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#2 わらの犬(1971)


数学者デイヴィッド・サムナーは、論文の執筆に集中するため、妻の故郷であるスコットランドの片田舎へ移住してきた。

しかし現地住民はアメリカ人であるデイヴィッドを蔑み、美貌の妻エイミーに卑猥な視線を投げ掛ける。

家の整備もままならず、エイミーの飼い猫がいたずらで縊り殺されるなど、夫婦は次第にフラストレーションを募らせていく。

そしてあるとき、村の白痴ヘンリーをめぐって起こった事件によって、デイヴィッドの中でなにかが弾ける。

監督サム・ペキンパー、主演ダスティン・ホフマン。


「ここは僕の家だ」



 西部劇映画と『わらの犬』

       はい、とあ文映画会第2回でございます。

       2回だよ! ぼくらの企画がこんなに続くの珍しくない?

       まあ今のところ暇人2人ですからね。ここから人数増やしていかないと。

        あとは他の人が企画回し出したりしてくれるとありがたいですね。

       ぼくらだけだと偏りひどいからね(笑)

       そうですよ。ぐんぐん偏っていくから、もう一つぐらい柱がほしい。

     という訳でですね、今回は4月26日に起動しましたOS会の公式で、

     本映画会への参加者を大々的に募っております!

       おー!

       われわれ以外の参加者は、なんと……0人!

       こういうのよくあるけど、やめよ?

       あははははは(笑)まあ、今回は課題映画もちょっと尖ってたんでね。

          こういうバイオレンス映画みたいのはとっつきづらかったかな。

       ぼくもあんまり見ないけど、サム・ペキンパーだと『ワイルドバンチ』ってのは聞いたことある。

     西部劇を幾つか見てたときに、おすすめに上がってきたな。

       そうですね。ペキンパーのキャリアについて見ておくと、

     1961年に『荒野のガンマン』で劇場映画デビューして、

     1969年の『ワイルドバンチ』を含めて5作目までずっと西部劇を撮ってます。

     長編6作目のこの『わらの犬』は、まずはペキンパー初の現代劇っていうのが一つの見どころですね。

       それでも出てくるやつらのならず者感みたいなところは、やっぱり西部劇っぽいよね。

     あえてなんだろうけど、全体的に前時代的な感じがするというか。

     イギリスの田舎って実際あんなのいるの?

       うーん、僕も実地調査はしたことないけど。

     パブの雰囲気っていうのは良くも悪くも町の精神性が出るからね。

     よそ者に厳しい村だと、あんな感じになることもあると思う。

     確かにこの映画でのパブは西部劇でのバーっぽい描かれ方をしてるけど、

     主人公がそれと正面から毅然と向き合う感じにはなってないのが、

     やっぱりペキンパーのそれまでの作品の中では異色なとこだよね。

       でもその異色作に、ずいぶんフォロワーがいっぱい出たらしいね。

       「わらの犬症候群」と呼ばれた現象ですね。主人公が敵の暴力に対して過剰な復讐をする映画が、
    この映画以降とても流行ったと[1]

     西部劇の暴力って、なんていうか、わりと様式化されてるじゃない。

     先住民とかならず者が色々やってきたから正義の鉄槌を下すという。

     撃っていい正義と撃たれるべき悪がはっきりしてる世界なわけだよね。

     「チャー研」なんかじゃ先住民が出てきた瞬間撃ってるし[2]

     それまでの映画の中の暴力はいちおうそういう枠の中に収まってたんだけど、

     ここではなんというか、そういう枠の埒外にあるむきだしの暴力みたいなものが映っちゃってる。

       そうだね。ストーリーライン追ってても「えっ」て感じになる(笑)

       前半まではまっとうにデイヴィッドに感情移入させてくれる作りになってたはずなんだけどね。

          あーかわいそう、ひどい、デイヴィッド怒っていいぞ! と思いながら見てきたのに、

          いざそのカタルシスが得られるべきところでドン引きさせられるっていう(笑)

