて鍔の広い帽子を被った女性が、僕の顔を心配そうに見上げていた。
「……何か、御用でしょうか」
「用があるというわけではないんですけど……」
女性は困ったような顔をして俯いた。
「何か、思い詰めているような様子でしたので」
僕はここに至って、自分が助けられたのに気づいた。あのまま海に見入っていたら……。
お礼を言おうとしたとき、突然デッキを強い風が吹き抜けた。
彼女の帽子がふわりと浮き上がり、踊るように海へと飛び出した。
僕は思わず跳んで、頭上を通り抜けようとする帽子の端を掴んだ。
弾みで付いていた青いリボンがほどけて、ひらひらと空へ舞う。
蝶かなにかのようだった。
帽子をぶら下げたまま、僕はポカンと口を開けてそれを見上げていた。
空と同じ色をしたリボンは高く高く上がっていって、
青空に溶けるようにして見えなくなった。
くすくすと笑い声が聞こえた。見ると、彼女は僕を見て楽しそうに笑っていた。
「ごめんなさい」
彼女は帽子を受け取り、お辞儀をした。長い髪の毛が前へと垂れ下がる。
きれいな栗色で、日射しを弾いてつやつやと輝いていた。
「すみません、リボンが……」
「いいんです。帽子が戻ったんだから、運が良いのよ」
帽子を被り直して、彼女はまた笑う。
「あなたも元気になったみたいだし」
そのまま僕に背を向けて、彼女は船室へと入っていった。
部屋に戻ったあと僕はドレッサーに向かい、便せんに家への手紙をしたためた。
父さんへの謝罪、自分の意志の確認、今は運良く豪華客船に乗れていること、
不思議なネズミ紳士に会ったこと、そして――。
書き終わったあと、僕はネズミにもらったチョコレートを食べてみた。
とても甘かった。
夜六時半、船はフランスのシェルプール号に停泊した。
「私は船を降りることにしましたよ」
僕の船室を訪ねて、ネズミは言った。何やら、慌てている様子だった。
「あなたはこの船に留まるのですか」
「はい。僕はもう少しここで、自分と自由について考えたいと思います」
「そうですか」ネズミは少し残念そうな顔になった。
「それでは、お元気で」
青年の部屋を出て、ネズミは未練ありげに一度振り向いた。
首を振ってまた歩き出しながら、呟く。
「旅鼠は所詮、いきものですな。旅を愛する事が出来るのは人だけやもしれません。
ごきげんよう若者よ、4月14日の深夜までお幸せに」
歩き出すネズミの背後で、タイタニック号は離岸する。
思う存分 感激して セイルイ共に下したら
さあ 冷静になろうか 涙を拭いて 声を収めて呑み込んで
夜中の水面のように 凪いだ気持ちに戻りたい
いつまでも心泡立たせて そんな自分でいた所で 足は前には出やしないし
昼に泣き出したら 陽が暮れるまで
夜に泣き出したら 日が昇るまで
それをセイルイの タイムリミットにしよう
思う存分 感動して セイルイ共に下したら
もう 平静にしようか 怒りを消して 笑顔も収めて前を見て
宇宙の紫紺のように 張り詰めた気持ちに戻りたい
いつの間にか眼がまどろんだ そんな自分に酔っていたって 騙されたまんまだし
僕に泣き出したら 一人になるまで
君に泣き出したら 一人じゃなくなるまで
それがセイルイの タイムリミットになるだろう
思う存分 感謝して セイルイ共に下したら
ねえ あの場所に行ってみようか 歩き出そうと決めた処へ
すでにセイルイの タイムリミットは来てるんだ
秒針が分針へ 近付いて
月は地球を 追い抜いて行く
僕は君を 置き去りにする
二つはいつも違う速度で
まわる まわる 出会って 抜き去る
君が目の前に現れるのは
きっと歩く速度が違うからなんだろう
出会ったっていうことは そりゃ 別れるっていうことさ
気兼ねなく抜いて行ってよ 僕らにはそれぞれの足があるから
遠慮なく抜かせてもらうよ いつまでも歩幅を合わせることはできないから
だけど地球は
時計は
人の運命は丸いから
ああ またどこかで会うだろうね
60秒が過ぎたら
24時間が経ったら
君はまた地平線の向こうから現れる
二つはいつも違う速度で
まわる まわる 出会って 瞬間 手をつなぐ
蝉が鳴く 風が荒ぶ
雲が湧く 猫が跳ぶ
音が震える 雪が吸う 雨が打つ 夜が来る
