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メリケン・ジルバ2




第十章 BAR OHIO



 

鎖骨の浮いた女が腕を絡めてくるのを無視して、ロバートは煙草を路地に投げ捨てて、バー
「オハイオ」の緞帳のように重いカーテンを開けた。カウンターでホステスたちを相手に10
ポーカーをしていたバーテンは、一瞬のうちに彼を値踏みして作り笑いをした。入口近くの赤毛
の女が、ストッキングで段がついた太腿をわざと見せながら、いち早くスツールを降りた。


「ようこそ、メイト」

 ロバートはカウンターに寄りかかりながら

「お前もミチコか?」
と皮肉っぽく聞いた。女は一瞬言葉に詰まったようだが、

「皆、ミチコ、ミチコ。ミチコだけが女じゃないよ。私はリンダ。ミチコは今オクサンよ」と、
腰に手をあて、軽く腰を揺すった。


「オクサン?」

「そうよ。ミチコのためにエンジンの調整で、わざと指を潰して休みを取ったエンジニアがいてね。
治るまでワイフになっているそうよ」


リンダは耳に熱い息を吹きかけながら、ドリンクを取っていいかと聞いた。
 苦笑いしながら、垢じみた蝶ネクタイを何とか結び終えた鼠のような顔をしたバーテンに声を
掛けた。リンダはロバートがラッパ飲みしているビール瓶に、紅い液体の入ったグラスを打ち付
けると、二息で飲み干した。

「センターピアも接収解除されてしまってね。坊やたちが減って淋しかったわ」

リンダはロバートの脚に腿を押し付け、腕を脇の下に挟み込んだ。

「兵隊バーには気をつけなよ」

 夜のワッチの、セカンド・オフィサーの言葉を思い出したロバートは、反射的に腕を引き抜こう
とした。リンダはスツールごと後ろに倒れ、ジューク・ボックスに激しく肩を打ちつけた。ターン・
テーブルでしっとりと歌っていたパティ・ページが金切り声に変わったのと、女たちが悲鳴を上げた
のはほぼ同時だった。ロバートはゴムバンドで束ねた紙幣から、数枚を呻いている女に落とした。
アイスピックを握り締めたバーテンが電話機に飛びつくのを見て、カーテンを押し開け、夜の熱気の
中を、潮の香りのする方向に駆け出した。


 路地の角で白いものが動いた。手招きする女の白い手だ。





第十一章 掘っ立て小屋のバー



 

「愚連隊が来る!」

女はロバートの手を掴んで引っ張った。

「グレンタイ?」

「あー、リトル・ギャングよ」

 見ると、あのバーの近くで出会った鎖骨の浮いた女だ。ロバートは女に引っ張られるままに路地を
縫って、海岸通に入った。愚連隊の力も、市街地と港を分断している道路を越えれば及ばない。より
大きな闇の力、暴力が支配しているこの空間は、船の代理店事務所や荷役用具の倉庫がまだ明々と
電気をつけ、その間に立飲み屋や簡易宿泊所が点在している。この界隈は、その雰囲気には似つかわ
しくない“弁天浜”と呼ばれていた。 息を切らした二人が立ち止まったのは、ガソリン・スタンド
であった。見ると、横手に人一人がようやく入れる空間があり、奥にポツンと黄色い灯かりが燈って
いる。



 二人がドブ板を踏んで入っていくと、突き当たりには女の体重さえ預けるには危ういような、痩せ
こけた木の階段が暗闇に伸びていた。その階段の左手にかすかに明かりが漏れている木の扉があり、
白ペンキでCHARLIEと大書している。ペンキが垂れた下手糞な字だ。



Speak easy


 女はニッと片目をつぶると、扉を細めに開いた。ロバートは女が意外と若いのに気づいた。痩せて
はいたが、汗ばんだ肌はしっとりとしており、笑った眼には生き生きとした輝きがあった。狭い店内の
カウンターの中には、扉に背を向けた大柄な男が音楽にあわせて身体を揺すっている。微かに忍び込んだ
夜気を感じたのか、男は振り返った。


