2022年2月28日(月)
 二月・如月も今日で終わり…
 二月も、いよいよ晦日を迎えました。季節は確実に春へと向かっていますが、コロナ禍の収束もままならず、それに加えて、ロシアのウクライナ侵攻の本格化により「第三次世界大戦」などという言葉が飛び出す恐ろしい状況が起こっています。自分の人生が「戦争」という事態により大きく左右されてきた小生としては、自国に関係のない出来事として見過ごすことができない一大事として、注目している次第である。


     「三十一文字(みそひともじ)」の入院記

          勤医協一条病院
編 (2021.12.242022.1.21)


(15) クリスマス 過ぎて思いは新年へ 残る師走ぞ 気分マックス
 食欲もリハビリも順調で、達成感のある時間を過ごす中で、クリスマスを迎えた。そんな中で、新しい年を迎えるまでの残りの6日間は、高揚感いっぱいに過ごせそうだ!!

(16) リハビリの 自転車漕ぎで二キロ余を 走りし後の完食辛し
 午前のリハビリで、一階から五階までの階段の上り下り、そして、リハビリ室での自転車漕ぎ…。10分間で2キロ余りを走る計算である。勤医協に転院して三日目でのことで、未だ慣れてないこともあり、その直後に食べた昼食は食欲よりも少し休みたい・・・との思いの方が強く、意地での完食はできたが辛いものがあった。

(17) 
妻と娘 着替え携え病棟へ 距離を保って視線で会話す

 (16)と同日の午後5時過ぎ、カミさんと娘が着換えを持ってきてくれた。事前に看護師に話すと「距離を保ってください・・・」とのこと。打ち合わせた時間となり、エレベータから大きな布袋を抱えた二人が下りてきた。看護師の手を介して着換えの交換をしたが多くを語らず、互いに見つめ合いながら、「じゃぁ…」と言って二人はエレベータに乗り込んでいった。

(18)  真夜中の 小用終えし我が耳に 夜勤看護の気配ぞ聞こゆ
 夜2時頃にトイレに行きヘッドに戻って眠りに入ろうとしていると、廊下の方から微かな聞こえるともない人の気配を感じた。夜勤の看護師さんが、物音を立てないようにしながら各部屋を回っているような気配であった。そして、脳裏にその場面が映像化されたのであった。気配は「感じる」との表現が一般的だが、その時は何故か「聞こえる」の方が適切のように思えたのであった。

(19)      二個のパン 食べて我が顔ニコニコ(・・・・)で 食べた後では お腹パンパン
 この日の昼食には、日赤での入院期間も含めて、初めて二個のパンと副食がメニューであった。何となく嬉しくなり、その時の心境を「だじゃれ風」に表してみた。


(20)      腰痛に 打ち勝つために食べねばと ひと口ひと口 食材口に
 この日(28)は、朝5時過ぎに目覚めてから、べッドの中で普段フェイスブックを通して交流している近しい人たちに、年賀状を送れない状況説明等を送信することを考え、その下書きをメモしているうちに朝食時間を迎えた。そのためか、いつもの食事にもまして「しっかり食べてリハビリに励もう」との思いを強くしながら、口に運ぶ食材を嚙み締め味わったことであった。


(21)      リハビリの 合間に交わす会話にも 「元気の泉」ぞ湧くを覚える
 小生のリハビリに当たってくれた理学療法士の二人とは、一時間余のリハビリの合間に、時にはリハビリ中にも、様々な話をさせてもらった。孫のような年齢の相手だが、しっかりと寄り添ってくれる対応を通して、湧き出る泉のように新鮮な、沢山の元気を与えてもらったのであった。

2022年2月23日(水)
 医師より「診療完了」の言葉を・・・
 一昨日(22日)、日赤病院へ予約再診で出向いてきた。今回の入院・手術の一連の診療で、手術執刀に当たっていただいた医師の診察を受けるためであった。そこで告げられたのは、「今回の一連の診療行為は、今日で終わりとなります…」とのことであった。どこまで行けば完全治癒となるのか・・・は定かではないが、今後無理をせずに体調管理をすることによって、事故前の状態に近づく・・・との判断を下してもらったと理解した次第であった。

     「三十一文字(みそひともじ)」の入院記
          勤医協一条病院
編 (2021.12.242022.1.21)


(11)    リハビリで お褒めの言葉いただきて 余勢を駆って昼食完食なり

 勤医協一条病院に到着後は受付を済ませ、案内されたのは二階の204号の個室で、一条通側に面している部屋であった。最初のリハビリでは担当の理学療法士から.与えられたメニューを良好な状態で出来たのを誉めていただいたのが嬉しかった。お陰で、昼食は完食となり、ここから小生の勤医協一条病院での「食事完食」への挑戦が始まったのでした。 