魚が泳ぐ 夏が逝く 犬が吠える
人が歩く
波が寄せる 金が呼ぶ 冬が敷く
日が沈む 花が咲く 色が浮く 眼が射る 時が移る
壁が立つ 山が聳える 鐘が泣く
街が走る 虫が食む
胸が疼く 草が戦ぐ 春が吹く 滝が削る 影が顕す 扉が開く 唄が舞う
光が射す 橋が張る 穴が空く 火が焼く
槍が降る 夢が香る
月が昇る 土が変わる 秋が富む
光が隠す 虹が貫く 嘘が閲する
どうしたってあそこに浮いている真如の月
君は君であると照らし
僕は僕であると照らす真如の月
生ける者は死すと告げ
形ある物は滅すと告げる真如の月
なんて疎ましい真如の月
変えたくても変えられない真如の月
逃げたくても逃げられない真如の月
それに照らされれば自分でいられる
それに照らされる限り他人とまみえる
それに照らされれば存在できる
それに照らされる限りいつかは消える
邂逅を確執と共に与える真如の月
存在を消滅と引き替える真如の月
その輝きを疎ましく思われながらも
飽くこと無しに人を導く真如の月
だれか だれか だれか
ぼくに トランキライザーをください
このしがらみと 軋轢と 確執から
逃れる術を 与えて下さい
包丁ですか 包丁でやると 楽ですか
いいえ それでは真の安定は望めません
ぼくは誰も傷つけずにいたいのです
ロープですか ロープで吊ると 楽ですか
いいえ それでは何も解決を見ません
ぼくは長く生き続けていたいのです
悟りですか その声を聞けば 楽ですか
いいえ それではどうにもなりません
ぼくは彼らと関わり続けていたいのです
お医者さん ぼくに打つ手はありませんか
包丁もロープも悟りも使わずに
だけど揉め事を起こす事なく
彼らと生き続けたいと願うぼくは
果たして重症なのですか
柵の上に佇むあいつ
その名も高き優柔不断
どちらに降りることもなく
じっとこちらを見てるのさ
こちらはBBQ、あちらは花見
お前はどちらに行くんだい
こちらは東軍あちらは西軍
お前はどちらにつくんだい
こちらは安穏あちらは混沌
お前はどちらを好むんだい
とにかくどちらかに降りてくれ
みんなが一度は見てみたい
お前がどちらか選ぶとき
東か西か右か左か
正義か悪か有か無か
だれもが一度は見てみたい
誰かに叩かれ、守らるお前
だれもが誰かの味方になりたい
だれもが誰かを敵にしたい
さてさて、柵の上のお前はどっちにつくのだ?
あの日、あの夜、あの瞬間
潮騒さざめく埠頭の先端
お前は何か呟いた
パンに群がるカモメに夢中で
俺は話を聞いてなかった
声が途切れて潮風が吹いた
二度とお前の声は聞こえなかった
振り向いたら誰もいなかった
俺はカモメにパンを投げ続けた
投げて投げて投げて投げて投げて
投げて投げて投げて投げて投げて
パンが尽きたら身を投げた
鳥は自由でいいねと
鳥はそんなに自由じゃないと
鳥はそれでも空を飛べると
鳥はいつでも落ちる運命にあると
鳥は雲と友達なのだと
鳥は太陽に近づけないのだと
鳥は実に楽しそうだと
鳥は実は哀しいのだと
夏の輝く蒼天の下
あくまで平行線を辿りながら
見上げた雲はひときわ白く
見つめた鳥はひときわ高く
自転車と文庫本
青いTシャツと白いワンピースのあの頃は
結局は鳥よりずっと自由で
本当に何も知らなかった
果てなく続く戦いの最中
人々は確かにその歌声を聞いたという
それは最初は誇らしく高らかで
美しく朗らかだった
しかし人々は戦いを続け
歌声はその度に大きくなり
少しずつ煩くなり
耳を塞ぐほどになり
挙げ句ただの騒音になり
仕舞いに近所迷惑になり
ついに民事訴訟に発展し
果ては高等裁判所へと持ち込まれ
歌い手は多額の損害賠償の支払いを命じられて
人々は戦いを再開した
歌い手は大いに反省し歌声は止んだが
人々は戦いながら時々その唄を口むようになった
この部分の歌詞はどうだったかと戦いながら相手に尋ね
この高音が上手く出せないのだと戦いながら相手に打ち明け
人々はやがて戦いを止め互いを労い共に歌った
その様子を見たテノール歌手は新曲を出したが
今度こそ条例に違反して刑事訴訟を受けた
そのテノールは争いと
テノール歌手に終わりを告げて