「イツコサン?フー?」

「お客さんよ。オハイオから連れてきたの」

 女は得意げにロバートの背中を押した。

「どの船に?あー、それだったらループ6の東回りの船だ」


 見ると、バックボードの片隅に水色の船体に、Mのマークの煙突がついた大きな船の模型が飾って
ある。マドラス・シャツの男は促すように、厚手のタンブラーをトンと置いた。ロバートはバック・
カウンターにアクアビットの緑の瓶を見つけた。男は冷蔵庫から霜でラベルも霞んだボトルを取り
出すと、リキュール・グラスに緑の水平線を盛り上げた。先のタンブラーにビールを半分注ぐと

「これは、チェイサー代わり。久しぶりの客でね」
と、ニヤッと笑った。残ったビールをタンブラーに注ぎ、京子に差し出した。二人のヤリトリを生き生きした目で
見ていたイツコは、ロバートがアクアビットを勢いよく口に放り込むのを見て、手を叩いてはしゃぎ声をあげる。






第十二章 タイガージン



 ロバートは薬草のようなアクアビットの冷たい香りが、鼻孔を通り過ぎるのを楽しみながら、
改めて店内を見回した。壁に貼り付けられた杉板とデコラのカウンター、蛍光灯の明かりに浮かび
上がる店内は寒々としていたが、カウンターの上に置かれたピーナツ販売機の向こうには、店に
不釣合いのオーディオセットが置かれ、オールデイズのLPジャケットが数枚飾られている。
そういえば、ドアを開けた時、男はプレスリーのロックに合わせて、体を揺すっていた。



「ひどい作りでしょう。それでも戦前には表通りに面していた船具屋の倉庫だったらしいですよ。
空襲で焼け残ったのはいいんですが、いつの間にか周りにビルが次々と建てられて、こんな風に
一日陽が当らない小屋になってしまったと聞いてます」



男は笑って、大きなタンブラーにウイスキーを注いだが、何か呟いてもう一度大きくボトルを
傾けた。ロバートはアクアビットで燃えた胃をさらにキックするものを、と頼んだ。


「難しい注文は無しですよ。材料もグラスもありませんからね」

GE社の黄ばんだ大型冷蔵庫から虎のラベルのジンを取り出した。

「木材船で南に行ってから、こいつが気にいってね」


男はオレンジ・ビターズを揃えると、ミキシング・グラスにジンをツー・フンガーと大振りの氷を
入れた。男はバー・スプーンの扱いに慣れていないのか、グラスの中で急速に氷は角が取れ、光が
急速に失われていった。


耳元で“バン”という大きな音がした。イツコがカウンターを平手で叩いたのだ。男はビクッとして、
グラスの中身をスプーンで味見すると、顔をしかめて中身を流しに空けた。


「いくらやっても駄目ね」

「プロじゃないのか?」


「この人も船乗りだったのよ。やっぱり、ミチコと知り合って、海に戻れなくなったの」

壁にかかったブロンズの“キャプテンズ ルール”の銘板に錆が浮き始めている。





第十三章 吹き寄せられてくる女たち



 

ミチコがこの港町に忽然と現われたのは、3年前の冬のことだった。明け方に再び腰を抱き寄せ
ようとする金毛の腕から逃れたイツコは、体の節々の痛みを呪いながら、バー「マーメイド」への
路地を曲がった。霜柱の立った路地を塞ぐように、大きな椿の花が揺れていた。疲労で、眼に薄皮が
張り付いているようなイツコが、それをダンサーの着る鮮やかな衣装だと理解するには間が必要
だった。女の顔は蒼白に近かった。女はイツコの顔を見て一瞬立ち止まったが、踏み出そうとして
足をもつれさせ、「ANCHOR」の扉に寄りかかるようにして崩れた。



この界隈に泡のように現われる女は多いが、この厳寒の中を炎のような衣装で現われたのはミチコが
初めてである。枯れ蓬のように根を失って、ここに吹き寄せられてくる女たち。京子がここにやって
きた僅か一年ほどの間にも、乳児を連れて垢だらけの着物で公園で震えていたキョウコ、失恋して
自棄を起こし、波止場先端から海に飛び込んだが、死にきれずに這い上がってきたミーシャ、兵隊バー
で知り合った男を追って海を渡ったが、先妻に追い返されたリンダ、ヤクザに狙われて横浜から
逃げてきた笛子。多くの女がここに漂いつき、享楽と生活の代償として、その影法師を手放して
しまった。