(12)      半世紀前 部活に励みし光陽中 校舎変われど血潮ぞ騒ぐ

 リハビリのメニューには、自転車のペダル漕ぎも含まれている。一条通りに面した窓側に設置されていて、ペダルを踏みながら50年余前に勤務した光陽中学校の一部を眺めることもできた。当時30学級以上あったマンモス校で、野球部の顧問として汗した8年間が懐かしく思い出された。

(13)      午前午後 ダブルで受けし誉め言葉 これに勝りしプレゼントなし

 転院しての2日目(25)、小生の担当リハビリ師の二名が午前・午後に割り振られた。勤医協での入院中でのリハビリは、通常、どちらかが午前・午後を担当してくれた。どちらも二十代の男性であったが、患者の気持ちに寄り添ってのリハビリに徹してもらった。この日は、二人ともに初対面であったが、「こんなにまで完璧にこなせた人は始めて…」「八十代で、こんな人に出会ったの初めて・・・」と、同じような言葉を掛けていただいた。何とも嬉しい一日であった。

(14)      朝昼晩 三度の完食達成し ジングルベルに耳傾ける

 クリスマスのこの日、年若いリハビリ師の二人から「誉め言葉」を貰い、年甲斐もなくウキウキしながら三食を完食し、ベッドに横になりながらスマホのラジコから流れてくるジングルベルをイヤホーン越しに聞いていたのでした。

2022年2月20日(日)
 心からの感謝を・・・・
 怪我による手術・入院により郵送できなかった年賀を「寒中見舞い」を兼ねて投函してから、一週間余が経過した。投函後の三日目くらいから、電話やハガキなどで、その後の様子などを尋ねられたり、お見舞いの温かい言葉をいただくなどの対応をさせていただいている。心からの感謝をこのページを通しても、申し上げさせていただきます
        
三十一文字(みそひともじ)」の入院記

(4) 戦場に向かうが如き手術なり 父の没後が我が年齢(とし)なりせば

入院4日後に、病室を一般病棟「7階・みなみ」735号室(四人部屋)に移して13日に実施される手術に備えた。そして、予定通り13日正午過ぎに手術開始…16時頃には無事に終了・・・。14日、カミさんに送ったメールには「昨日、手術に行く前に思い浮かんだ一首です。父の没後の年数を積み重ねることで、今の自分がある・・・との意識を強く感じています。」との言葉と一緒に、上記の歌が記されていた。出征して病に罹り旭川の地で亡くなった父の没後と小生の80年を並べたものだが、手術前の動揺もあったからか、全く独りよがりの一首になってしまった。

(5)      ベッドでの 朝食終えて外見れば 蝶の如くに 綿雪ぞ舞う

 手術から4日目の朝、朝食後に窓の外に目をやると、眼下に見える青雲小学校が霞むほどの雪が降っている。しかも、その雪は大粒の綿状の雪で、緩やかに吹いている風にゆらゆらと揺れて、まるで風に身を任せながら飛んでいる蝶のように見えたのであった。

(6)      朝夕の カーテン開閉率先する 同室の男性(おのこ) 姿眩しき

病室は四人部屋であったが、その中の50代の男性が、廊下側のベッドであるにも関わらず、朝夕には自分の役目のように、ごく自然にカーテンの開け閉めをしてくれていた。24日までの10日間余を一緒に過ごさせてもらったが、彼よりも早く動ける体勢になった時には、小生も自然に体が動いてカーテンの開閉をしたことが何度かあった。

(7)ベッドより 青空広がる空眺め 痛みを雲に譬える我あり

 手術後の一週間余は仰向け状態で過ごすことが多く、寝てからも痛みで目が覚めることなどもあり、夜中に「痛み止め」を出してもらうことなどもあった。しかし、そんな中で食欲も増してき、痛みも少しずつ和らいできた。そんな19()、ベッドから窓の外を眺めると雲と青空の割合が半々程の天気であったが、次第に青空が広がっていく。それを見て、雲を自分が今抱えている「痛み」に置き換え、「今の自分は、こんな状態なんだ・・・!?」と、納得したことであった。

(8)      ()()つ ()張・(けい)戒和らぐも 我癒されし 君が()葉に

 入院した日赤一般病棟「七階・みなみ」の看護師係長は「鈴木圭子」という方であった。姉御肌の、硬軟を的確に使い分ける、頼れる係長のように感じられた。患者の不安な思いに寄り添いながらの言動は、小生を含めて他の患者さんたちを大いに癒してくれていたと思う。そこで、いつもの誕生日「折句」の感じで一首を贈ったことであった。