今日もどこかで歌い継がれる
誇らしく高らかに
美しく朗らかに
そして徐々に喧しく
雑多に賑わう市で買い求めたときには
何に使うのか見当も付かなかった
ガーネットのカンテラ
窓からお気に入りのイヤリングが落ちた時
今が機会と考えた
落ち葉舞う秋の夜
小道の溝を照らして歩く
きらりと光ったイヤリング
その少し上に輝く丸い瞳
白い猫はイヤリングをくわえて走る
追い掛けて
追い掛けて
追い掛けていくうちに
ガーネットのカンテラは猫の背中だけでない
様々なものを照らし出した
忘れかけていたもの
見たこともないもの
とても懐かしいもの
何ともない様なもの
次々に浮かび上がるそれらの本当の意味が
次々に頭の中に飛び込んできた
ああ、と思って、走りながら泣きそうになった
浮かんだ涙に視界がぼやけて
滲む光に呑まれた私はぐるぐると回りながら流れていった
目が覚めるとイヤリングは手の中に握られていた
白い猫は窓際から屋根の上に飛び降りていった
ガーネットのカンテラは小道に落ちて粉々になっていた
私はそれらの破片を拾い集めて
庭に掘った穴に埋めた
ありがとう ガーネットのカンテラ
今からするのは嘘のようで本当の話
という体の嘘なのです
そういう前置きで彼が語った物語は
なるほど嘘のような話だった
しかしそれは
嘘というには勿体ない話だった
なんとかすれば本当の話にできそうだった
嘘のようで本当の
という結局のところの嘘は
なぜかどんな本当よりも真実味があった
話を終えた彼が帰ったあと
僕たちは相談してその嘘を本当にすることにした
ややして彼がまたやってきた
本当になった嘘を誇らしく思いながら見せてやったら
彼はずいぶんとつまらなそうな顔をして
「嘘だから面白いのに」と言った
僕たちは大いにしまったという気分になって
彼が帰ったあとにその本当を嘘に戻した
嘘にもどった本当は
きもちよさそうに僕たちの頭の中を泳いだ
僕たちは物事が
本当なのか嘘なのかなんて
実にどうでも良い事に思えてきて
彼の言った事の意味が
とても良く分かったような気がした
嘘のような本当の話
そういう体の嘘でした
準備なら出来ております
心の方も固まっております
遺書の清書は済んでおります
首には麻紐が掛かっております
手首には剃刀が当たっております
練炭は順調に黒煙を上げております
後ろには介錯の人影が立っております
しかし心から死のうとすればするほどに
潔く死ぬ為の準備を整えれば整えるほどに
死
という一文字からはどんどんとかけ離れていくのでございます
あの言葉に辿り着くためには
いよいよ心の中を空にして
もっともっと言葉短かに
更に更に執着を捨てて
益々多くを見聞きし
物質的なことより
どこか安らかで
別段自覚無く
覚悟も無い
別の何か
例えば
そう
生
ああ、ここを
ひとりで歩いた事がある
幼い頃に
帽子を被っていた
自転車をどこかに置いてきた
夕暮れのこの道を
見馴れぬ黄昏を
わたしはひとりで歩いた事があった
不思議と収まりが良く
漠然と途方に暮れていた
誰かが迎えに来たのか
自力で人里に辿り着いたのか
それは忘れた
思い出す事もあるまい
前を行くおまえが振り返るとき
この話をしてやろうと思う
只、唯の今
わたしは思い出したのである
いつだったか
ここをひとりで歩いた事があった
ビルドン通りに夕煙が棚引く
仕事を終えた人々が集まり
酒を酌み交わして一日を終える
月曜日のビルドン通りはカレンの話で持ちきり
遂に子供が産まれたんだってね
俺は昔彼女の事が好きだったんだと
ジョーイが溜め息混じりに呟いた
火曜日のビルドン通りはマイクの話で持ちきり
奥さんが帰ってきたんだってね
あんなに殴った夫をよく許せるねと
サラが大きく首を振りつつ呟いた
水曜日のビルドン通りはビリーの話で持ちきり
日本でえらい人気なんだってね
あれだけ動きゃあ痩せるだろうよと
ボブが小馬鹿にしたように呟いた
木曜日のビルドン通りはテリーの話で持ちきり
来週にこの村を出るんだってね
やるだけやって諦めればいいんだと
パーシーが優しい目をして呟いた
金曜日のビルドン通りはダニーの話で持ちきり
もう仕事を引退するんだってね