イツコは、ダンサー衣装の女を、アパートになっているANCHORの二階に押し上げた。女は畳の上で、
まるで飛び降り死体のように身体を捩じって、深い寝息を立て始める。その肉付きのよい太腿には、
蛭のように紅いガーター・ベルトが貼りついていた。化粧を落とすのもそこそこに、イツコは二人の
上に布団を掛け、姫鏡台を潰さないように身体を横たえた。



 悪夢と寒さと体の節々の痛みで、イツコが眼を覚ましたのは昼過ぎになっていた。リングの所々
外れたカーテンの隙間からは、申し訳程度の弱々しい冬の光が射し込んでいた。女はイツコの方に
身体を丸めて、軽い寝息を立てていた。イツコはまだ名前も聞いてないこの女が妹のように思えた。



イツコは四年程前の夏、妹と一緒に夕涼みに波止場へ行く途中、接収が続いていたビルの地階で複数の男に陵辱
された。二人はその足で電車に飛び込んだが玉突き状態となり、イツコは線路の外に弾き飛ばされた。以降、
イツコは軽いビッコをひくようになった。近所の白い眼に晒されたイツコが、二言目には妹のことを言い出す
母親の頬を、思わず叩いて家を飛び出したのは間もなくのことであった。






第十四章 船虫を焼く



 

二人は路地を縫うように銭湯に向かった。ミチコの肩からはイツコのベージュ色のコートが羽織ら
れている。ミチコは紅いドレスが見えないように、内側からコートを合わせている。綿入れを着た
イツコは二人分の金タライを持っていた。一つは古く、一つは先ほど買ったばかりのものだった。
しばらく歩くと、ミチコはどうしてさっきの銭湯を通り過ぎたのか訝しがった。


「前は行っていたんだけど」

 イツコが口を濁すと、ミチコはふいに立ち止まった。

「やっぱりそうだったの」

 ミチコは煙草を吹かしながら、電信柱の色褪せた映画のポスターに気を取られているふりをした。


 イツコはミチコが振り向いた時にどんな眼をしているのか恐れ、きびすを返して銭湯の方へ歩き
出した。ついて来ようと来まいと、その内、寒さやひもじさに耐えられなくなる。特に聞いた限り
では、ミラーボールの下できらびやかなドレスをまとい、男たちの腕にさりげなくたわわな乳房を
感じさせたこれまでなら…。



イツコは振り返りたい気持ちを抑えていたが、耳は追いかけてくる足音に全神経を集中させていた。
この橋を渡りきるまでに追いついてくるだろう。あの信号が青に変わるまでには…。角を曲がって、
銭湯のノレンが眼に入ると、イツコは堪えきれずに振り返った。すでに薄墨色の通りには人影も
まばらだった。街灯の黄色の光の下を、あずき色のトックリセーターを着込んだ男が、自転車を押し
てゆっくり通り過ぎていく。



 イツコが鼻の頭に汗を浮かべて橋まで戻ると、浜辺に降りる斜路に打ち捨てられた木船のそばに
人影が見えた。煙草を吹かしているのだろう。ルージュを塗った口元が、規則正しく暗闇の中に
浮かびあがった。やがて、その煙草の火は口元を離れて、横腹に点を打つように動き始めた。イツコは
それが木船に巣くっている船虫を焼き殺しているのだと分かると、急速に心が萎えていくのを感じた。



 イツコが近づくと、ミチコは何もなかったかのように、煙草を捨てた。


「お姉さん、カウンターでもいいのよね」


 カウンターの内外で稼ぎに雲泥の開きがあることを知ったとき、皆、同じ道を辿るのだといいかけたが、すぐに
分かることだと口をつむんだ。イツコは煙草に火をつけようとした。余り力を入れなかったつもりだったがマッチの
軸木が折れ、爪に燐寸がこびりついた。






第十五章 ミチコのデビュー



二人が風呂から戻ると、ちょうどバー「マーメイド」のピンクのネオンサインが灯され、少女が
OPEN
の白いプレートを持って出てきた。少女はイツコの顔を見ると、

「おばあちゃん、また忘れてるのよ」

と、背伸びをしてプレートをドアに掛けた。
「ちょうどいいわ、ミサちゃん」

イツコはお下げ髪をちょっと引っ張って笑いかけると、少女は大袈裟に悲鳴をあげた。

「あなた、ニューフェイス?」と、ミチコを見ておしゃまな口調で言い、カーテンの中へ消える。


 二人が中に入ると、アラジンのストーブに手をかざした老婆と、スツールに浅く腰掛けた女が
見えた。ハーフコートの女はスージーで、燃えるような赤毛を自慢にしていたが、イツコは髪を
掻き揚げたとき、根元がごま塩交じりの白髪であったことを覚えている。もっとも、このことは
誰にも言わなかったが…。