(9)      にっこりと 笑顔の気遣い「みなみ・七」 生きる力を患者の心に

(10)      傘寿坂 「牛歩」の我に寄り添いし 「七階・みなみ」の職員万歳

6日に入院し13日の手術、そして、その後のリハビリに精を出しながら過ごしていた20日、昼食後のベッドでウトウトしていると当日担当の看護師に声を掛けられて、驚いて目を開けた。告げられたのは、24日に勤医協一条病院への転院が決まった…との連絡であった。それからの四日間は入院期間ではあったが、転院に向けての心身の準備をしなければ・・・と考えながら、結構、緊張感を持ちながらの時間を過ごすこととなった。そんな中で、患者に笑顔で接して「生きる力」を注入してくれる「七階・みなみ」の職員の皆さんへ、そして、施設そのものへも感謝ししながら午前10時過ぎに、介護タクシーで勤医協一条病院へ向かったことであった。


2022年2月16日(水)
 「入院記」のスタート・・・
 昨日、午後3時から、カミさんと三回目の「コロナワクチン接種」を、「銀座通り内科クリニック」で受けてきた。一、二回目はファイザーだったが、過日三回目の接種予約案内をもらって病院に予約申し込みをしたところ、「ファイザーであれば3月に入ってからになる…。」とのことだった。が、種々の情報を総合するとファイザー~ファイザー~モデルナ」の組み合わせは接種評価が高いとのことだったので、即座に予約をさせてもらった。▼午後2時半過ぎ家をスタートして、前回同様に三番館の駐車場に車を止めてクリニックへ…。三時前であったが、スムーズに問診・接種と進んで、三十分ほどで終了することができた。帰り際、銀座通りにある「おやきの富士屋」でいつものように「タコ焼き」と「たい焼き」を買って、ルンルン気分で帰ってきた。▼副作用のことが気にならなくはなかったが、今日の時点でも注射痕を押すと多少の痛みは感じるが、発熱などの変化もなく過ごすことができている次第である。

            三十一文字(みそひともじ)」の入院記 

(1)      仰向けに近き姿勢で食べる蕎麦 箸とスプーンの二刀流なり

日赤病院に緊急入院してから未だ四日目余・・・。胸や腰の痛みと闘いながら、ベッドの上に張り付けられたように時間が流れる。出される食事は自力で食べるようにしたが、仰向けに近い状態で食べ物を口に運ぶ感じ・・・。そんな時に、この日の昼食に「蕎麦」がメニューに。ベッド上での食事には慣れていないので完食ができないでいたが、久し振りの蕎麦を残さずに食べたい・・・との思いが強く湧いてきた。でも、これまでのように箸だけで食べるには…?! そして、考えたのが大谷翔平選手にあやかること。

(2)      傘寿坂 歩みし我に寄り添いし 同姓の看護師 笑顔ぞ(うるわ)

緊急入院当初の6日から8日までは緊急治療室、9日にはHCN(高度治療)の病室に移された。その時に、この病室の担当の看護師は「木村」姓の女性であった。入院直後の不安や痛みを感じながらの小生だったからであろうか、何か身内に介護されているような感覚であった。八十を過ぎた爺ちゃんの面倒を、甲斐甲斐しく元気に明るく見てくれる姿が眩しく、頼もしく感じられたのであった。

(3)      窓下に サイレンの音鳴り止みて 救急患者 到着の夜  

 HCN病棟の病室のベッドで治療を受けている9日の夜・・・。痛みを感じながらもウトウトしながら眠りに入ろうとしていた時、微かに聞こえてきた救急車のサイレンらしい音が次第に大きくなり、病室の窓の下で鳴り止み、人のざわめきが聞こえてきた。救急の患者が運び込まれてきたのであった。そんな気配を感じながら、時間に違いはあれど、自分もこんな状態で搬送されてきたんだな…、と改めて3日前の自分の様子を思い返していたことであった。
2022年2月15日(火)
 次回からの取り組み・・・
  松の樹伐採時に梯子から転落し、救急車による日赤病院への搬送・緊急入院したのが、昨年12月6日・・・。そして、12月13日に手術をし、リハビリ入院を24日午前まで日赤で・・・。午後からは、リハビリに専念するために、勤医協一条病院へ転院して新年を迎えた1月21日の退院まで、同病院でのリハビリを続ける毎日であった。日赤では三週間弱の入院生活を送ったが、入院当初の三日間余過ぎからは13日に決まった手術に向けての治療や検査をしながら痛みを感じていたが、痛みから気持ちを逸らすためにもと、ベッドという限りられた範囲で感じられる印象に残った出来事などを手帳にメモしたり、スマホ画像にするなどで記憶に残すよう努めた。▼そんな中、メモについては、三十一音が基準の短歌の形式を借りて、後で読み返した時に自分の記憶を蘇らせる手段にでもなれば・・・との気持ちで記録することを心掛けた。そんな軽い気持ちで始めた「記憶覚醒法」であったが、1月21日の勤医協一条病院退院時には、短歌以外の文章も含めて二冊の手帳が埋まるほどになっていた。それが、過日のHPの「七十七首」の記述になったのであった。▼思い起こしてみれば、短歌を「記憶覚醒法」の一助として活用するようになった原点は、現職時代最後に勤めた愛宕中学校教頭時、修学旅行団長として参加した旅行中に、「修学旅行の歌日記」として五十首(一日平均十首)を自らに課したことにあったように・・・と考えたが、もっと突き詰めて考えると、教職時代の38年間にわたる生徒たちとの国語の授業で、教材の俳句や短歌の学習の締め括りとして編集した「○○文集」に行き着いた。ガリ版刷り~タイプ~ワープロ~パソコンで編集・印刷した生徒の作品が原点であった…ということである。そして、それは小生にとっては教職人生の「座右の銘」ともいうべき、高村光太郎の詩「牛」から発想した「牛歩の如く」の具体化の一つとしての貴重な取り組みであった・・・と言っても過言ではない。▼そんな思いの中で、今回の入院が始まった数日後から、痛みを感じながら簡単な説明文を交えながらの「短歌づくり」が始まったのであった。未だ整理・推敲が十分でないが、次回から「三十一文字(みそひともじ)の入院記」として掲載してみたいと思う次第である。
2022年2月11日(金)
 久し振りの「夜更かし」・・・
 昨日、今日の二日間、日中は好天に恵まれ、日本の北と南の気候が逆になったかのような状況である。我々としては嬉しいことではあるが、人間界も自然界も変異が日常的に感じられるような昨今でもあるので、天候の変化にも不安を感じてしまう始末である。▼さて、「逃げる二月」も中旬を迎えることとなった。そんな中での、小生の退院後の日常であるが、前回の本ページで取り上げていた