俺達に道を開けてくれたんだなと
ルッソが食事の手を止め呟いた
土曜日のビルドン通りはクレアの話で持ちきり
朝方天へと召されたんだってね
あの人にはみんな世話になったと
チャーリーが懐かしげに呟いた
日曜日のビルドン通りは人影も無し
みんな向こうの家に集まってるよ
クレアの家から立ちのぼる夕煙が
陽気な歌声に送られて
どこまでもどこまでも
どこまでもどこまでも
そしてまた
ビルドン通りに夕煙が棚引く
仕事を終えた人々が集まり
酒を酌み交わして一日を終える
親不孝を嘆く父に
身を案じ泣く母に
優しく見送る兄に
唄で祝福する妹に
餞別を手渡す友に
全く同じ言葉を残して
彼は旅立っていった
自分に向けられる全ての感情に
全く同じ言葉を返して
彼はここから発っていった
それは見事な決別で
そして永遠の別れだった
戻る気は微塵もなく
進む事だけが頭にあり
およそ全ての過去を捨て
彼はただ歩く事を選んだ
アレ どこ行ったっけかな
ほら アレだよ
いつかおまえにもらった物があったろ
どこ行っちまったんだろうなあ あのアレ
アレ どこ行ったっけかな
なあ アレだよ
もう一度じっくり見てみたいんだ
どっかに挟まってんのかなあ あのアレ
すごくおいしい料理だとかさ
すごくきれいな夕陽だとかさ
すごくかわいい子供だとかさ
おまえは本当に色んな物をくれたんだけどさ
ハンカチ落としみたいに
おまえはいちばんすごい物を
教えず置いて行っただろう
アレ どこ行ったっけかな
ほら アレだよ
おまえ 笑って見てるんだろう
どこに置いたか教えてくれよ
アレなんて言ってる俺は
なにをもらったのかも分からないんだよ
これは本当にうれしかったよ
それから本当にすまなかったな
なんだよ
見つけたかって聞くのかよ
ああ 今見つけたよ
ああ ありがとな
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白い風景画
「どうしても描きたい風景画があるんです」
男はそう言って、真っ白なキャンバスを取り出した。
「どんな風景でしょうか」
尋ねると男は目線を空に浮かべ、思い出すように言葉で描写した。
それはあるはずのない風景だった。
その場所で、彼は魚だったのだという。
獣にもなり、虫にもなり、鳥にもなって、彼はどこかを漂っていた。
記憶はなかった。それは記憶として残るしかない体験だった。
温かく、柔らかく、広々とした所で、彼は様々に形を変えながら眠っていた。
それを、何かとてつもなく大きな何かが、優しく見守っていたのだという。
「残念ながら、そんな所はないかと思われます」と私は応答した。
「いえ、あるんです」と男は頑なだった。「どこかで見たのを、覚えているんです」
男は会釈し、キャンバスをリュックサックにしまうと、道を遠くへと歩いていった。
私は理解ができなかった。思考すれど思考すれど、明確な結論は出なかった。
そのうち主人に呼ばれる声がして、私は向きを変えた。
あの男は頭が狂っていたのかもしれない。危険だ。セキュリティ機能をグレードアップしなくては。
そんなふうに考えながら、私はアームを稼働させ、主人の肩にガウンを掛けた。
7:00 起床
7:30 朝食
8:00 出立
8:02 獣を殴る
8:45 出社
9:00 会議
12:00 昼食
13:00 企画書作成
17:00 残業
17:02 獣を殴る
17:14 獣を殴る
17:38 獣を殴る
17:55 痛手を負う
18:00 退社
18:01 獣を殴る
18:32 獣を殴る
18:35 獣を殴る
18:36 レベルアップ
18:45 帰宅
18:45 獣を殴る
19:00 お風呂に入る
19:30 夕食を喰う
19:34 獣を殴る
20:00 子供を寝かす
21:00 テレビを見る
22:00 獣を食べる
23:00 就寝
26:00 起き出す
26:00 獣を殴る
26:00 獣を殴る
26:01 獣を殴る
26:01 獣を殴る
26:01 獣を殴る
26:01 獣を殴る
26:01 獣を殴る
26:02 獣を埋める
26:30 就寝
27:00 夢を見る
to be continued…..