昨日11日は、「東日本大震災」から11年目を迎えた日であった。地震発生の午後2時46分には、各被災地から追悼式での黙とうの映像が流されていた。「十年一昔」という言葉があるが、11年前の未曽有の大災害を「昔語り」とするのではなく、後世に伝える努力を惜しまない多くの人たちがいることを改めて知ることができた。当時、小生はテレビでの国会中継を見ていたが、突然、緊急地震情報の警報音が鳴り、画面が東北太平洋岸各地に設置されているカメラの画像に変わった。その後は、まるで地獄絵のような世界を見せられることとなったのを記憶している。▼11年前の震災直後(6日後)の本雑記には、次のように記されている。明日で一週間を迎える時間経過の中で、当初は未曾有の「天災」に如何にして対処するかが問題とされたが、今後は人災を如何に防ぐかが問われる時間帯に入ってきたようにも思う。今日のテレビでは、三重苦から辛うじて逃れて避難所に入ったにも拘らず亡くなる人が出始めている。ライフライン寸断で食料・衣料、暖房、そして医療等に関わる供給面での問題だが、今後は政府や関係行政機関の対応の遅れや誤りが「人災」として問題視されることにもなりかねない。九死に一生を得た被災地の人たちが、「命の喜び」を心から実感できる対応を、祈るような思いで願っている次第である。▼一昨年から、我々人類は「コロナ禍」という未曽有の疫病との「戦い」を繰り広げ、生命の危険に晒されている。加えて、年が改まってからはロシアによるウクライナ侵略が他国をも巻き込んでの戦争へと拡大するかもしれない・・・との二重の大災害を抱え込むこととなってしまっている。幼かったとはいえ、「引き揚げ者」として戦争の一端を、空襲や逃避行で体験した小生としては、テレビ画面を通しての空爆や戦闘による犠牲者の生々しい画面に接する折には、七十年余前にフラッシュバックしてしまう自分を抑えることができない昨今である。
「三十一文字」の入院記
(38) 三が日明けて寅年 日常の暮らしに向けて 歩を踏み出せり
新年の三が日も過ぎ今日は4日・・・。正月気分から抜け出し日常の生活に・・・との思いはあっても、身体が言うことを聞いてくれない。せめて、頭の中でだけでも整理しなければと・・・
(39) 昼食後 リハビリメニューに追加して
屋外歩行のプレゼントあり
昼食後の午後のリハビリに、ピンチヒッターで来てくれた女性の介護師が、序盤のメニューが終わった後、外歩きの訓練もメニューにあるので、天気が良いので外に出てみましょう…と、言ってくれた。転院後、10日振りに外気を味わえるプレゼントに、大いに感激したことであった。
(40) 朝六時 廊下点灯
院内にテーマ曲流れ さぁースタートだ!!
5日の朝6時、「朝ですよ、さあ、今日も元気にリハビル頑張りましょう…!!」というように、廊下の電気が点灯し、テーマ曲が流される。最初は「何で・・・!?」と不思議に思ったりしたが、日が経つにつれ一日の始まりとして大切な「けじめ」と考えるようになった。
(41) 午後からは 期待度高いレントゲン
術後経過に 光明あるやと
5日午後、日赤からの転院後のリハビリの経過を確認するためのレントゲン撮影があった。いい結果が確認されるか、何故か落ち着かない午後であった。
(42) 術後経過 知るため撮影・レントゲン 吉報期待し今夜も完食
腰・指・胸の順にレントゲン撮影をして、15時頃に病室へ。どんな結果が出るのか心配であったが、いい話を医師から聞けることに期待をして、夕食での完食を更新したのであった。
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