       主人公側にもけっこう悪いところが見え隠れしてるのが嫌だよね。

     デイヴィッドにしたって、連中にけっこう上から目線で接してたのも事実だし、

     研究に夢中でエイミーに構ってあげなかったのも悪い。

       飼い猫をちょっと虐待気味に扱うところなんか、ヤバさの片鱗が出てたよね。

       エイミーもエイミーで、かわいそうなところはあるにせよ無防備すぎるし、

     スコット少佐なんか殺気立ってる相手にあんな高圧的に解散命じたら、そりゃ火に油だよっていう。

       そんなこんなでクライマックスでの暴力が、

     西部劇みたいに分かりやすい悪からのアタックに対する正当なカウンターって図式になってないんだよね。

     それは一つ、フォロワーが新鮮に感じたところだったんだと思う。

 

 本性としての暴力

       この「わらの犬」ってタイトルは、老子から来てるらしいんですけど。

     「天地は仁ならず、万物を以って芻狗と為す」という言葉で。

     芻狗というのが「わらの犬」ですね。

    わらで犬の形を模した祭儀用の人形で、祭りが終われば捨ててしまうものらしい。

       要は身代わり人形みたいなことだよね。

       そうね。終われば捨てられる、っていうところに重きがある感じかな。

     全体としては、天地=世の理には、人間の中で通用してるような倫理観は関係ないんだと。

     そういうものは宇宙の前では用無しの人形みたいなものでしかないと、

     たぶんこのぐらいの意味で引用されてるんだと思うんですけど。

     その意味では、デイヴィッドが「宇宙数学者」を名乗ってるのもちょっと関わりがあるのかなって感じだね。

     人間倫理が「わらの犬」と化すような宇宙的視点に触れてしまえる人間だったというか。

       なるほど。

       で、パァンとなったときに、一気に倫理から摂理に切り替わっちゃったと。

       キレたとたん、すごく的確な動きで敵を沈めていったからね(笑)

       無駄のない動作だったね(笑)逆上したとかそういう感じじゃないのがまた怖い。

       2周目のRTA動画を見てるみたいだったね。

       わはははは(笑)うん……なんてのかな、あの強さもまた新鮮だったよね。

     強い武器とか信念に基づいて発揮されてるんじゃなくて、

     人間誰もが普通に備えてる攻撃性が出たって感じがする。

     この映画のポスターなんか、それを非常によく表現してると思うんですけど。

     割れたメガネの奥から爛々と光る眼が見えてるっていうね。

     アニメ見る人の間で有名な理論に、

   「メガネが光って眼が隠れるとき、そいつはなにか企んでる」ってのがあるじゃないですか。

     ここでは文明の象徴であり仮面としてのメガネが割れるっていうのを通して、

     「人間の底に秘められた暴力性」ってのが見事に表されてる。

     そういう、「銃持ってるから」とか「大義があるから」じゃない力が出るとどうなるかってのが、

     一つこの映画のテーマだったような気はする。

       西部劇でのドンパチって、とりあえずスマートだし、対等ではあるんだよね。

     お互いが倫理的にとか役割的にどんな状態であろうと、銃はそういうのに関係なく決着を付けるから、

     映画の決着として一種の不文律みたいに使うことができる。

     「撃ち合ったんだからこの件は手打ち」みたいなことにもできるんだけど、

    この映画、一瞬もそうならないからね(笑)

     前半はとにかくデイヴィッドがかわいそうで、後半はとにかくトムさんたちがかわいそう。

     力の均衡する場面がほとんどないから、

    正当な対決じゃなくて虚しい暴力が行われてる感しか伝わってこないんだよね。

       そこはやっぱり、デイヴィッドが1970年代のアメリカから移り住んできた人だってことだろうね。

    要はベトナム戦争後のアメリカ映画らしいってことなんだけど。

 

『わらの犬』は家庭ドラマだ!

       実はデイヴィッドって、一連の反撃シーンで一回も銃なんか使ってないんだよね。

       そうだっけ? トムさんの足が撃ち抜かれたところは?

       あれは火かき棒で銃口を逸らした時に暴発しただけ。

       ああ、そうか!

