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メリケン・ジルバ3




第二十章 野良犬



 明け方からイツコは不自由なほうの足の爪先が冷えて、寝床の中で足をすり合わせているうちに、
新聞配達や牛乳配達の自転車の音を聞いた。やはり若さだろう。ミチコは足元の座布団はもとより、
掛けていた毛布はも半分ずり落として軽いいびきをかいていた。イツコが貸したネルの寝巻きから
豊かな胸が上下しているのが見えた。イツコは年上のくせにふと甘えたくなり、指先でそっと汗で
光っている胸に触れた。


ミチコが着の身着のままで現われたのは昨日のことだった。あれから一昼夜が立った。いや、
一昼夜しか立っていないと思った。老婆からバンスしたのだから布団や着るもの等早急に整えな
ければいけない、当分はこの部屋に置いてやろう。イツコはあれこれ考えながら、ふと微笑んだ。



 バンホーテンの熱いココアを二度もお代わりしたイツコを連れて、ミチコを連れてアパートを出た
のは10時を回っていた。階段の下のタール塗りのゴミ箱の蓋を、黒い色の犬が鼻先で開けようと
していた。あばら骨の浮いた胸部は波紋のように細かく波打ち、桃色の舌のはみ出した口からは
シュッシュッという息が白く吐きだれていた。階段途中で立ちすくんだイツコを押しのけると、
ミチコはついと腕を伸ばし、赤いマニュキュアの爪で犬のあばらを撫で上げた。犬は目やにがこびり
ついた顔をあげて、低く唸った。



「汚いからやめとき!」

「汚い?」


ミチコの眼が光った。犬はゴミ箱を開けるのに成功すると、顔を突っ込んでリンゴの皮をくわえ
だした。まだ残る朝の冷気の中で甘ったるい匂いが漂った。



「子供の時に大きな秋田犬がいたの。私が乗ってもびくともしない大きな頑丈な犬でね。パパが
桜並木の角を回るまで悲しそうに吼えていたわ。でも、私が小学校の時に、どういう病気かしら
ないけど、蚊に卵を産み付けられてね。あっという間にやせ細って死んでしまった。ちょうどこの
犬のようにあばらが浮いてね」



ミチコは犬の首に手を回して抱きしめようとした。犬は大きな唸り声をあげると、ミチコの
セーターを噛んだ。


「そうね。ただの汚い痩せ犬よね」

ミチコは犬を突き放すと、手をパンパンと打ち払った。





第二十一章 スローボートのレンブラント



 

キヨシがアルバイトをしているバー・スローボートにはホステスはいない。海岸近くの旧居留地
にあるため、海外生活の経験者やマスコミの人間が、お昼の開店時にはすでにアペリチフと称して
一杯引っ掛けに来る。また、黄昏時にもなると、近くの船会社や貿易金融関係に勤める人達が、
一日のピリオドを打ちに来る。半地下の構造のため、スリガラスを通して道を行き交う人達の脚の
シルエットが夕暮時になると赤く変わり、一瞬金色に輝くと、鉛色に溶け込んでしまう。



そのことを発見したのは、週末になるとカウンターにもたれてオンザロックを重ねる黒ずくめの
女が、いつもその一瞬だけ長い髪をかきあげてスリガラスを見つめ、眼の回りが弛緩して、安らかな
顔立ちに変わることに気付いたからだ。キヨシはそのことを誰にも喋らなかった。何か神秘的な
雰囲気を持つその女と、他の客が知らない秘密を共有しているような密かな喜びを感じ、それ
以来その女が来るのを心待ちにするようになった。



その日は雨だった。雨はスリガラスをつたって流れ、油引きの床も心なしか浮いているようだった。
夕方からアルバイトに入ったキヨシは、鏡に向かって蝶ネクタイの歪みを直していた。マスターは
乾き物を仕込みに行って、まだ帰ってこない。スイングドアがきしむ微かな音がすると、湿った
空気に混じってココ・シャネルの耽美な香りが漂ってきた。



「いい?」

キヨシの許可を得るようにスイングドアを半ば開いて女が言った。同じ黒色の服でも今日着ている
のは素材が違うのか、店内のダウンライトを浴びて、所々が玉虫色に輝いている。