「納得がいかないわよ、ママ! 盗っとのミーシャが店に残って、バッグを探られた私が辞めな
きゃならないなんて」


 老婆はスージーの指先で細かく震えている煙草の、長く白い灰をハラハラして見ていたが、灰皿に
捻り潰されるのを見て


「まあ、あの娘の評判は聞かないでもないけど、私ゃ現場を見てないのでね。それに、あっちの方が
よく稼ぐから」


 言ってから“しまった”と、首に巻いた海鼠柄のネッカチーフに気を取られたふりをした。

「私の働き口ができたようね」


イツコの後ろにいたミチコは一歩前に出て、腰に手をあてて豊かな胸を突き出した。老婆はビクッ
として手が止めた。


「ミチコよ。カウンターでもいいのよね」

 イツコはスージーの顔をうかがいながら、老婆の同意を求めた。老婆はスージーとミチコを一瞬の
間に値踏みして、ヤニで黄色くなった乱杭歯を剥き出した。スージーの顔がみるみる強張り、バッグを
掴むとスツールを倒して出て行った。



 老婆はいそいそとして、“寒かったかね”と呟きながら、ホット・ラムを二つ作った。

「それは、それは。それであんたも女の仕事が出来るんかえ」

「カウンターでいいんでしょう」

「もちろん構わないさ」

 老婆はイツコに含み笑いをした。





第十六章 クイーン



口開けの客は、目付きの鋭いギリシャ人二人だった。カウンターに寄りかかり、ビールの小瓶を
取ると、舐めるようにもう小一時間も過ごしていた。ミチコは一度は笑顔を見せて話し相手に
なろうとしたが、老婆の“相手にせんでええよ”の大きな声に、二階へ上がってしまった。



老婆が後を追っていったのは5万円ほどのバンスを渡したのだろう。これでミチコは当分この店
から離れられない。ホステス・ドリンクの四割がバックされても、カウンターの中にいる限り、
客からのドリンクの勧めは期待できない。また、身一つで逃れてきたミチコはすぐにも身の回り
も整えなくてはならないし、何よりも今のダンサーの衣装も明日は着てはおられない。大柄な
ミチコにはイツコのセーターなども如何にもきつそうであった。



客が出て行って静かになった店内で、イツコはストーブの青白い炎を見ながら、自分もカウンター
の中にいたのは、一月足らずだったと思い出していた。



カウンターで酔いつぶれた男を何とかあやしながら追い出し、ANCHORのネオンを消したのは夜半
前だった。ミチコは先ほどまでカウンターに入り、無骨な男の手が伸びるたびに、鮮やかな
クイックターンで身を翻し、赤いペディンキュアをした人差し指で、男の手に思わせぶりに
ちょっと触れた。男は5杯ものホステス・ドリンクを流しに捨てられたあげく、カウンターに顔を
埋めて寝込んでしまった。


昨日の今日で、男の相手にうんざりしていたイツコは、老婆の言葉を聞きながらうんざりとしていた。


「クイーンさ、きっとクイーンになるよ」


 老婆の口調は、いつもの繰言とは違う。
 階段がきしむと、ミチコが顔をのぞかせた。

「簡単じゃない」

「いつも、こうはいくもんかね」

含み笑いをして、老婆は上機嫌で小さな鈴がついたがま口を取ると、二人を促して扉に錠をかけた。





第十七章 BAR COKIE



肩を丸めて、すっかり灯りが消えた路地を老婆の後に従いながら、イツコはミチコにさっきから
聞きたくてムズムズしていたことを口にした。


「すっごく、慣れてるみたいね」

「あっちでちょっとね」


 ミチコのくぐもった声に、尋常ではないものを感じたイツコは、それ以上聞くことは止めた。
それは根を失った枯れ蓬のように、ここに吹き寄せられてくる者たちの暗黙の了解でもあった。



