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船に帆柱のあった頃
近代海運本邦寄航概観

第一部 太平洋横断定期汽船のパイオニア

Pacific Mail Line

 神戸港ポートアイランドの西側岸壁のコンテナ・ターミナル、PC-5番で、鮮やかな深紅の鷲のファンネル・マークを
つけた大きなコンテナ船が荷役を行っている。この会社、アメリカン・プレジデント・ラインズの歴史を遡れば、古くは
ダラー汽船、さらに過去を辿れば我が国の開国後に初めて蒸気船による太平洋横断定期船航路を開設したパシフイッ
ク・メール・ライン(太平洋郵便汽船)の時代にまで、そのルーツを見ることが出来る。



 この会社が設立されたのは神戸開港の21年前の1847年のことであるが、どのような歴史を経て我が国にやって
きたのか、その足跡を辿ってみよう。



 1492年にコロンブスがアメリカを「発見」し、その後除々に旧大陸からの殖民が始まったが、これが17世紀の始め
になると、英国から宗教上の理,由で分離派ならびに清教徒が新大陸(現在のニューイングランド)に到着し、生活を
営み始めた。この初期の殖民は様々な困難に直面し、1620年12月21日に到着したメイ・フラワー(180トンと
推定)での移住者102名は、最初の冬が過ぎたときには半分以下の50名に減っていた。また、上陸した10年後も、
その人口は僅か300人を数えるに過ぎなかった。



 ところが、1630年になるとマサチューセッツ・ベイ・カンパニーが設立され、組織的に旧大陸からの人口導入が図ら
れたことから急速に大西洋岸は開かれ、マサチューセッツを中心にコネチカット、ニューハンプシャなどの北部四州が
出来あがった。地理的に見ると、この大西洋岸は背後に広大な処女地を有していたにもかかわららず、人々の西行き
をアパラチア山脈が阻んでいたため、ちょうど神戸の街が同様の理由で栄えたように海事産業に目が向けられ、造船
や漁業が栄えた。



 特に捕鯨に関しては、その食料としての需要のみならず、当時は石油が発見されていなかづたため、灯火用としての
価値も高く盛んに行われた。鯨を追って、アメリカの捕鯨船は18世紀の半ばにはアフリカのギニア海岸はおろか、遠く
南洋、豪州近海にまで進出していた。また、同国が我が国に開国を迫った最大の理由として、これらの捕鯨船の補給
基地が必要だったことが挙げられていることからも、その隆盛が窺い知れよう。このように、
アメリカは当時その隆盛を
海事産業に依存しており、海運が発達する基盤が充分にあったと考えやすい。


 ただし、それだけでは英国本国ならびに欧州各国と交易を行っていたアメリカの商船が、極東、特に日本に寄港して
くる理由としては、まだ充分とは言えまい。






第1章 ゴールド・ラッシュと会杜設立

服部之総氏は著書「汽船が太平洋を横断するまで」(岩波文庫)の中で、次のように記している。
 金鉱発見以前、1847年4月から48年8月までの一年間に大西洋岸から金門湾に入った船はたった4隻だったが、
 つぎの一年間には一躍775に激増した。この中には後で述べる汽船も若干入っているが、ほとんど帆船であり、
 ありあわせのいっさいの船が動員された。そのため太平洋従来の捕鯨業はぱったりになった。 中略 ざつとこんな
 海の黄金時代のなかから、われわれは二つの新しい現象を見分ける二とができる。第一は1847年に創立され、
 48年からニューヨーク/サンフランシスコ間の定期航路を開始した太平洋郵船(パシフイック・メール・ライン)の汽船
 航路である。第二は50年末から始まったといわれるカリフォルニア・クリッパーの帆船航路であった。


 これについて若干補足すると、1848年にカリフォルニア州サクラメントのサン・ジュキアン・ヴアレィで砂金が発見され
ると、このニュースが半年後には東岸に流れてゴールド・ラッシュが始まった。「僅か5,6坪の所で1万七千ドルの砂金が
採れた」とか、「ニュースを聞いて駆けつけた新聞記者が数百万ドル拾った」とか、とかくこのような噂は大きくなるもの
だが、一擾千金を夢見たフォーテイ・マイナーズが現地に辿りつくには三つのルートがあった。



 第一には、不毛の荒野、険しい山道、灼熱の砂漠を横断し、時にはこれらの侵略者を迎え撃つインディアンと戦いな
がら進む陸路であり、この時期にソルトレーク/サクラメントだけで、千五百本の墓標が立ったと云われている。この
ルートが確立するには1918年の大陸横断鉄道セントラル・パシフィック・レールウェイが完成するまで待たねばなら
なかった。しかし、手元資金の少ない者にとっては、最も取り付きやすいルートであったろう。



 第二には南米先端のホーン岬を迂回する船によるルートで、同ルートはパナマ経由が一ヶ月内外で到着したのに
対して三、四ヶ月要したため、その期間を短縮することが重要な課題であった。このため、従来のイースト・インデイアン
マン(東インド会社交易船)を遥かに上回る性能を持つカリフォルニア・クリッパーが、航路の花形になる。



 第三のルートのパナマ経由は、ニューヨークなどの東部諸港から船でガルフを通過してパナマ地域の大西洋岸である
コロンに行き、そこから原住民の操る小舟で30マイルほどジャージス河を遡り、騾馬に乗り継いで太平洋岸のバルボア
まで行き、再び船でカリフォルニアに向かうものであった。この輸送にあたったのは、48年からニューヨーク/ジャージス
間に順次船を投入していたジョージ・ロー社のほか、同航路の貨客の増加に伴い、エンパイア・シテイ・ラインが1,500級
の船二隻を、続いてフイラデルフイア・アトランテイック汽船も船を投入していた。



 太平洋岸においては、45年に発布された郵便補助法により、アーノルド・ハリスがバルボアからサンデイエゴ/モン
トレー/サンフランシスコ/アストリア/オレゴン間に、月一回のサービスを開始していた。同氏はこの契約をアスピン・
ウオールに47年に委譲、ここにウオールはヘンリー・チョンシー・ホーランド・バートレット商会等の人々と共にこの航路を
継承し、同年40万ドルの資本金をもって会社を設立した。パシフィック・メール・ラインの誕生である。






第2章 一番船カリフォルニア号

 このサービス開始のため、カリフォルニア号、オレゴン号、パナマ号の三隻が用意されたが、いずれも1千トンクラスの
木造外輪船であった。これらの船はパナマとピュゼット・サウンド(シアトル)との間に就航する予定であった。カリフォル
ニア
号は1,058総トン、全長68・6m、幅9・5m、深さ5・5mの頑丈なオークの船体で、手摺りに平行に真っ白なライン
が入れられ、モダンな印象を与えた。マストは三本で、間にかなり高い一本の煙突が立ち、キャビンは低く、一番前の
マストから船尾まで続いていた。同船が出港した時には、カリフォルニアで金鉱発見のニュースはまだ東部諸州には
伝わっていなかった。このため、同船の処女航海の乗客は僅か数名に過ぎず、積荷としてはカリフォルニアで組み立て
られるエンジン}台位であった。カリフォルニア号は南米東海岸沿いに南下したが、リオデジヤネイロではエンジン・トラブル
のため、三週間の停泊を余儀なくされた。


 
マゼラン海峡を抜け北上し、パナマ地帯に近づくと、乗組員たちは波止場に集まっている人たちが多いのに驚いた。
僅か1,058総トンに過ぎないカリフォルニア号でも、ここでは巨船であった。船が岸壁に着くやいなや、サンフランシスコ
まで乗せてくれという希望者が殺到した。定員200名のところを365名の乗客を乗せたカリフオルニア号の、横になれる
船室には法外な値段が付いたことは勿論、眠ることも出来ない船倉の中にさえ乗客は詰め込まれた。カリフォルニア号が
モントレー・サンデイエゴを経由してサンフランシスコに近づくにつれて、興奮の渦は広まる一方であった。



 金に取り付かれた者達の熱狂は勿論、同船は独立を果たしたカリフォルニア州のシンボルでもあった。カリフォルニアは
1846年から始まった対メキシコ戦争の結果、その二年後の48年にはゴドループ・ヒダルゴ条約により米国領土内に組み
入れられた。カリフォルニア号には初代知事になるパシフオ・スミスも同乗していた。同船がカリフォルニアに着いたのは
49年2月28日のことで、ニューヨークを出帆して実に114日ぶりのことであった。



 同船がゴールデン・ゲート海峡を抜けてクラーク・ポイントを回ると、乗客達の間に歌声がおこった。岸辺の何百という
テントからは何千人という殖民者達が手に手に鐘を打ち鳴らしながら、我先にとカリフオルニア号の方へと走ってきた。
港にはジョーンズ提督が指揮する米国太平洋艦隊の艦船五隻が同船を待っていた。この小艦隊五隻は次第に間合いを
詰めながら、カリフォルニア号に近づいてきたが、その甲板上では千五百人もの乗組員が、手を振って大歓迎の意を示し
ていた。カリフォルニア号の錨が降ろされ、清く澄み切った湾に沈んでいくと、乗客のみならず金に眼が眩んだ乗組員達も
先を争って上陸しようとした。船に留まったのは船長のクリーブランド・フォーブスと三等機関士のフレッド・フオギンくらいな
ものだった。カリフォルニア号の到着を知らせる地元の新聞は「蒸気船を見に行こう!』と記し、「新来者を黄金に満ちた土地に
いる者にふさわしく、陽気にかつ親切に歓迎しよう」と大きく載せた。






第3章 カリフォルニア・クリッパー

パシフイック・メール・ラインを創立したアスピン・ウォールは、カリフォルニアのゴールド・ラッシュ及び太平洋岸への移住
者の増加に伴い、より効率のよい輸送方法を開発した。それは僅か50マイル足らずの距離で、大西洋と太平洋を遮って
いるパナマ地峡を横断する鉄道を敷くことにあつた。このため、彼は位置は1850年に100万ドルの資本でパナマ鉄道を
設立して、約五年の歳月を費やしてこの鉄道を完成し、大西洋側の終点をアスピン・ウオール(現在のコロン)と名づけた。
この鉄道を人々はこぞって利用したので、彼は竣工後数年足らずで600万ドルを得たと云われている。ちなみに、
パナマ運河が開通したのは1914年のことであった。



 一方、米船の目本への定期寄港の前段階としての米国/中国貿易は、カリフォルニア・クリッパーの開発に負うところが
大である。イースト・インディアンマンの船型は長さ対幅の比が約5対1であったのに比べ、クリッパーのそれは6.5対1と
流線型が一層進み、前に大きく突き出したバウ・スプリットに大きな特徴があった。



