怪我による手術・入院により郵送できなかった年賀を「寒中見舞い」を兼ねて投函してから、一週間余が経過した。投函後の三日目くらいから、電話やハガキなどで、その後の様子などを尋ねられたり、お見舞いの温かい言葉をいただくなどの対応をさせていただいている。心からの感謝をこのページを通しても、申し上げさせていただきます。
「三十一文字」の入院記
(4) 戦場に向かうが如き手術なり 父の没後が我が年齢なりせば
入院4日後に、病室を一般病棟「7階・みなみ」735号室(四人部屋)に移して13日に実施される手術に備えた。そして、予定通り13日正午過ぎに手術開始…16時頃には無事に終了・・・。14日、カミさんに送ったメールには「昨日、手術に行く前に思い浮かんだ一首です。父の没後の年数を積み重ねることで、今の自分がある・・・との意識を強く感じています。」との言葉と一緒に、上記の歌が記されていた。出征して病に罹り旭川の地で亡くなった父の没後と小生の80年を並べたものだが、手術前の動揺もあったからか、全く独りよがりの一首になってしまった。
(5) ベッドでの 朝食終えて外見れば 蝶の如くに 綿雪ぞ舞う
手術から4日目の朝、朝食後に窓の外に目をやると、眼下に見える青雲小学校が霞むほどの雪が降っている。しかも、その雪は大粒の綿状の雪で、緩やかに吹いている風にゆらゆらと揺れて、まるで風に身を任せながら飛んでいる蝶のように見えたのであった。
(6) 朝夕の カーテン開閉率先する 同室の男性 姿眩しき
病室は四人部屋であったが、その中の50代の男性が、廊下側のベッドであるにも関わらず、朝夕には自分の役目のように、ごく自然にカーテンの開け閉めをしてくれていた。24日までの10日間余を一緒に過ごさせてもらったが、彼よりも早く動ける体勢になった時には、小生も自然に体が動いてカーテンの開閉をしたことが何度かあった。
(7)ベッドより 青空広がる空眺め 痛みを雲に譬える我あり
手術後の一週間余は仰向け状態で過ごすことが多く、寝てからも痛みで目が覚めることなどもあり、夜中に「痛み止め」を出してもらうことなどもあった。しかし、そんな中で食欲も増してき、痛みも少しずつ和らいできた。そんな19日(日)、ベッドから窓の外を眺めると雲と青空の割合が半々程の天気であったが、次第に青空が広がっていく。それを見て、雲を自分が今抱えている「痛み」に置き換え、「今の自分は、こんな状態なんだ・・・!?」と、納得したことであった。
(8) 少しずつ 緊張・警戒和らぐも 我癒されし 君が言葉に
入院した日赤一般病棟「七階・みなみ」の看護師係長は「鈴木圭子」という方であった。姉御肌の、硬軟を的確に使い分ける、頼れる係長のように感じられた。患者の不安な思いに寄り添いながらの言動は、小生を含めて他の患者さんたちを大いに癒してくれていたと思う。そこで、いつもの誕生日「折句」の感じで一首を贈ったことであった。
(9) にっこりと 笑顔の気遣い「みなみ・七」 生きる力を患者の心に
(10) 傘寿坂 「牛歩」の我に寄り添いし 「七階・みなみ」の職員万歳
6日に入院し13日の手術、そして、その後のリハビリに精を出しながら過ごしていた20日、昼食後のベッドでウトウトしていると当日担当の看護師に声を掛けられて、驚いて目を開けた。告げられたのは、24日に勤医協一条病院への転院が決まった…との連絡であった。それからの四日間は入院期間ではあったが、転院に向けての心身の準備をしなければ・・・と考えながら、結構、緊張感を持ちながらの時間を過ごすこととなった。そんな中で、患者に笑顔で接して「生きる力」を注入してくれる「七階・みなみ」の職員の皆さんへ、そして、施設そのものへも感謝ししながら午前10時過ぎに、介護タクシーで勤医協一条病院へ向かったことであった。
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