 幾つかの通りを横切り路地を通り抜け、三人が立ち止まったのは、緑色のペンキで厚塗りされた
物置のような掘っ立て小屋だった。老婆は扉を合図のように独特のリズムで叩いて“いるん”と
声をかけた。隙間からこぼれていた黄色い光が途端に消えると、聞こえていた笑い声も止んだ。
ミチコはANCHORと同様の、煙草と体臭の混ざった匂いを感じた。



「マーメイドのママさん?」


 扉が細めに開き、夜目にもそれと分かる蛭の腹のような、のっぺりとした白い顔が覗いた。

「イヤァね。嫌なやつがきてね。ミイのハズバンドが浮気してるって、余りしつこくいうから
悔しくって。今、やっと追い返したところ」



 そういえば、冬なのにアロハシャツ一枚の良ちゃんの目には、うっすら涙が浮かんでいる。

「今日はクイーンを連れてきたよ。クイーンどうしの対面ってわけだ」


 老婆は自分の冗談がおかしかったのか笑い声をあげた。





第十八章 進駐軍のクラブハウス



イツコとミチコが老婆に従って店に入ると、薄暗い奥のボックスに座っているコールマン髭の男が、
ニヤリと笑った。心なしか、後頭部の髪が跳ね上がっている。良ちゃんはトレードマークの大きくて
蜜柑の皮のように粗い鼻に皺を寄せて、


「ママ、久しぶりやね。景気はどう?」


「どんどん、船が大きくなったけど、その分、数が減ったからね。おまけにみんな埋め立島に行って
しまって、ここまで
出て来ないよ。また、ドンパチでもやってくれないかね」

「兵隊は荒っぽいから嫌いよ」

 良ちゃんは、ありもしない鬢を小指で掻き揚げるしぐさをする。

 良ちゃんの言うところによると、この店は進駐軍のクラブハウスの一部を移築したもので、「毎夜の
ように将校たちがレディと社交した由緒ある建物」だそうである。しかし、ミチコの眼には所々赤い
ビニールが裂け、中の麦藁がはみ出しているボックス・シートが6つと、入口付近にスタンディングの
カウンターが置かれているだけの、寒々とした店内にしか思えなかった。シートは髭の男が背を伸ば
して座っても、まだ頭上に相当余裕があるほど背もたれが高い。


「昨日、アリスが車に乗っているとこを見かけたわよ」

シェーカーにヘルメスのグリーンティ・フィズを注ぐ良ちゃんの手が止まった。老婆はニヤッとして、


「良ちゃん、アリスと仲が良かったもんね」

「アリスって、あの伝説のダンサー?」
 ミチコが口をはさんだ。

「そうさ、まだ基地の中の進駐軍のハウスだった時に、踊っていたのさ」

「そんな古い話なんか覚えちゃいないね」

「だけど、アリスの人気もあっという間だったね。CIE(民間情報教育局)の将校に気にいられて、
ハウス回りのダンサーに抜擢されたのにね」


「男だってばれちゃったからね」

「でもいい外車に乗って高そうな毛皮着ていたよ。いいパパでもついているんじゃないかね」老婆は
言って、比較するかのように店内を見回した。






第十九章



「何よ、このベタベタしたの!」

 ミチコは大袈裟に顔をしかめて、煙草の焼け焦げが目立つテーブルの上にグラスを置いた。抹茶
色をした液体の表面を大きな泡が横に流れた。


「それじゃ、本当のお茶でもひこうっての!」

 良ちゃんは一瞬気色ばんだ。

「こんなのはカクテルとはいわないの。砂糖水に色をつけただけじゃない」

「砂糖水、結構じゃない。何ならただの水だってマネーいただきますからね!」

「もういいわ。こんなインチキバー!ママ、帰りましょうよ」

 ミチコの上気した顔はバラ色に染まり、ヤニじみたシェードの灯りの下でも、ハッとするほど
美しかった。

「いいじゃないの。もっとおやんなさいよ。人の喧嘩と火事は大きいほど面白いからね」


 老婆はピチャピチャと舌を鳴らした。


 奥のボックスに座っていた髭の男は、そっと立ち上がるとイツコの横を通って扉に向かった。
それは大きな体の割には密やかなものであったが、瞬間、男の体臭がまといつき、イツコは胃から
甘酸っぱいものが再びこみ上げてくるのを感じた。


「マネー、ビヤマネー、エイト・ハンドレッド!」

良ちゃんはカウンター越しに皮ジャンパーの袖をつかもうとした。