 このクリッパーの嗜矢となったのはボルチモアの資産家アイザック・マッキムが建造したアン・マッキム号であつた。同船は
1833年に進水した長さ43.6m、439トンの小型船であったが、三本のマストは極端に後方に傾き、いかにもスピードを
重視した船であった。また、その船型や帆装形式などでクリッパーの第一号と衆知されたのは、45年にニューヨークのスミス・
エンド・ダイヤモンド造船所の技師ドナルド・マッケィにより建造されたレインボー(759トン)で、アスピン・ウオールは
同船を43年にチャーターして、中国貿易に投入している。このレインボー号は僅か三年で失われてしまうが、これ以降50年に
セレシャル(810トン)、53年にチャレンジ(2,006トン)グレート・リパブリック(不明)、54年ライトニング(不明)
などの名船が次々と建造された。



 これらのクリッパーはまずゴールド・ラッシュで沸きかえるカリフォルニアヘの客を運ぶ通称カリフォルニア・クリッパーとして
使われ、カリフォルニアで乗客を降ろした後には一気に中国まで太平洋を渡った。そして、中国で茶を積み込むと、喜望峰
回りで帰国するテイ・クリッパーとして使われた。しかし、このテ.イ・クリッパーとしての運用は、蒸気船の台頭と南北戦争の
勃発で、60年ころには廃止されてしまった。また、アスピン・ウオールは目本との和親条約の交渉に向かうペリー艦隊の
補給船も派遣するなど、歴史の裏舞台にも関わっている。・






第4章 和親条約以前の米船の來日

 さて、我が国にやってきたアメリカ船は、1854年に締結された日米和親条約以前にも、捕鯨船や難破船を除いても
数多く記録されている。




 レデイ・ワシントン号 同船は二本マスト、90トンの帆船で、ボストンのジョン・ケンドリック船長が指揮し、これに随走
してきたのは英国籍のスループ型帆船のグレース(85トン)で、ニューヨ;クのジェームス・ダグラス船長が乗り組んでいた。
この二隻が和歌山県の岸本町樫野岬沖に錨を降ろしたのは、1791年5月6日のことだった。これを記念して、串本の
大島には日米修好
記念館が建てられている。この二隻の船は北米西岸のクイーン.シヤーロット・アイランズを出帆し、中国の
広東で積荷の銅・鉄製品や50丁の銃、1万1千ドルものラッコの毛皮を捌くつもりであったが、買弁(中国人の貿易仲立ち
)との間で手数料の折り合いがつかず、大坂を目指してやってきたものだった。



 しかし、彼らの目論見は失敗に終わった。というのは、日本は17世紀の初めから鎖国を続けていたため、住民達は
これらの異人と関わりを持って罰せられることを恐れていたし、そんな高価な毛皮などを購入することが出来る者はごく
限られていたことだろう。同船の進入を知らせるため、当地の侍が急遽藩主のもとに派遣された。このこともあって、
同船は
折からの強風の中、大坂に向かうことは諦め、出帆していった。藩主から派遣された侍一小隊が到着したのはその二日後の
ことで、もし、同船がぐずぐずしていたならば、船は没収か焼き払われ、悪くすれば船長以下斬首されていたかもしれない。




 1630年の鎖国以降、我が国と交易を続けられたのは、中国.韓国・ソ連(シベリア)、それと交易に布教を持ちこまなかった
オランダの四力国に限られていた。しかも、我が国とその四力国の接触は、長崎の港に制限されていた。しかし、この時期に
合法的に我が国に入り、交易を行ったアメリカ船があったことは余り知られていない。






第5章 鎖国下に長崎に入港したアメリカ船

 1797年にオランダがナポレオンにより占領され、英国も自国防衛のためフランス領土の海域を封鎖したことにより、オラン
ダ船のアジアヘの航行は不可能となった。けれども、オランダは17世紀の初頭にジャワに東インド会社を設立していたため、
本国との交易は無理としても、同会社を基地として莫大な利益の挙がる日本との貿易は続けなければならない。



 そのことから、本国に閉じ込められた船の代わりをチャーター船で賄うことが必要だと、同会社の提督は考えた。この事から、
8隻のアメリカ船が同会社にチャーターされ、オランダ国旗を掲げて、その後12年間に一且って長崎に入港するようになった
そのうちの一隻、ジェームズ・ダブロー船長が指揮するフランクリン号の処女航海は莫大な利益を挙げることが出来たことから、
ボストンのオーナーは次ぎに建造した船にも同じ名前をつけた。しかし、このオーナーはダブロー船長の助言にもかかわらず、
船殻に銅を貼ることをけちったため、バタビアに船を回したものの、オランダからチヤーターを断られてしまった。



 アメリカ船がオランダ東インド会社のチャーターにしろ、我が国の唯一の開港場・長崎に入港し得た1803年の米国の船舶
保有量は、外航船で約67万トン、内航船で約27万トンであった。この数字を10年前の数字と比較すると、外航船で約倍、
内航船でも約2.5倍と急激に膨れ上がっている。というのも、欧州は1798年のフランス革命以降、領土を拡張しようとする
英国と同盟国の対立する図式が続いており、米国はそのどちらに
も属さない中立国として漁夫の利を占めていた。

 すなわち、これらの西欧諸国に対する穀物・肉類・綿花等の生活消費財の供給は米国が握ることとなり、そのことは必然的に
米国の海運・造船を大きく発展させることとなっへと劇的な変化が起こる。しかし、これらの捕鯨船の太平洋での活躍が、
アメリカ海運のその後の発展に大きく結びついていった。






第6章 異国船への対応の変化

 寛政令1791年発布
 幕府の命令に反しない限り、発砲攻撃はしないが、船と船員に対する臨検捜査は厳重に行う。



 文化令1806年発布
 特にロシア船に対して寛政令をさらに緩和し、食料や薪・水などに乏しい場合には、相応の品を与えて帰帆するよう
 決めたもの。




 文政令(異国船無二念打払令)1835年
 来航する異国船には有無をいわさず、「ためらうことなく」(無二念)発砲して打ち払うという強攻策。



 天保薪水令1842年
 欠乏の物資を与えて帰帆させるという穏健策。




 この結果、英国は香港をその進出基地として手に入れ、アモイ・福州・寧波・上海などの開港を骨子とした南京条約を結び、
その勢力を大幅に拡大することに成功した。続いて61年には北京条約により、阿片の交易を認めさせ、その貿易収支を
大幅な黒字にしたわけである。勿論、米国も指をくわえてこの英国の進出を眺めていたわけではない。48年の米墨戦争
(対スペイン)の勝利により、カリフォルニアを領土に組み.込んだ米国の、次なるフロンテイアがアジアであったことは、
当時の財務長官ウォーカーの年次報告書に如実に表れている。


 最近の太平洋沿岸における領土の獲得によって、アジアは穏やかな太平洋を挟んで、突如、我々の隣人となった。そして、
この隣人はヨーロッパ貿易のすべてを合わせたよりも一層大きな貿易を持つ航路の上に、我々の汽船をさしまねいている。
(日本開国史、石井孝著)






第7章 日本開国に遅れをとった英国

 一方、英国は1810年にインドを植民地化したのに続き、19年にシンガポール、26年にはビルマを手中に納め、中国へ
進出する地盤を固めていた。ティ・クリッパーの競争でよく知られている中国のお茶は、18世紀以来英国を始め欧州での
必需品となっていたが、物産の豊かな中国は外国品を輸入する必要はあまり無かったため、英国は極端な輸入超過に
悩んでいた。このため、英国はインド産の阿片を中国に売り込み、これを禁止し
ようとした中国との間に40年に阿片戦争が
勃発した。



 先に記したように、英国は阿片戦争を通じて、中国を自国経済の管轄下に置くことに成功した。それまでに、インド・シン
ガポール・ビルマを手中に収め、さらに中国まで侵略を進めてきた近代資本主義の先駆たる英国の手で、日本の開国は
行われて当然であった。また、誰しもそう考えたに違いない。
 この日本の開国については、当時の英国駐中貿易監査官
デービスは、45年5月6日
の外相アバデイーンに宛てた書簡の中で次のように記している。

 清国からの賠償金の支払いが完了するのと引き換えに、舟山列島から撤兵がなされるのを46年初期と予想し、撤兵に
よって浮いた艦隊の一部に護衛されて海路海上におもむき、その威力を借りて通商条約の締結交渉を開く。

(日本開国史石井孝著)


 この進言はアバデイーンに認められたにもかかわらず、46年7月の広東入市問題にからみ、再び両国の間で紛争が生じ
たため、日本開国の問題は後回しにされてしまつた。しかも、デービスの後任として中国に赴いたボナムは対日問題には
無関心で、外相のパーマストンも対日交渉には乗り気でなかった。というのも、英国の資本家達は中国がまだまだ広大で
開発の余地があり、一層の貿易の拡大が期待できるのに対し、目本は取るに足らない市場であると考えていたようである。
このため、中国との貿易を行うには、当時の航海能力から中継点として日本に寄港せざるを得ない米国に遅れをとることに
なる。

 とはいうものの、実質的な日本市場の開拓と拡大が、やはり英国の努力によって行われたことは違いない。横浜港が
開港した1860年以降、日本全国の貿易額の大半が同国で占められ、しかもその.貿易を行ったのは開港と同時に香港・
上海及び本国からやってきた英国人達であった。勿論、米国においても極東とは中国を指しており、同国の対中貿易は
1784年から始まっていた。貿易品としては、中国からは茶・絹織物・雑貨、中国へは毛皮・各種金属であったが、特に
毛皮は北太平洋岸の原住民から略奪に等しい交換で入手したもので、一航海で5,6倍の利益を得ることも可能だった
ようである。



 ところで、英国で18世紀末から19世紀初頭にかけて進んでいった産業革命の波は米国にも伝播した。特に綿工業に
ついては、従来の米国が原綿を生産輸出し、英国が加工して再輸出するという国際分業のスタイルは急速に失われ、
19世紀も半ばになると、米国の紡錘工業は本家英国の半分にまでその生産力を伸ばした。そして、この出来あがった
これらの製品を英国を通さずに中国に輸出できるならば、中国の市場を独占的に握ることが可能となる。すなわち、50年
には102万ポンドに達していた英国の中国に対する綿製品の輸出額を、そっくり米国の歳入として勘定することが可能と
なる。後はその輸送手段さえ解決できれば。そして、米国東インド艦隊司令長官ペリーにより54年3月31日に日米和親
条約が、
58年7月29日には米国総領事ハリスにより目米通商条約が調印された。しかし、実際に日米の定期航路が
パシフィック・メール・ラインによって開設されたのは、10年後の67年1月24日のことだった。何故、10年もかかったの
だろう?