       大殺戮シーンだから目立たないけど、デイヴィッドはあくまで自衛してるんだよ。

    あの後も熱した油をかける、火かき棒で殴る、トラバサミに嵌める。

    で、一番最後にチャーリーを撃ったのはあれ、エイミーだから。

    デイヴィッドはずっと家庭用品で戦ってるんだよ。

       ああ、だからか。

    なんか「汚ねえ『ホーム・アローン』みたいだな」と思ってたわ(笑)

       そう、基本スタンスは「俺の家から出ていけ!」なんだよね。

    この主人公、とにかくマイホームにすごくこだわってるんだよ。

    家庭を守ることが男の務めで、女はそこで自分を癒してくれる存在だっていうのを、

    けっこう無邪気に信じてるところがある。

    まあ、これはどちらかというとペキンパーの思想なのかもしれないけど[3]

    で、ここでチャーリーたちが家の補修業者だってのが皮肉なんだよね。

    家を構えてなんとかそこを秩序立てようとしてんのに、整えてくれるはずの補修業者たちに崩されていく。

    そういう裏テーマが例えば、襲撃シーンで窓からドブネズミが投げ込まれるくだりなんかに表れてると思う。

    抵抗力=猫が失われて、外敵を為す術もなく受け入れる家、というね。

       それでも「家を直しに来てくれてる人たち」って意識があるから、

    デイヴィッドもいまいち危機感が抱けてないんだよね。

       男同士だしね。

       正直言うと、スコット少佐が殺されちゃうまでは、お互いぜんぜん分かり合えてたと思うんだよ。

    あそこで少佐がもう少し上手く立ち回って収めてくれれば良かったわけで。

    エイミーの浮気とかは後々しこりにもなるだろうけど、

    デイヴィッドも理性さえ保てればぜんぜん軟着陸して、あの村でうまくやってく道はあったはずなんだよ。

    チャーリーも実は話の分かるやつなんだし。

       土壇場でいいとこ見せるんだよね。

       一番まともにエイミーのことを気に掛けてたのはあいつだからね。

    こんなよく分かんないやつに嫁いで大丈夫なの? って、仕事しながらずっと思ってたんだよ、きっと(笑)

    トムさんもイかれたやつみたいな扱いだけど、

    ほんとはただの娘想いのおじさんだもん。

    そりゃあ愛娘が男に連れてかれて行方不明になったら怒るわ!

       しかも本当に殺されてるしね。そういうのも最悪なんだよなあ。

       エイミーの不倫含めて、怒るべき人がことごとくそれを知らされないまま終わるよね。本当に後味悪い(笑)

       だからまあ、なんてのかな。

    あの村には前時代的かも知れないけど、ちゃんとそれなりの秩序があって、

    連中にとってのまた一つの守るべきホームであった訳ですよね。

    家の女性は男にとって財産の一部なので、しっかり守らなければいけないという。

    だからトムさんもあんなにヘンリーを警戒してたんだよ、

    あいつ村の規則とか暗黙の了解とか一切理解してないから(笑)

 

祭のあとに捨てられたもの

       ついでにもう一つ言うと、終盤の襲撃シーンはたぶん、一種のシャリヴァリとして描かれてる。

    ヨーロッパ広域に割と最近まであった風習で、コミュニティの性的秩序を乱した家庭をみんなで取り囲んで、

    ガンガン騒音立てたりしながら苛烈な嫌がらせをするのがパターンなんだけど。

    どうも嫁が寝取られるっていうのは、寝とった外の男の罪じゃなくて、

    嫁をきちんと管理できない寝取られた夫の方の落ち度ってことになるんだよね。

       ああ、三輪車アタックのくだりね。そういうノリだったのか。

       そう。だからあれは村の人たちにとっては、出戻り娘の旦那が不甲斐ないんで、

    古くから伝わるやり方で元気付けてやろうとしただけのことなんだよ。

       いや無理だろ!(笑)

       ぜったい無理だよね(笑)もちろん元気付けてやるってのは冗談だけど、

    この村でのやり方を教えてやるっていう一つのアプローチではあったと思う。

       手荒いけどこれで手打ちっていう、清算の申し出みたいなものだったのかもしれないのか。

       そう。ただ悲しいかな、ヘンリーと同じで、デイヴィッドも空気の読めない奴だったんだな。

    普通はシャリヴァリなんか村ぐるみで来るから、

    抗いようもなく恥をかかされて、それで終わりだったはずなんだけど。

    プッツンして反撃しちゃうような奴のとこに、銃まで持って行っちゃったのがトムさんの失敗ですわ。

    うーん、「相手がアメ公なら銃だろ」って判断もあったのかな?