    ● 入院中の出来事を少しでも記憶に留めておくための短歌の整理


に加えて、出そうと思って準備していた年賀状を出せずに、貰いっぱなしになっている現状が気になって仕方がない日々が続いていた。そこで、その思いを払拭するために、

       「寒中見舞い」をもって、年賀の代りにする

ということを思いついた。「寒中見舞い」の中に、年賀的な記述や送ることができなかった理由なども加え、年賀を貰った人や「喪中はがき」を貰っていた人たちに送れば・・・と、何とも「虫のいいこと」を考えたのであった。▼ということで、昨日は21~22年にかけての「年賀はがき」「喪中はがき」を点検整理し、「寒中見舞い」のレイアウトを考え、午後9時過ぎから印刷を始めて、270枚余の「寒中見舞いはがき」を送り先の住所も含めて完成させた。そんなことで、昨日は退院後初めての、深夜0時過ぎまでの作業となった次第であった。
  
 
※ 「入院中の短歌の整理」は、次回から形にしよう…と考えているところです。
2022年2月1日(火)
寅年も、二月を迎えて…
 二月は「逃げる二月」と、言われている。ことわざで、「一月往ぬる、二月逃げる、三月去る」と言われることからの表現である。ひと月の日数が、31日間の一月と三月に挟まれている二月だからこその表現として説得力がある。▼そんな中で、一日も早く収束をしてほしい…と願って迎えた三年目のコロナ禍の新年であったが、新たなオミクロン株の感染拡大により、「一月往ぬる、二月逃げる、三月去る」オミクロン株・・・と念じ願った思いも空しく、一向に明るさが見えてこない。若年層から高齢者まで感染が広まっていく現状を阻止するには、一体どうすればいいのか…を、歯がゆさを感じながら、思い悩んでいるばかりである。▼さて、小生についてであるが、先月21日に退院してから10日間余が経った。これまで、旭川の二月は厳しい寒さに見舞われる…との思いを強く感じながら過ごしてきたが、今週に入ってからは、降雪を伴っての寒さが連日続いている。入院中は多くの人たちの支えの中で、寒さなどを感じることなく過ごさせてもらったが、我が家に戻って来てみて、寒暖の変化に敏感にならざるを得ない日常を実感している昨今である。そんな中で、改めてカミさんや娘に様々な負担を掛けたことを反省している日々でもある。▼これから小生がやろう…としていることは、入院時に持参した手帳を整理することである。メモしていたものの一つに、短歌風?の「三十一文字(みそひともじ)」記述があるが、それらを整理してみよう…と思っている。入院中に感じた、その時々の思いを短歌風に表現することで、読み返してみた時に、その時に考えたことや情景などが思い出される・・・という、これまでも小生が記憶再生のために続けてきた取り組みの延長のようなものでもある。「なんじゃ、これ-!?」と思うものが多いのだが、自分の中では納得できる「記憶術」の一つでもある。二三日前、整理してみると、日赤に入院三日後の12月9日から勤医協退院の1月21日までに七十七首を数えることができた。次回の更新から、「入院記」風な記述の中で取り上げてみたいと思う次第である。から勤医協退院の