第8章 南北戦争によるアメリカ船の衰退

 1860年、米国の南部と北部の対立が激化する中で、北部から大統領として立候補したリンカーンが当選するや、最初に
サゥス・カロライナ州が北部との分離を宣言した。これに他の南部諸州も追随し、「アメリカ連邦」を組織してを大統領として
立地モンドを首都に定めた。その後、この動きにさらに南部四州が加わり、結局南部側が11州、残り23州が北部側に
結集した。61年に南北戦争が勃発すると、南部側の大統領ジェファーソン・デービスは南部の船主に要求してを組織し、
北部所属の商船を捕獲しようとした。ところが、もともと南部は主要産業たる綿花の輸送を欧州の船主に依存していたため、
持ち船は北部に比べ決定的に少なかった。一方、北部の大統領のリンカーンは、南部の海岸線のヴァージニアよりテキサスに
至る全海岸の封鎖を宣言した。このことに加え、英国・フランスは中立を宣言して、南部のの引き受けを拒んだことから、この
私掠船の活動は一年足らずで終わってしまった。けれども、この圧倒的な所有船舶の差については南部側もよく承知していた
ため、かねてから英国の造船所に二隻の砲艦を注文していた。



 この発注は北部に間もなく漏れ、時の駐英米国大使アダムスは英国に繰り返し抗議するが、英国はこれを無視した。
無視したというよりも、北部に集中していたヤンキー・クリッパーに大きな損害を与えることを期待していたようだ。この建造
された二隻の砲艦の一番船オレト号は、62年3月に非武装のまま英国商船としてバハマに回航され、その地で別便で
送られた武器を装備し、船名もフロリダ号と改めて南軍に引き渡された,。二番船も、建造中は309トン号、進水してからは
エンリカ
号、南軍に引き渡されてからはアラバマ号と次々と船名を変え、北軍の船を破壊する任務についた。この二隻の中でも、
アラバマ号は約二年間に亘り、北大西洋から西インド諸島・南米海岸・ケープタウン・インド洋・マダガスカル・セントヘレナ・
ブラジル・英国海峡と広範囲に荒らし回り、その撃沈した船は蒸気船1隻、帆船67隻に達したといわれている。当時の米国の
船舶保有トン数を見ると、南北戦争が始まった61年には2,496,844トンであったものが、その四年後、すなわち南北
戦争の終了した65年には1,518,350トンと激減している。これは、その期間中の米船同士の破壊によるものに加え、
荷主もアメリカ船積みを控え、保険会社も保険料を引き上げるというトリプル・パンチを被ったため、アメリカ船が次々と外国
船主に売却されたためでもあった。






第9章 一番船コロラド号の到着

 1865年に南北戦争が終了すると、100万トン余りも損失してしまった米国海運を再建するために海運補助法が制定され
たが、この公募に応じたのは南米と東洋の航路に各々一社づつであった。



 ユナイテッド・ステーツ・アンド・ブラジル・メール・ライン▽航路"ニューヨーク/リオ・デ・ジャネイロ▽出帆回数=毎月一回
 ▽船型=2,000トン以上▽契約期間10年▽年額補助金=15万ドル



 パシフィック・メール・ライン▽航路=サンフランシスコ/フィラデルフィア/日本/中国▽出帆回数=毎月1回▽
 船型=4,000トン型四隻▽契約期間10年▽年額補助金時50万ドル





 パシフイック・メール・ラインはゴールド・ラッシユ以降も、東岸から西岸のサンフランシスコに移住する者達の輸送を
続けており、加えてサンフランシスコ/メキシコ間、同/サンドウイッチ諸島間、パナマ/中米間と次々と航路を開設していた。
そして、同社はこの東洋の新航路を開設するため、四隻の外輪船をニューヨークの造船所に発注し、最初の船グレート・
リパブリック
(3,881総トン)進水したのは66年8月のことであつた。他の三隻は4,750トン型のチャイナ号・ジャパン号・
アメリカ
号であったが、先のグレート・リパブリック号は竣工後ケープ・ホーンを回ってサンフランシスコに回航されたため、
太平洋横断の一番船として栄誉を担ったのは、65年に建造された3,728トンのコロラド号であった。このコロラド号の
横浜到着について、当時来目していた英国人J・R・ブラックは次のように記している。




 1867年1月24日、その第一船のコロラド号が横浜に着いた。登録トン数3,750トン、この海域ではこれまで見られた
汽船の中で最大の商船であるばかりでなく、客船としてもスエズ地峡からこちら側で、インド、中国との貿易に従事している
他の汽船は、コロラド号に比較すれば小人同然であった。1,200トンの石炭運搬能力に加えて1,500重量容積トンの
積荷を運び、そのうえ一等先客約3百名、二等2百名、ほとんど無制限といってよいほどの三等船客に、ホテルのような
設備を提供することを、これまでの汽船でどれが出来たであろうか。ところがコロラド号はそれが出来た。しかも、コロラド号に
続く同様の汽船は、これらの能力において、コロラド号をはるかにまさっていた。コロラド号の処女航海は、サンフランシスコ・
横浜間を実に22日半かかり、その間、エンジンを止めず、消費石炭量は950トンであつた。(大君の都、東洋文庫)



 この老朽船でさえ絶賛されているのだから、後の新鋭船四隻を迎えた横浜の住民の驚きはどのようなものであったのか、
おして知るべしであろう。






第10章 初代所長アーウイン

1867年1月をもつて、パシフイック・メール・ラインのトランス・パシフイック・サービスが開始されたが、
その内容はサンフランシスコ
/横浜/香港問を29日で結ぶものであった。このサービスのため、同社は横浜に事務所を
開いたが、その位置が居留地四番館A
(現在の横浜税関辺り)であったため「四番社」と呼ばれていた。同事務所の初代
所長として赴任したのは、一番船コロラド号入港前年の11月6日に横浜に到着したロバート・ウオーカー・アーウィン
であった。彼はペンシルバニャ出身の弱冠23歳で、胸のうちには日本という未開の地に赴任する不安と恍惚が錯綜して
いたことだろう。

彼が扱った客の中には、勝海舟の子息の小鹿や後の総理大臣の高橋是清など、歴史に名を残す者も多かった。同氏は
赴任して2年後には三軒隣のウオルシユ・ホール商会に転職して、その長崎支社に赴任した。また1882年には当時の
三菱会社の独占に反対して、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中島帆船会社の三社が合併して設立された共同運輸
会社の顧問にも就任した。ほかにも、駐日のハワイ公使として日本人のハワイヘの移民に功績を残し、精糖事業にも大きな
関心を示して台湾精糖株式会社
(現・台糖株式会社)の創立(1900年)にも参画するなど、我が国の外交・貿易ならびに
産業の発展に大きく寄与し、晩年には勲一等旭日大綬章を授与された。

ちなみに、アーウィンが横浜の初代所長に就任した当時の、横浜/サンフランシスコ間の船賃を慶応3年(1867年)発行の
萬国新聞で見ると、「上等、250j、中等170j・支那中等100j、外国下等85j、日本下等50j」となっている。

さて、1867年8月、パシフィック・メール・ラインはサンフランシスコ/横浜/香港間の基幹航路を補完するため、
横浜
/長崎/上海を結ぶ支線航路でのサービスを開始した、このサービスの一番船として投入されたのは、63年に建造された
コスタリカ号
(1,917総トン)であった。





第11章 定期船の台頭と蒸気船による世界一周の完成

船にはその分類方法として色々あるが、その一つとしてライナーと呼ばれる定期船と、トランパーと呼ばれる不定期船が
ある。文字通り、定期船は決められたルートを一定の規則性に基づき運行される不特定荷主を対象とする船舶であり、
不定期船は三国配船も辞さない特定荷主のオーダーによって運行される船舶である。海運史上で定期船のサービスが始まっ
たのは、それほど古いことではない。


1818年、米国のブラック・ボール・ラインという船会社が、ニューヨーク/リバプール間に帆船フリア号を投入したのが
定期船の始まりであった。しかし、帆船による航海では出帆スケジュールの予約がせいぜいであり、到着の予告が広報される
には蒸気船の発達を待たねばならなかった。ちなみに、両端の港を包括した定期船サービスは、1843年に英国のゼネラル

.
スティーム・ナビゲーションにより開設されたロンドン/ハンブルグ/ロッテルダム間のものが最初であった。

さて、神戸港が我が国で初めて定期船を受け入れた港では勿論ない。1854年の日米和親条約(神奈川条約)に基づき、
それから五年後の59年にはまず神奈川
(翌年横浜に変更)、長崎・函館の三港が諸外国に開かれた。この年には早くも英国の
ペニンシユラ・エンド
.オリエンタル・ライン(通称P&O)、外輪蒸気船エイゾフ号(700総トン)他を同社の欧州/中国間
航路の支線サービスとして上海
/長崎間に投入し、月一回このサービスを横浜まで延長し、これにより蒸気船による世界一周が
完成した。余談になるが、トマス・クック社が世界版の時刻表を発刊したのは年、フランスの作家ジュール・ヴェルヌが
「八十日間世界一周」を書いたのは1874年のことである。






第12章 神戸港定期船一番船コスタリカ号

兵庫(後に神戸)が開港したのは1868年のことだが、同港で定期船の第一号と認定されたのは、パシフィック・メール・
ラインのコスタリカ号であった。同船は63年にニューヨークのウエブ造船所で建造された木造外輪蒸気船で、全長81.9m
、幅11.6m、深さは8.2mで、1,950馬力のエンジンを搭載し、航海速力12ノットを出すことが出来た。
神戸港への初入港は開港年68年の1月22日のことで、その日のうちに横浜に向けて出港しているが、この時の神戸の
代理店はスミス・べーカー商会であった。


このコスタリカ号を神戸港に寄港する定期船の一番船とする根拠は次の通りである。当時の荷役は貿易章程によって、
東運上所
(現・税関)の吏員立会いのもとに、日の出から目没までとされ、祭日・休日は休みとなっていた。けれども、
定期船はパケット・ボートと呼ばれていたように、国際郵便の運送という重要な使命を帯びていたため、時間外の荷役に
ついての要望も強かった。このため、慶応四年六月
(68年)にはフランス・オランダ・プロシアの領事と東運上所との
協議により、とりあえずコスタリカ号が特権船として認められたことによる。というのも、当時は電信ケーブルも香港まで
しか敷かれていなかつたので、本国との連絡手段は定期郵便船に依存するしかなかったからである。