       あるかもね。どうも初めからバカにされてる感じでもないし。

    それこそ「西部劇の中ですぐぶっ放すやつら」だと思ってるとこに、

    下手に銃も持たずにやってきたから舐められちゃったのかもしれない。

       まとめるとまあ、荒っぽいとはいえ暴力をそれなりに儀式化して収める術が浸透していたイギリスの村に、

    純粋な暴力を秘めた空気の読めないアメリカ人が来ちゃったという話ですかね。

    やっぱバイオレンス映画として、なかなかエピックメーキングな……

       エポックメーキングね

       エポックメーキングな(笑)うまいことキマりそうだったのに!

    ……よくできた映画だなと思いました。

       ダスティン・ホフマンもやっぱり上手いよね。キレてからの暴れっぷりが、なんだか謎にカッコいい。

    それまで本当にうだつの上がらない感じだったのが、背筋もピーンと伸びて。

       それでいて前半にも「何するか分からない」みたいな怖さはちゃんと出してるしね。

夜   暴力は本当に嫌いだけど、嫌いだからこそ決して暴力には屈しない、

    なんなら暴力に訴えてでも大事なものを守るぞ! っていうのが極めてアメリカンだと思う。

    あいつはきっとね、時代によっては国を守るために超人血清打つタイプだよ。

       あはははは(笑)キャップの武器が盾でほんとに良かったね。

       トラバサミじゃなくて良かったよ、ほんとに。

    急に民族音楽流して「アッセンブル!」ってトラバサミ投げるんだよ!?

       わははははは(笑)どんなヒーローだよ(笑)[4]

    いやでも、あの音楽掛かるとこ、本当にいいよね。急に終わるのも含めて。

    あの民族音楽っぽいのを先んじて流すことで、ある種シャリヴァリのお祭り騒ぎをやり返してるんだよね。

    で、祭りの後には「わらの犬」のように理性や道徳が無価値化してしまうと。

    ラストシーンのあの会話もすごく上手い。

       「うちへの帰り方が分からなくなっちゃった」「僕もだよ」っていうヘンリーとデイヴィッドのやりとりね。

       そう。あんなに守ろうとしたホームへの帰り方がもう分からないんだよ……

    原題が「Straw Dogs」って複数形になってるのは、多分あの二人を指してるんだと思う。

    前の『ワイルドバンチ』で結構むごいことやって、暴力的すぎるって批判があったみたいなんだけど、

    そこんところいくと今回は、そういう批判に「でも今のスッキリしたでしょ?[5]」と問いかけつつ、

    これまで好きで見てきた人にも「なかなか怖いもんでしょ?」と思わせるところがある。

       両方あるんだよね。デイヴィッドみたいにそういうものを秘めてる人にとっては、

    「こいつみたいになるなよ!」っていう戒めになるし。

       それに、言ったら暴力映画というもの自体、シャリヴァリと同じ暴力の儀式化みたいなもんだよね。

    むきだしの暴力っつったって、映画の中の出来事だもん。

    暴力映画で暴力が描かれてるから作者の人間性をどうこう言う人ってのは、

    むしろこの映画のデイヴィッドと同じやべーやつだよ。

秘めたる暴力性を現実のもの相手に開放しちゃってんだから。

    都合の悪い事実を見て見ぬ振りでないことにしようなんてのは最低だね。

    そういう鋭い告発も含めて、この映画はバイオレンス映画に新たな地平を刻んだ、

    まさにエポックメーキングな作品と言えるだろう!

       うわあ、絶対こいつ、さっきの噛んだくだり消すつもりだ!



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[1] 映画評論家SS・ブラウラーの言。作品としては『鮮血の美学』(1972)を筆頭に『狼よさらば』(1974)や『』、近年では『アレックス』(2002)『オールドボーイ』(2003)やタランティーノ作品が挙げられようか

[2] テレビアニメ『チャージマン研!』第7話「西部の男・研!」を参照。チャー研を例に挙げて何かを語る人はまともな精神状態でないことが多いので注意しよう。

[3] 『ワイルドバンチ』(1968)に主人公の一人が敵の情婦になった恋人を射殺するシーンがあるほか、『ガルシアの首』(1974)でも、妊娠させた男の名前を聞き出すために、父親が部下に実の娘を拷問させるくだりがある。ちなみに「敵」「父親」はどちらもエミリオ・フェルナンデス(1904-86)が演じている。

[4] MCUバカの会話です。読み流してください。

[5] 町山智浩氏の言。カナザワ映画祭2011にて収録(2011919日)され、『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』にて放送(同924日)された「宇多丸×町山×高橋ヨシキ バイオレンストーク」を参照。