勿論、我が国への寄港で先行していたP&Oやフランス帝国郵船も、貿易の拡大と共に神戸への定期寄港を翌年から開始し、
この特権を利用せんと自社船を定期船として申告し始めたため、運上所は70年7月には兵庫県外務局を通じて、外務省に
願い出のあった船について、その真偽を確認するといったことまで行われている。ちなみに、同年8月に外務省から連絡
された郵便船は次の通りである。



P&O(英国)=マドラス、エイデン、マラ()カ、ソンダー
フランス帝国郵船(フランス)=ウヲルカ、シフレッキ、ラボルトンネー
パシフイック・メール・ライン(米国)=アメリカ、チャイナ、グレート・コプチック、コスタリカ、オレゴニア、
ゴールデン・エージ、ニュヨルク、ジャッパン、コロラード          (神戸税関百年始年史ママ)

なお、この時の「飛脚船たりとも、夜仕役を定式の、様に心得候手は不都合に付云(神戸税関百年史)の回報に基づき、
その後は願い出の時々において、その理由を検討して認めることにしている。






第13章 黎明期の日本の海運

 この時期の本邦海運の状況を、神戸港を中心として概観してみる。コスタリカ号の定期寄港を嚆矢と
して、開港翌年の69年からはP&0がアスピナル・コーンズ商会を代理店として、外輪蒸気船エイゾフ
(
746総トン)等を、不定期にではあるが上海/長崎/横浜間のウェイ・ポートとして神戸への寄港を
開始し、これはフランス帝国郵船も同様であった。5月には、居留地七番のオランダ人アデリアンが、
フヰロン(260総トン)オーサカ(664総トン、元・英シャンハイ)の二隻を投入して、
神戸/長崎/上海間のサービスを開始する旨の広告が、当時発行の「兵庫ニュース」に掲載されているが、
その後のスケジュール表を見ると、実際に就航したのはフヰロン号一隻のみで、それも三ヶ月に1回
程度のものであった。



 また、神戸港は大阪湾で唯一の条約藩として開港したものの、商業の中心は依然大阪であったため、
小蒸気船ではあったが開港年68年の5月ころには阪神間に定期の連絡船を走らせる会社も現れた。
その代表的なものは、米国マウス商会のスタンチ(不明)で、同船は同年2月6日に長崎より到着し、
その時の船主は英商グラバー商会であった。同社に続いて、米国スミス・べーカー商会がオーヘン
(130トン)、仏商がタイヤン(不明〉、李国(プロシア)のレイマン・ハートマン商会のハビット
(不明)、米国ツレジング商会がバーロン(不明)を投入した。



 一方、日本海運の主流は依然として菱垣廻船などの大和型帆船であったが、66年には薩摩藩が
開聞丸
(664総トン、元・英ヴィオラ)で、長崎/薩摩/兵庫・大阪湾
を結ぶ航海を行っていた。
また、68年末には大坂運上所が蒸気船浪華丸(250トン、元・英ヴォルカン、後に日本郵船の浪花丸)
グラバー商会から購入し、半年間英国人航海士の指導を受けた後、神戸/大阪/横浜間の航路を開設した。
このように、明治初期の蒸気船による海上輸送は、外国の手により行われており、我が国の海運には
見るべきものは未だ無かった。






第14章 パシフイック・メール・ラインの野望と日本海運の反撃


明治維新が行われ、最後まで残っていた兵庫も開港した1868年は、海運・貿易ともに外国人のイニ
シアチブにより行われていた。僅かに大阪運上所の手により神戸/大阪/横浜間で定期航海が始まったが、
これも外国の指導の下に行われているのが実情であった。これに目をつけたパシフイック・メール・
ラインは、目本の沿岸輸送の独占を図り、69年には先のコスタリカ号に加えてニューヨーク
(2,217
総トン、後・三菱会社東京丸)オレゴニアン(1,914総トン、同名護屋)ゴールデン・
エージ
(1,869総トン、同廣島丸)の三隻を、横浜/上海間の支線サービスに投入すると共に、明治
政府に対して「目本沿岸の運搬を開き、これを盛んならしむべし。若し未開の人民にして其業を容易
に起す能わず、政府亦起業し能わざる事情あらば、尽く之を当社に命任の特許あらんことを請ふ」
という建白書を出した。そして,横浜/函館間にエリエル(1,736総トン)を投入し、月一回の定期
サービスを開始したが、同船は6月には遭難してしまった。



 この建白書に激怒した明治政府は目本海運の強化育成を図るため、その翌年の70年2月に初の
国策海運会杜「廻漕会社」を設立した。そして13隻の船舶の運航を委託し、東京/大阪間に月三回
一の日に出港する貨客輸送サービスを開始したが、これに横浜と神戸への寄港が一日づつ加えられた。
投入された13隻は次の通り。




 旧幕府輸送船長鯨丸(1,462総トン、元・英ダンバートン)須磨浦丸(887純トン、元・英バハマ)
黄龍丸(811総トン、元・英コロンバン)玄龍丸(802総トン、不明)淡路島丸(517純トン、元・英
アンダイン
)大有丸(581総トン、元・英ウイルヘルミナ・エンマ)有功丸(541総トン、不明)
赤龍丸(533総トン、元・英コアラ)成妙丸(383総トン、元・英アタランタ) その他紀州藩、
佐賀藩、加賀藩から借り受けた4隻





 この会社には当時の地租が米の現物納であったことから、貢米輸送の独占権が与えられるなど、
政府の手厚い保証があった。にもかかわらず、業務を開始して僅か十ヵ月後の12月9日に、東京
為替会杜に15万7496円の借入金を残したまま、経営不振のため大蔵省から解散を命じられた。
その理由としては、「乗船を望む者は該社へ申出、相当の乗船賃金を支払い便を乞うべし」という
具合に、経営方針がきわめて官僚的であり、また、高船齢に比較して運賃が高すぎた等の理由に
よるもので、同社の船は71年1月に新設された「廻漕取扱所」に継承された。さらに、同年8月に
廃藩置県が行われると藩所有の船舶は新政府の所有に変ったため、72年8月にはこれらの船の
有効利用を図る事を目的として、「日本国郵便蒸気船会社」が設立された。同社は本社を東京霊岸島に
置き、東京・横浜/大阪・神戸間の定期航路と石巻/函館間の不定期航路を開設し、この翌年には
阪神/琉球間の定期航路を開設した。この阪神/琉球問の航路開設に力を注いだのが、川崎重工業
の創立者の川崎正蔵であり、同氏はその後同社の副頭取として活躍した。



 また、このような政府の海運助成策とは別に、私企業による海運活動も現れた。紀國屋萬造は
70年中に紀萬汽船を起こし、神戸/横浜間に紀州藩から借受けた千里丸(1,209純トン、元・英チリ)
萬里丸(996総トン、元・英デンバー)等6隻を投入した。また、これと相前後して、兵庫東出町の
薩摩屋が兵庫/鹿児島間に島津家所有の汽船豊端丸(771総トン、元.ナンバーワン)寧盛丸(不明)
を投入したとの記録がある。特に紀萬汽船のサービス開始は、後のパシフイック.メール.ラインと
三菱蒸気船との間の、我が国海運の興亡をかけた争いの前哨戦とも見られ、別表の神戸/横浜間の
旅客運賃を掲げて競争したが、パシフィック.メール.ラインの圧倒的なカの前にあえなく敗退して
いったようである。




当時の神戸/横浜間の乗客運賃

 

アメリカ四番館

紀萬汽

下等

銀貨10枚

 7円50銭

中等

銀貨25枚

  14円

上等

銀貨40枚

  25円






第15章 九十九商会の発足


 現在の日本郵船鰍フ前身「郵便汽船三菱会社」は、1870年に土佐九十九湾に由来する九十九
商会と云う名前で発足した。同社は今で言えば第三セクターというか、表面は私商社を装っていたが、
藩の意向を受けて利潤を上げるため設立された会社で、藩船の夕顔丸(前掲)紅葉賀丸(前掲)
鶴丸
(前掲)の3隻の船で、大阪/東京、神戸/高知問の海上輸送を開始した。その後、同社は72年
(明治五)1月に「三ツ川商会」、翌年3月には「三菱商会」と改名し、岩崎個人会社の色彩を深めて
いった。同社の発展の契機は良く知られているように、74年に勃発した佐賀の乱での政府への貢献が
挙げられる。この佐賀の乱は内に旧武士の不平不満、対外的には大幅な入超(開国当時の海外への銀の
流失はすごいものであった)と云う問題を捉えて、政府内部には貿易を渋っている韓国を植民地に
すべしと云う西郷隆盛らの征韓論者と、国内の経済強化の先決を説く岩倉友美らとの確執の結果、
征韓論者に属する江藤新平が故郷佐賀で乱を興したもの。この時、三菱商会は政府の命により2隻の
船を動員して軍需輸送にあたり、時の内務卿大久保利通や大蔵螂大隈重信の新任を勝ち得たもので
あった。続いて同年、台湾に漂着した琉球の漁民を殺害した事への報復を口実とする台湾征討の折りも
そうであった。日本政府はこの軍需輸送を外国船、特にパシフィック・メール・ラインに依存しよう
としたが、同社は局外中立を宣言し、英国を始め他の外国船もこれにならった。このため,目本政府は
急遽海運顧問のお雇い外国人であった英国人船長ブラウンを香港に派遣し、東京丸(2,217総トン、
ニューヨーク)他12隻を銀157万6800ドルで購入したが、郵便汽船三菱会社(75年に改名)
これらの船の運行を征討終了後も利用できるという約束のもとに引き受けた。これにより、
同祉は半官
半民会社であった先行の「日本国郵便蒸気船会社」を一気に追い抜くことが出来た。






第16章 汽船への信頼度の高まり


 太平洋横断汽船路の設定が、支那に対するロンドンとニューヨークの地位を傾倒すると、マルクスが
評価したのは1850年の事だった。確かに67年にパシフイック・メール・ラインが太平洋横断の
定期航路を開設したとき、パナマ鉄道経由のニューヨーク/支那のルートよりも3000マイル近くも短
かった。けれども汽船はまだ帆船を凌ぐほどの採算性を挙げておらず、石炭の補給基地の不足から
遠洋航路には向かないと考えられていた。そして、19世紀末の前半に米国で開発されたクリッパー型
帆船は、―時的にしろ支那/英国間のお茶の輸送で、汽船を打ち負かす事が出来た。




 然し,意外とこのクリッパー型帆船の衰退は早かった。というのは、蒸気船への飛躍的な信頼度の
高まりである。65年に英国のアルフレッド・ホルトの考案による多段膨張機関(コンパウンド・
エンジン)を搭載した蒸気船が、英国のリバプールと東アフリカのモーリシャス島間の8,500マイルを
ノンストップで航行する事に成功した。このアルフレツド・ホレトの名前はオーシャン・スチーム
シップ(通称=ブルー・ファンネル)の創業者として良く知られている。



 それまでのエンジンはワットが発明した単成蒸気機関のバリエーションであったが、50年代になって、
英国のジョン・エルダーはボイラーの改良と蝕面凝結器により作り出される高圧蒸気を利用して、
二段膨張機関を開発した。これは従来の燃料消費を半分に節約できるという画期的なもので,このことは
ひいては積み荷スペースを大幅に拡大する事を可能にした。



 最初にこの機関を採用して、南アメリカ太平洋岸の航路を開設したのはパシフイック・メール・
ラインだつた。英国の



 POも60年建造のムルタン(2,257総トン)から同機関を採用したが、この多段膨張機関への
決定的な信頼をやはりアルフレッド・ホルトであった。彼は66年、同機関を備えたいずれも頭文字にA
付けられた三隻の蒸気船アガメノン(2,300総トン)、エイジャックス号()、アキレス()で、
喜望峰経由の英国/支那間の定期航路を開始した。このホルトの新鋭の蒸気船は3,000トンの貨物を積み、
10
ノットの速力で8,500マイルをノンストップで走破できた。そして1千トン積みの帆船が、福州/
ロンドン間を平均120〜150日間要したところを77日間で定期航海できた。これは帆船時代の
終焉を告げる出来事であった。






第17章 その他のアメリカ船


 この頃のパシフィック・メール・ライン以外の、アメリカの船会社の動向を簡単に記すと、



アメリカ汽船会社 1866年にボストンで資本金125万ドルで設立された。3,000トン型の
木造暗車船2隻で、ボストン/リバプール間に定期航路を開設したが、僅か一年で廃業した。




グニオン・ライン 1866年にニューヨークのS・ビーギオンによって設立され、ニューヨーク/
リバプール間の定期航路を開設したが、74年の不況に耐えきれず、持船全部を手放した。79年頃の
景気回復と共に、ビーギオンはアリゾニア号(5,150総トン)とアラスカ号(不明).両新造船で
サービスを再開した。この両船は非常に優秀な船で、大西洋のスピード競争の皮切りにもなった船で
あり、アリゾニア号は82年に東航で6日と17時間30分の、当時としては驚異的なスピードで同年の
ブルーリボン賞を獲得した。しかし業績は依然回復せず、85年の同氏の死去と共に解散の運命を
辿った。




ルーシャス兄弟会社 1866年にニューヨークのルーシャス兄弟は北米ロイド社を創立し、アトラン
ティック号(不明)、バルチック号()、ウェスタン・メトロポリタン号()の3隻で、ニユーヨーク/
サザンプトン/ブレーメン航路を開設したが採算が合わず、翌年にニューヨーク・ブレーメン汽船会社を
創ったが、これも不成功に終わった。さらに68年には5隻のチャーター船でサービスを再開したものの、
チャーター料が高かったため失敗。けれどもこの兄弟はヤンキー魂に富んでいたのか、この翌年には
ニューヨーク/ステッチン/コペンハーゲン/クリスチャンサンド間の航路を開設した。この航路では
英国船・ドイツ船がすでにサービスを行っていたため、この同盟を組んだ両国船対ルーシャス兄弟の
猛烈なファイテイングが始まり、両国船はルーシャス兄弟の船が出航するのと同じ日に、非常な低運賃で
船を出した。同兄弟は最後の試みとして、70年にヨーロッパ汽船会社と名を改め、オーシヤン・
クイーン号(不明)、ライジング・スター号()
の2隻を投入したが、結局これも失敗に終わった。




 このように、1860年代から70年代にかけてアメリカ船は太平洋では大きく勢力を伸ばしている
のに対し、大西洋では尽く敗退している。この背景としては、太平洋ではパシフイック・メール・
ラインは年額五〇万ドルの補助金を得てしかも競争相手のいない独占航路であったのに対し、大西洋は
運行に補助金を得ている船会杜は少なかった。米国/欧州間の郵便運送については、66年に米国の
ジョンソン大統領はニューヨークのコマ:シャルーナビゲーションに大西洋航路の十五年間の独占権を
与える代りに、ニューヨーク/クインズタウン/サザンプトン/ブレーメン間に週一回から二回の定期船
サービスを実施する事を求めた。




 しかし、時の郵便長官は米国以外の外国船が週四回のサービスを行っているのに、数少ない発着回数の
同社と契約する事は理由がないと反対して回り、結局は大西洋における自国船の発展を自ら閉ざして
しまったからである。







第18章 航路助成の決議


 このようにアメリカ船の不振の中、漁夫の利を得ようと外国船が出現するのは当然のことだが、
19世紀も最後の四分の一世紀に入ると、心有る者はアメリカ海運の振興について次々と意見を
述べるようになる。1873年、大統領グラントは「合衆国のごとき広大なる資源を有する国は、
もはやいかなる犠牲を払っても、海洋に進出しなければならない日が来るに違いない。されば一日
進出が遅れれば一日犠牲を大にし、かつ、それだけ目的達成を困難ならしめるであろう」と語り、
自国海運の再興に大きな関心を寄せた。その後の歴代の大統領も同様の意見を述べているが、
1891年になる都議会は次のような郵便助成を行うことを決議し、外国船に掌握されている割高な
運行費を削減して、海外郵便の促進を図ろうとした。



  まず、この助成を受けられる条件として、船舶を一級から四級に分類した。一級船とは鉄又は鋼製で、
総トン数は1千トン以上でかつ速力20マイル以上出るスクリュー船とし、特に競争の激しい欧州/
米国間はこの条件を満たすことが絶対必要とされた。二級船は南米航路あるいは東洋航路に投入する
船型として、総トン数が5千トン以上でかつ速力が16マイル以上出るスクリュー船とし、三、
四級船はこれに準じるタイプとした。乗組員にも条件がつけられ、@最初の二年間は乗組員の四分の
一以上が米国海員であることA次の三年間は三分の一以上が米国海員であることBそれ以降は半数
以上が米国海員であること、とされた。さらに受命会社は総トン数1千トンにつき、21才以下の
米国少年皿人を見習い水夫として乗りこませることとあり、当時海員の養成も急務であった事を
うかがわせている。この補助として一級船は往航ーマイルにつき4ず、四級船は066ドルが支給され、
その契約は5/10年とされた。しかし、これも最初に同法案が議会を通過した時の額に比べ,三分の一も
減額されたものであったため、各社は船舶の新造をためらった。



 その結果、政府が81年に米国と世界を結ぶ43の航路を募集した時(内、日本/支那は三航路)
応募したのは半数に満たない21航路であった。このように海運に対して米国の企業家がその投資を
渋ったのも、南北戦争以降急速に米国は内陸部が発達し、工業・農業・林業・牧畜業ともに安全な投資
対象になってきたからであった。ちなみに70年の米国の鉄道全長は五万二千九百マイルであったが、
67年から73年にかけて大陸横断鉄道が完成し、80年には9万2千マイル、90年には十六万七千
マイルの全長となった。すなわち、この時期は米国のインフラの充実期であったため、外航海運の投資は
後出に回り、この結果、パシフイック・メール・ラインが首尾良く米国政府の受命を獲得したわけである。






第19章 日本国郵便蒸気船会社対三菱商会


1874年(明治7)の「征台の役」の最中も、半官半民の「日本国郵便蒸気船会社」と三菱商会の間では、
熾烈な競争が繰り広げられていた。三菱商会は同年4月には地方の特産物の、一手輸送積み取りに成功
したし、同じ年のト
.月には三菱の大阪支店は「促進飛脚」を制定し、阪神間の日本国郵便蒸気船会祉に
関する一切の情報を、東京の本社に通報して運賃を決定した。この結果、75年に至って日本国郵便
蒸気船会社は解散し、その所有船は三十二万五千円で一旦政府に買いあげられ、三菱商会に貸し下げ
られることになるが、当時の世評としては同社の解散について次のような意見があった。

主なる、一つは汽船会社の重役はいずれも武士的で傲慢な態度を取ったのと、その後、会計法の改正で
予期の六十万円が下付されないため意気喪失したのと、また一つは岩崎彌太郎の術策に敗れたのが故で
ある。
(福沢諭吉)

これを一口に言うと、官僚的な体質とサービス精神の欠如と云う事が出来よう。こうして、国内での
競争相手を一掃した三菱商会は、強敵老舗のパシフィック・メール・ラインに戦いを挑む事になる。

明治元年に横浜/神戸/長崎/上海間に支線航路を開設したパシフイック・メール・ラインは、他の
船会社を放きん出た2,000トン級のコスタリカ号
(1,917総トン)、ニューヨーク号
(2,217総トン)、オレゴニア号(1,914総トン)、ゴールデン・エージ号(1,80総トン)の4隻の
外輪蒸気船による定期サービスを行っていた。このため、我が国の沿岸諸港間の旅客・貨物輸送は同社が
独占しており
,当時の新政府の貿易振興策とあわせ,我が国商人の利益は同社の船腹を確保できるかどうかに
かかっていた。こうなると同社の鼻息は荒いもので、パシフイック・メール・ライン横浜支店
「メリゲン四番」といえばその当時の商界を威圧しており、この船腹をあらかじめ確保して商人に
売り付ける者も現れた。「甲仲」である。この勢いに乗じてパジフイック・メール・ラインは我が国の
沿岸輸送をすべて手甲に収めるため、71年に新政府に建白書を送った。


文意は「日本を開発するには、まず沿岸の運搬を盛んならしめなければならぬ。けれども、未開の民には
到底これ乞望めない。政府宜しく率先して企業するか、もし政府に事情が許さないならば、我が社に任命
して特許を与えて欲しい」というもので、当時の我が国の海運はこう言われても仕方がないほど脆弱な
状態にあった。しかし、員絡みの目本国郵便蒸気船会社を解散に追いやるまでに力をつけていった三菱
商会は、75年こ月に横浜
/兵庫/長崎/上海航路を開設し、ここに両者の間で猛烈なファイテイングが
始まった。勿論、三菱商会は大久保内務卿より政府所有の船舶
13隻及び郵便蒸気船会社から買い上げた
船の運航を委ねられており、しかも年々二十五万円の助成金を下付されていた。当時のパシフィック・
メール・ラインとこれに挑戦する三菱商会の運賃表を次に掲げる。この運賃で分る通り、三菱商会は
先発のパシフィック・メール・ラインに対し、
20/30%の運賃ダンピングをもって航路に割り込んで
いったのである。







第20章 上海航路での競争


さて、三菱商会の上海航路の第一船は、前年に政府が購入し同社に貸し下げた東京丸(2,217総ノ、
元・米ニューヨーク
)であった。75年2月3日横浜港を出港し、上海を中継港として欧米へ輸出する
茶と陶器を積んだ同船には、副社長の岩崎彌之助が乗船していた。ちなみにこの当時の日本の海外貿易
については別表参照
,この一番船以降、金川丸(1,185総トン、元・英マドラス)、新潟丸
(2,032総トン、元・英ビーハル)、高砂丸(2,212総トン、元・英デルタ)が順次投入された。
この計四隻によるサービス形態は、毎週水曜目に横浜を出港し、神戸
/下関/長崎に寄港して八日目に
上海に到着するというものだった。これを迎え撃つパシフイック・メール・ラインの船は、コスタリカ号
(2,492総トン)、オレゴニアン号(1,914総トン)、ゴールデン・エージ号(1,870総トン)、ネバダ号
(2,146総トン)の四隻の木造外輪船であった。皮肉な事には三菱商会が一番船として投入した東京丸は、
もともとパシフイック・メール・ラインがニューヨーク号として70年から同航路に投入していた船
である。話を元に戻すと、パシフィック・メール・ラインは三菱商会の船が出港した翌日に横浜と
ヒ海の両側から船を出すスケジュールを組み、この競争のため運賃は当初の三分の一以下に押し下げ
られ、三菱商会の被った損害は月二万円前後に上ったといわれる。一方、米国の鉄道会社のユニオン・
パシフイック仕とセントラル・パシフイック社は、74年に共同出資でオクシデンタル・アンド・
オリエンタル・ライン
(東西汽船)を設立し、翌年一月からサンフランシスコ/香港間の定期航路を
開始していた。このサービスに投入されたのは、英国のホワイト・スター・ライン系のオセアニック
汽船からチャーターしたオセアニック号
(,700総トン)、ベルジック号(2,652総トン)
ゲーリック号
()、他隻の計四隻であった。この参入により、パシフィック・メール・ラインは
サンフランシスコ
/香港というメインの航路での激しい競争、特に米国に向かう中国移民の争奪戦を
余儀なくされた。


従って、パシフイック・メール・ラインの横浜/上海航路からの撤退は、三菱汽船との争いに敗れた
ことの他に、メイン航路存続のための支線航路の切捨てと見るほうが妥当かもしれない。事実、同社は
三菱汽船と競争に入る前年に、すでに秘密裏に日本政府に同航路の売却を持ちかけていたのである。







第21章 支線航路の売却


1875年(明治8)、パシフイック・メール・ラインは横浜/上海問の航路の売却に際し、前年に大蔵省に
申し出ていた額よりも遥かに安い額を提示し、急速に両者の話はまとまった。ここに岩崎彌太郎は政府に
対し、同航路買収のための費用の拝借を申し出る事となる。その結果、卜月レ六日に郵便汽船三菱会社
(前月に名称を変更していた)とパシフイック・メール・ラインの間で次のような譲渡契約が交わされた。
三菱はパ社に洋銀78万ドルを支払うパ社は三隻の外輪汽船コスタリカ号、オレゴニアン号、ゴールデン・
エージ号を付属品と共に三菱に引渡し、ネバダ号を15ヶ月問三菱に貸与する
三菱はネバダ号を上海航路
のみに使用し、米国政府から委託を受けた郵便物を上海航路の送し、貸与期間経過後は三菱に引き渡す

パ社が上海・長崎・神戸で所有している土地・建物・備品、また横浜・神戸で所有している港湾施設
などはすべて三菱に引き渡す
パ社は今後三十年間、横浜/上海航路及び日本の沿岸諸港の間において、
三菱の航路があるところでは海運事業は行わない、といったものであった。


また、この年の1月からサンフランシスコ/上海間で、三隻の汽船を投入してサービスを開始していた先の
オクシデンタル・アンド・オリエンタル・ラインも洋銀三万ドルを受け取り、やはり今後三十年間は横浜
/
上海航路及び日本の沿岸諸港の間において、三菱の航路があるところには立寄らない契約を交わした。
一方、この契約が交わされる以前の六月から、パシフィック・メール・ラインとオクシデンタル・アンド・
オリエンタル・ラインは月一回の協調配船を開始していた。1874年、パシフイック・メール・ラインは
従来の木造船に加えて、当時としては米国最大の二隻の鉄製スクリュー船、シテイ・オブ・トウキョウ号と
シテイ・オブ・ペキン号を建造し、太平洋航路に投入した。この両船の仕様としては、5,000総トン、
長さ128m、巾
14m、喫水11mであった。この両船の就航により、サンフランシスコ/横浜間の航海日数は
従来の42日から僅か12日に短縮された。一方のオクシデンタル・アンド・オリエンタル・ラインも
投入船の大型化を図り、4隻の新造船、ベルジック号
(二代目、4,200総トン)ゲーリック号(同、同)
コプテイック号
(4,376総トン)、ドーリック号(同、4,784総トン)を建造した。

ところが同社の業績は芳しくなく、1888年(明治21)に航路譲渡の交渉を持ちかけたが失敗し、
結局1906年
(明治29)には同航路から撤退した。同社のコプティツク号とドーリツク号はパシフイック・
メール・ラインに売却され、各々ペルシャ号、エイシャ号と名前を変えた。







第21章 シー・アンド・レールの時代


第一次世界大戦前に北米/極東間のサービスに従事していた船会社を列挙しておこう。船会社(国籍)
順である。

 北米大西洋岸/極東エドワード・ペリー社()■バーバー・ライン()■TB・ロイデン()
ハンブルグ・アメリカ・ライン
()、スロマン社()、この三社はUS・チヤイナ・ジャパン汽船
として1898年より共同配船をしていた
アメリカン・エーシャティツク社()■アメリカン・
オリエンタル・ライン
()北米太平洋岸/極東グレート・ノーザン・ライン()■パシフィック・メール・
ライン
()■大阪商船()■東洋汽船()■ローヤル・メール・ライン()■バンク・ライン()
ブルー・ファンネル()■ハンブルグ・アメリカ・ライン()■ダラー汽船()

第一次世界大戦は1914年、くしくもパナマ運河開通の年に勃発しているが、先に挙げた幾つの
船会社が当時の名前のまま現在もサービスを続けているかを考えると、海運業の移り変わりの激しさに
は目を見張らされる。


話を元に戻すと、1900年、パシフイック・メール・ラインはサザン・パシフイック・レールロード
社に株を過半数買収され、その支配下に置かれた。というのは、十九世紀末から二十世紀の初頭に
かけて、米国内の鉄道はその発達と共に貨客の争奪に躍起となっており、鉄道会社と船会社は提携
もしくは系列関係を強化していった。



グレート・ノーザン鉄道はグレート・ノーザン・ライン(大北汽船)を作り、当時としては最大の巨船
ミネソタ号
(20,718総トン)とダコタ号()の二隻を、1905年にフイラデルフィア/日本間に
投入した。なお、この時の日本の代理店は日本郵船であった。ノーザン・パシフィック鉄道も北太平洋
汽船を作り、貨客船三隻をシアトル
/香港間に投入し、ボストン汽船と協調した。ユニオン・セントラル・
パシフイック鉄道は、当初パシフイック・メール・ラインと協調していたが、後にオクシデンタル・
オリエンタル・ラインを作り、独白に配船したことはすでに記した。また、日本船では東洋汽船が
1890年にサウス・パシフィック鉄道と、同年には日本郵船もグレーノーザン鉄道と、ートポール
鉄道と契約を交わしている。まさにこの時代はシー・アンド・レールの時代であり、現在のコンテナ
輸送で日常化している大陸横断輸送(ランドブリッジ)の萌芽の時代であった。







第22章 カナディアン・パシフィック・レールウェイの例


カナデイアン・パシフイック・レールウェイは1881年2月16日に設立された。この目的は
1867年に誕生した北米北部に点在するカナダ自治領の四州、ノヴァ・スコシア、ニュー・
ブランズウイック、オンタリオ、ケベックを鉄道で結ぶものであった。そして、英国郵政省は
バンクーバー経由で、香港への郵便輸送に関して入札を行った。カナデイアン・パシフイック・
レールウェイは一年間
10万ポンドの額で、二週間に一回のサービスを申し出た。

この鉄道の完成が近付くと、太平洋側の終点駅のバンクーバーと東洋を結ぶ船が物色された。
日本及び中国のエージェントとして指名されたのは、エバレット・フレーザー社であった。この
航路はバンクーバー
/ビクトリア/横浜/神戸/長崎/上海/香港を月二回程度結ぶものであった。
このため、七隻の帆船がチャーターされたが、このー番船のW・B・フリント号がポート・ムーデイ
に到着したのは、この大陸横断鉄道の一番列車が到着した三週間後の1886年7月27日のことで
あった。同船は1885年にメイン州バスで建造された837トンの二本マストバーク型木造帆船で、
全長は54・3m、幅10・7mであった。同船の主な積み荷は
100ポンド以上のお茶で、殆どが
ハミルトンやトロント、ニューヨーク向けのものであり、横浜
/ニューヨーク間のトランジット・
タイムは僅か49日であった。続いて、このお茶の輸送にフローラ・
P・スタフォード号、ゾロヤ号、
ビルジア号、キャリー・デイレップ号、ユードラ号、フリーダ・グランフ号が投入された。


この結果が非常に満足のいくものであった事から、同社はこのサービスを汽船に切り替える事とし、
三隻の船が購入された。この三隻の船とはキュナード社のアビシニア号、バタビア号、パーシア号で、
一番船のアビシニア号
(,600総トン)は1887年5月17日に香港を出港し、横浜を経由して
バンクーバー沖に到着したのは6月13日の遅くだった。



当時のバンクーバー・ニュースによると、「市長に市の音楽隊、何百人という人々が船を歓迎するため
波止場に集まった。しかし、船は夜のためにイングリッシユ・ベイに錨を降ろし、翌朝まで新しい
カナデイアン・パシフイック・ワーフに着岸する事は出来なかった」としている。同船には
.
「22名のー等乗客と80名の中国人の三等乗客、予紙の入った袋が三つ、新聞の束が二十一、
そして2,830トンの貨物の殆どはお茶で、シカゴ・ニューヨーク向けのものだった。6月21日に
ニユーヨークに到着した貨物は、試験的に同社の大西洋航路船のシティ・オブ・ローマ号に積み替えられ、
ロンドンに送られた。ロンドンに到着したのは6月29日で、日本から僅か29日の所要日数であった。
まさしく、現在の複合輸送の草分けである。







第23章 増えつづける中国人乗客


1888年まで米国に向かう乗客は増えつづけ、この乗客争奪のためにカナディアン.パシフイック.
ラインは、サンフランシスコを起点にサービスをしていたパシフィック・メール・ラインやオクシ
デンタル・アンド・オリエンタル・ラインと競争し、バンクーバーから南側の太平洋沿岸諸港への
支線サービスを充実させた。ちなみに1861年から71年までのカナダヘの移住者は18万3千人、
次の十年間は倍増して35万3千人、さらに81年から91年までは90万3千人といった物凄い数の
移民が流れ込んだ。このため、同社は先の3隻の汽船に加えて、新たにザンベジ号
(不明)、ポート・
アデレイド号
()、アルバニー2世号()、デューク・オブ・ウエストミンスター号()、アバディー
ン号
()の五隻の船をチャーターした。それらの船は各々二百五十人の一等船客、絹二百三十七枚、
千四百万ポンドのお茶や五万六千ポンドの生糸をバンクーバーに運んできた。


これらの成果を踏まえ、同社は1890年7月には政府との間で、年額六万ポンドの郵便運送に関する
補助契約を結んだ。この契約の内容は、「カナデイアン・パシフイック・ラインは向こう十年間、
四週問にー回の太平洋横断の汽船サービスを行うのに対し、英国政府から4万5千ポンド、カナダ
政府から1万5千ポンドを受け取る。そして、有事に際しての備えとして4・7インチ砲の砲台
(ベッド)を備える。4月から9月までの間は、香港からケベックまでのトランジット・タイムは
684時間とし、12月から3月までの間は、香港からハリフアックスまでのトランジット・タイムを
732時間とする。もし、船又は汽車が予定通り出発できなかった場合は5百ポンドの罰金とし、
24時間遅れるごとに2百ポンドの罰金を課するというものだった。







第24章 エンプレス号で「八十目間世界一周」


3隻の6千トンクラスのエンプレス級と呼ばれる船が、英国のバローにある海軍工廠に発注されたのは
1889年10月12日のことである。この三隻の船はエンプレス・オブ・インデイア号、エンプレス・
オブ・ジヤパン号、エンプレス・オブ・チャイナ号で、この一番船エンプレス・オブ・インデイア号が
スエズ経由で香港に到着したのは1891年4月7日のことであった。この時の同社のうたい文句は
「八十日間世界一周」である。



同船は白い船体に黄色い煙突を備え、煙突のトップは黒く塗られていた。煙突は二本で若干後に傾斜し、
船首はヨットのように突出して三本の低いマストと共に船体をスマートに見せていた。船の要目としては
総トン数が5,905総トン、全長138・6m、幅15・5m、深さ10・0mで、航海速力は
17ノットであった。



1897年にはユニオン・ラインからアセニアン号とターター号が購入され、当初は電信ケーブル
敷設船やアラスカのゴールド・ラッシュヘの旅客船としても使われた。そして、ターター号は
1897年12月には太平洋航路に戻され、同社としては初めてホノルルに寄港し、六百人の日本入を
ハワイに送りこんだ。また、1899年2月にはフィリピンで勃発した反米運動鎮圧のため、
この二隻はアメリカ政府にチャーターされ、ターター号が太平洋航路に戻ってきたのは1900年、
アセニアン号はその翌年の事だった。


1906年にはこの航路の充実のため、ビーバー・ラインからモント・イーグル号が船隊に加わった。
同船は5,498総トンの大きさを持ち、九十七の船室と多数の部屋無しの乗客を乗せる事が出来る
四本マストの船だった。ところが、一方では先の三隻のエンプレス級の船は建造後十五年も経ち、
バンクーバーから香港までのスケジュールを予定通りこなすことは難しくなっていた。また、浅野
総一郎率いる東洋汽船は、1899年にいずれも6千トン級の日本丸、香港丸、亜米利加丸の三隻を
香港
/目本/サンフランシスコ間に投入し、太平洋航路はますます競争の激しいものとなっていった。


そこで、カナディアン・パシフイック・ラインは一気に1万7千トン級で20ノットの速力を出せる
大型豪華客船の建造を計画した。その巨額をかけた二隻の新造船、エンプレス・オブ・エイシャ号と
エンプレス・オブ・ロシア号がデビューしたのは1913年のことである。そして、エンプレス・オブ・
ジャパン号が太平洋横断315回の航海を終え、引退したのは1922年のことあった。その緑と金で
ペインテイングされた竜の船首像は、いまもカナダの博物館に保存されている。







第25章 その他のアメリカ船の動向


この頃の、その他のアメリカの船会社の動向を簡単に記してみよう。

 アメリカ汽船会社=1866年にボストンで資本金125万ドルで設立された。3,000トン型の
木造スクリュー船一隻で、ボストン
/リバプール間に定期航路を開設したが、僅か1年で廃業した。
グニオン・ライン=1866年にニューヨークのS・ビーイオンによって設立され、ニューヨーク/
リバプール間の定期航路を開いたが、74年不況に耐えられず持ち船全部を手放した。79年頃の
米国の景気回復と共に、ビーギオンはアリゾナ号
(5,150総ノ)とアラスカ号(不明)の両新造船でサービスを
再開した。この両船は非常に優秀な船で、大西洋のスピード競争の皮切りともなった船であり、
アリゾナ号は82年に東航で6日17時間30分と、当時として驚異的なスピードでブルー・リボン賞を
獲得した。しかし、業績は依然として回復せず、85年の同氏の死去と共に解散の運命を辿った。

ルーシャス兄弟会社=1866年、ニューヨークのルーシャス兄弟会社は北米ロイド社を創立し、
アトランティック号
(不明)、バルチック号(不明)、ウエスタン・メトロポリタン号(不明)の三隻で、
ニューヨーク
/サザンプトン/ブレーメン間の航路を開設したが採算が合わず、翌年にはニューヨーク・
ブレーメン会社を創ったが、これも失敗に終わった。さらに68年には五隻のチャーター船でサービスを
再開したものの失敗。しかしこの兄弟はアメリカン・ドリーム希求の権化と云うか、この翌年には
ニューヨーク
/ステッチン/コペンハーゲン/クリスチャンサンド間の航路を開設した。しかしこの
航路には英国船、ドイツ船がすでにサービスを行っていたため、この同盟を組んだ両国船対ルーシャス兄弟の
猛烈なファイティングがはじまり、同盟船はルーシャス兄弟の船が出港する日と同じ日に、非常な低運賃
で船を出港させた。同兄弟は最後の努力として、ヨーロッパ汽船会社と名を改め、オーシャン・
クイーン号
(不明)、ライジング・スター号(不明)の二隻を投入したが、結局これも失敗に終わった。

このように、1870年頃にはアメリカ船は太平洋では大きく勢力を伸ばしていたのに比べ、北大西洋
では尽く外国船に敗退している。これは太平洋ではパシフイック・メール・ラインが年額50万ドルの
補助金を得て、しかも競争相手のいない独占航路であったのに対し、大西洋ではその運航に補助金を
得ている船会社は無かった。勿論、米国
/欧州間の郵便運送について66年に時の米国大統領ジョンソンは、
ニューヨークのコマーシャル・ナビゲーションに大西洋航路の十五年間の独占権を与えるのに対し、
ニューヨーク
/クインズタウン/サザンプトン/ブレーメン間に、週一回から.一回の定期船のサービスを
実施する事を求めた。しかし、郵便長官は米国以外の外国船が週四回のサービスを行っているのに、
発着回数の少ない同社と契約する事は理由がないと反対に回った。これにより、米国は大西洋における
アメリカ船の発展を、自ら閉ざしてしまった。







第26章 航路助成の決議


アメリカ船の不振の中、漁夫の利を得ようとする外国船が現れるのは当然のことだが、十九世紀も
最後の四分の一世紀に入ると、心有る者は次々と海運の振興について意見を述べるようになる。
一八ヒ一
.一年、大統領グラントは「合衆国のごとき広大なる資源を有する国は、もはや如何なる犠牲を
払っても、海洋に進出しなければならない目が来るに違いない。されば一日進出が遅れれば一日犠牲を
大にし、かつそれだけ目的達成を困難ならしめるであろう」と語り、アメリカ船の再興に大きな関心を
寄せた。


その後の歴代の大統領も同様の意見を述べているが、一八九一年になって議会は次の様な郵便助成を
行う事を決議し、外国船に掌握されている割高な運航費を削減して、貿易の促進を図ろうとした。
まず、この助成を受けられる条件として、船舶を一級から四級に分類した。一級船とは鉄または鋼製で、
総トン数が1,000トン以上でかつ速力
20マイル以上出るスクリュー船とし、特に競争の激しい欧州/
米国間の航路には、このタイプの船であることが絶対条件とされた。二級船は南米航路、東洋航路に
投入する船型として、総トン数が5,000トン以上でかつ速力
16マイル以上出るスクリュー船とし、
三級、四級船はこれに準じるタイプとした。


乗組員の条件としては、@最初の二年間は乗組員の四分の一以上が米国海員であることA次の三年間は
三分の一以上が米国海員であること
Bそれ以降は半数以上が米国海員であること、としている。さらに
受命会社は総トン数1,000トンにつき、二十一歳以下の米国少年一人を見習い水夫として乗りこま
せる事こととあり、当時船舶だけでなうなく、海員の養成も急務であつた事を示している。


これに対し、この補助として一級船は往航一マイルにつき4ドル、四級船は0・66ドルが支給され、
この契約は五〜十年とされた。しかし、これも最初に同法案が議会を通過した時に比べ、三分の一も
減額されたものであったため、各杜は船舶を新造する事をためらった。その結果、政府が81年に米国と
世界を結ぶ四十三の航路を募集した時
(うち日本・支那航路三)、応募したのは半分に満たない二十一航路で
あった。このように海運に対して米国内の企業家がその投資を渋ったのも、南北戦争以降急速に北米は
内陸が発達し、工業・農業・林業・牧畜業がともに安全な投資対象ととなったからである。ちなみに、
70年の米国の鉄道全長は五万二千九百マイルであったが、67年から73年にかけて次々と大陸横断
鉄道が完成し、80年には92,000マイル、90年には167,000マイルのレールが敷かれた。
即ちこの時期は米国内部のインフラが充実していった時期であり、外国海運への投資は後回しにされた
ため、競争相手もないままパシフイック・メール・ラインが首尾良く政府の受命を得たわけである。







第27章 海員法の通過と太平洋航路の中止


1914年、第一次世界大戦の勃発のため、ロシアならびに欧州各国の商船は急速に姿を潜め、片や
交戦各国は米国から物資の買い付けを行ったため、米国は漁夫の利を得る千歳一遇のチャンスを迎えた。
にもかかわらず、米国船の不足もはなはだしかったため、チャーター料は戦前に比ぺて一気に20倍
近くも跳ね上がった。それでも船積みできない物資が港頭に滞貨し、一時は買い付けのため物資が
高騰するはめとなり、大きな社会問題となった。


 このことから米国政府は@米人所有の外国船を米国籍に転ずる為、船籍法規を簡素化するA米船及び
米貨が保険料を負担し得ない場合は、政府が替わって引き受ける
B材料にかかわる輸入税を免除する
C
難破した外国船を米人が買い取り、米国造船所で修繕した場合は米国籍とするD外国建造の転籍船は
沿岸貿易等自由とする
E米人が外国船を買い取り、これを米国に転籍する場合、在外領事に仮の国籍
証書を発給させる、などの手段を講じた。このため1914年には米国籍船は約108万トンであった
ものが、翌年には1・8倍の
191万トンと急増している。このように米国籍船は大幅に増加していたが、
船主にとって米国籍を採ることが必ずしもベストではなかった。というのは、1915年に成立した
「海員法」の内容であった。

同法案はすでに1912年に米国海員組合のよって提出され、上院下院の両院を通過していたが、大統領
タフトによつて署名を拒否されていた。しかし、タフトの後大統領となったウイルソンは、就任時の
約束事項であったため、15年に再度議会に提出されるや成立する羽目となったのである。その内容は
@海員環境の改善A入港時における給料の請求権B自由転船の認可C乗組員の資格を制限する事、の
四本の柱からなっていたが、問題は
Cの乗組員の制限であった。同項には「下級船員の75%が士官の
発する命令を理解できる事」の内容が含まれていたからである。このことは即ち英語を充分に理解し
得る者を採用する義務を負わせる事となった。この背景には各末端の職場で、世界中から東洋から流れ
込んでくる移民と米国人との間の競合問題があり、1888年以降米国は徐々に移民の受け入れに制限を
加えていった。この海員法の通過により最も痛手を被ったのは、多数の中国人を下級船員として雇い
入れていたパシフィック・メール・ラインであった。これを理由として、同社はサンフランシスコ
/
香港間に投入していたマンチュリ号(不明)とモンゴリア号(不明)の二隻をアトランティツク・トランス
ポート社に、またコレア号、サイベリア号、ペルシャ号の三隻を東洋汽船に売却し、太平洋航路を
中止した。







第28章 大統領名の船の登場


1915年の海員法の成立により、中国人下院船員を使えなくなったと記したが、実際の理由としては、
第一次世界大戦を背景として船価が高騰したため、これ幸いと老朽化した持ち船を処分したのだといわれ
ている。このパシフイック・メール・ラインの太平洋航路からの撤退により、米国船の同航路でのシェアは
1914年に26%であったものが二年後には3%に、1917年には0%となってしまった。1919年
1月にヴェルサイユ条約が交わされると、早速米国は戦時中に徴用した船の返還を始めた。その結果、
1920年から21年にかけて、次の様な航路割りが出来あがった。



ニューヨーク/英国=ユナイテッド・ステーツ・ラインニューヨーク/南米=マンソン・SSライン
シアトル/日本/中国/フイリピン=アドミラル・オリエンタル・ライン(パシフイック汽船)■サンフラン
シスコ
/フイラデルフィア/日本/中国/フイリピン=パシフイック・メール・ラインサンフランシスコ/
フイラデルフイア
/南米=スワイン・ホイト


この目本への配船を再開するため、米国船舶院はアドミラル・オリエンタル・ラインとパシフィック・
メール・ラインの二社に、プレジデント型といわれる1922年建造の新造貨物船の運航を委託する
ことになる。ちなみにこの二社に委託された船は、アドミラル・オリエンタル・ラインにプレジデント・
マジソン号
(14,187総トン、元ベイ・ステート)、プレジデント・ジャクソン号(14,137総トン、元シルバー・
ステート
)、プレジデント・グラント号(14,l19総トン、元パインツリー・ステート)、プレジデント・マッ
キンレー号
(14,147総トン、元キーストン・ステート)、プレジデント・ジェファーソン号(14,174-・、
元ベナッチェ・ステート
)の五隻。一方のパシフィック・メール・ラインにはプレジデント・クリー
ブランド号
(4,123総トン、元ゴールデン・ステート)、プレジデント・ウイルソン号(14,127総トン、
元エンパイア・ステート
)、プレジデント・ピアス号(14,133総トン、元ハウキー・ステート)、プレジ
デント・リンカーン号
(14,127総トン、元フッシャー・ステート)、プレジデント・タフト号(14,123総トン、
元バッキー・ステート
)の五隻であった。ここに、米国の歴代の大統領の名前が付けられた船が初めて
登場したわけである。


そして1920年、第一時世界大戦後の急騰していった運賃を背景に、船舶院の保有する船舶も航路権も、
投資家にとって魅力の無い「宝の持ち腐れ」の状況の中で、これを挽回して米国商船隊の強化を狙って
「商船法」が成立した。その結果船舶院の保有する船舶は払い下げられることとなり、パシフイック・
メール・ラインは先ほど記したプレジデント型の貨物船五隻の払い下げでダラー汽船と争い、これに
敗れて1925年
(大正4)6月、その資産一切をダラー汽船に売却して解散したわけである。なお、
ダラー汽船はアドミラル・オリエンタル・ラインの親会社パシフイック汽船の大株主であり、1930年
にはパシフィック汽船は社名をアメリカン・メール・ラインと変え、同社の業務はダラー汽船と同様に
ロバート・ダラー社が扱うようになった。







第29章 パシフィック・メール・ラインの撤退とダラー汽船へ


ダラー汽船の創立者ロバート・ダラーはスコットランド生まれで、カリフオルニアで材木商を営んでいた。
彼は1896年から1900年にかけて、アラスカのクロンダイルで起きたゴールド・ラッシュで大きな
財産を築いた。1855年に彼が最初に入手した船は、1888年にサンフランシスコで建造された
全長36m、185トンのスチーム・エンジン付きのスクーナー船ニュース・ボーイ号であった。
同船は北カリフォルニアの材木トレード向けに設計された浅喫水の「ランバー・スクーナー」と
呼ばれるタイプで、荒天下でも岸近くに係留して丸太を積む事が出来た。


そして1901年には全長約120mのスクーナー船アラブ号をチャーターし、東洋へのテスト航海に
出した。この航海はフィリピン政府の貨物をベースにしたもので、その収入は往復の経費を充分に
カバーできるものだった。この成功に気を良くしたダラーは同船を購入し、同船をスペリー・フラワー・
カンパニーにチャーターに出した。同船は事故も無く小麦粉を満載して東洋に行き、復路には日本や
中国からの壊れやすい雑貨を運んだが、少しのダメージも発生していなかった。この結果から太平洋
横断の貿易が大きな利益を生むものと確信したダラーは、日本や中国向けの材木輸送を開拓すると共に、
彼自身のリスクで東洋への貨物輸送を開始した。


1910年にダラー汽船を設立したダラーは、競争会社にその成功を疑問視されながらも、1920年の
商船法で払い下げられた525型の標準船を使って、西回り世界一周の定期航路を開始した。これはサン
フランシスコを起点に極東
/東南アジア/インド/地中海/ニューヨークと回り、パナマ運河を経由して再び
サンフランシスコに戻るルートで、サービス回数は月二回が予定された。


この一番船プレジデント・ハリソン号(10,496総トン)はニューヨークの造船所で建造された標準船で、
払い下げられる前の船名はウォルベリン・ステート号であった。米国船舶院は1925年までに政府の
船舶を民間に移管する事に決め、パシフイック・メール・ラインに運航を委託していた五隻のプレジ
デント型貨物船を売却に出した。これに入札したのはダラー汽船とパシフィック・メール・ラインだった。


この入札は、ダラー汽船が五百六十二万五千ドルの即金であったのに対し、パシフィック・メール・ラインは
六百七十五万ドルであったが、同社の場合は一部は即金で、残額は船舶を引き渡された新会杜で支払う
というものだった。船舶院はパシフィック・メール・ラインは公示の条件と適合しないとし、船舶の
払い下げ先をダラー汽船に決定した。1925年4月にそれらの船舶はダラー汽船に引き渡されたため、
太平洋横断サービスに使用する船舶が無くなり、他に適当な価格で競争力のある船舶が見つからないため、
パシフィック・メール・ラインの所有者、W・R・グレース社は東洋航路からの撤退を決定した。パシ
フィック・メール・ラインが設立されて七十八年、同社の汽船が初めて太平洋を渡り、開国後間も無い
日本人の前に現れて五十九年後のことであった。







第30章 ダラー汽船からアメリカン・プレジデント・ラインズに


1929年、パナマ・パシフィック・ラインから客船マンチユリア号(15,445総トン)とモンゴリア号()
購入したダラー汽船は、それぞれをプレジデント・ジョンソン号とプレジデント・フィルモア号と改名し、
先の一万総トンクラスの貨客船タイプに加えて世界一周航路に投入した。さらにこの翌年には新造船を
二隻建造し、太平洋航路に投入した。この二隻ははいずれもバージニアのニューポート・ニューズ
造船所で建造されたプレジデント・フーバー号
(21,936総トン)とプレジデント・クーリッジ号()で、
845名の乗客を積み、航海速力
20ノットを出せるで走る優秀船であった。ちなみにこの1931年代の
半ばには航空機による太平洋横断の旅客輸送が始まったほか、日本船でも日本郵船・大阪商船・東洋汽船・
国際汽船、英国系でも著名なカナデイアン・パシフイック・ライン、バーバー・ラインなどが旅客輸送に
スピードを競い、熾烈な競争を繰り広げていた。その折も折り、1937年12月にプレジデント・フー
バー号が台湾北東の小島に座礁して全損となった。この事故から同社の経営は急速に悪化し、その船名に
歴代に大統領が冠せられていた事から、アメリカン・プレジデント・ラインズとして新たな出発となった
わけである。この時の同社の保有船は十五隻であった。






参考資料
The
 American President Lines and its forebears 1848-1948  Jhon Wiver Assosiated University Presses
Pacific
 Stearms Will Lawson  Brown.Son & Fergunson,Ltd
History
 of the Canadian Pasific Line  Frank.0.Bowen 
Pictorial
 History of Ships  J.1{. Martin & Geoffery Bennett
船と港第5号 池田良穂 「船と港」編集室
近代のアメリカ大陸 清水知之 講談社
太平洋シーパワー史 篠原宏 エアワールド
図説日の丸船隊史話 山高五郎 至誠堂
日本開国史 石井孝 教育社
財閥三菱史 教育杜
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