「いいですよ、何になさいますか」

と言いかけて、マスターがいつも黙ってロックグラスに手を伸ばしていることを思い出し、出掛か
った言葉を呑みこんだ。女はにっこりして、カウンターの端にいつものように立った。



女はほっそりとした小指を立ててグラスを傾ける。金環のイヤリングが微かに揺れる。厭味でない
香水の香りが一瞬強くなる。白い喉が動く。グラスの中で氷が立てる硬質な響き。女はグラスを前に
やる。キヨシは新しいグラスに大振りの氷を一個落とし、ウイスキーをダブルで注ぐ。


「今日は雨で残念ですね」

キヨシは思いきってあのことを口にした。女は何の事かとけげんそうな顔をした。

「いつもその場所でご覧になってますね。夕暮の光の変化ですよ」

「私のレンブラントのこと?あなたも気付いていたの。街中で色々見たけど、このバーのが一番ほの
かね。きっと半地下で光線が屈折して間接照明みたいになっているのと、スリガラスのせいね」


 女はサオリといい、ステンドグラスの作家だと名乗った。

「ステンドグラスって、出来あがって教会の壁などに嵌め込んだらとっても綺麗でしょう。けれども、
作っているところなんか、とても人にお見せできないわ。Tシャツ一枚で汗がボタボタ流れ、化粧なんか
全くの無駄。頭にタォルをまいてやっとこを振り回して」



笑いながら女が袖を捲り上げると、肘のそばにゴルフボールほどの大きさの火傷の跡があった。脱色
しているのか、産毛のような細いプラチナ色の毛が光っていた。


「溶かしたガラスがこぼれたの」


珍しくもないといった風情で、グラスを傾ける。





第二十二章 焼身自殺



 キヨシが通っていた大学は関東でも過激な学生運動が行われていることで知られていた。キヨシも
時代の波に飲み込まれて、時折は街頭デキに参加した。闘争に無関心になり、学校へ行かなくなった
のは、ミルクホールでいつも顔を会わせていた友人の死がきっかけだった。



友人はどの派にも属していなかったが、何時もデモの最先端で機動隊とぶつかっていたため、前歯の
ほとんどが欠落し、鼻も二回にわたる骨折で扁平に潰れていた。そして爆弾やテロなど運動が先鋭化
するにつれ、焦燥感を日々深めていることは、傍の者たちにも良く分った。家からの送金も途絶え、
バイトもままならぬ状況の中で、(今日も一杯15円の味噌汁だけだったよ。5ミリ位の賽の目の豆腐が
四つ浮いているだけでね。噛もうとしても砕けちまうんだよなあ)と、頬を歪めて自嘲めいた笑いを
浮かべていた。金の無いのは皆同じだった。働くこと、それ自体が現行の社会を容認しているようで、
如何に自分が貧乏生活を送っているかを自慢しあっているようなところがあったため、皆はそれが
いかに切実な事態に彼が陥っているのか笑うだけで共感できなかった。



友人の死をケンが知ったのは銭湯のテレビでであつた。湯上りの身体に扇風機を浴びていると、
興奮した口調のアナウンサーの声が流れ、コンクリートの上に水と油が流れた焼け焦げた痕跡が
写り、徐々にカメラが上を向くと、ミルクホール
から教室にいたる斜路と、突き当たりの吹き抜けに
乱立した盾看板がアップにされた。続いてレンズは腕組みをして眉間に皺を寄せて佇む多くの顔と、
女学生の泣き崩れる姿をアップにした。そしてテロップは焼身自殺というショッキングな文字と、
友人の名前と笑い顔を映し出した。歯が所々抜け、何とも愛嬬のある笑い顔には覚えがあった。



夏になると「勤労奉仕」と称して、学生たちの間で評判のボランティアがある。それは北海道の牧場で
牛の世話をし、糞尿まみれになるものであったり、岡山で畳表になるイグサを一日中中腰で刈り取る
作業であったりした。共通しているのはバイト賃は相場の半分以下であること、作業時間が長いこと、
向こうの農家に泊まりこみ、家族と寝食を共にすること、などであった。これは誰が始めた苦行か
知らないが、「民衆の中へ」「民衆と共に」というスローガンに飾られて、先輩から順送りになって
きた夏場の名物行事でもあった。昨年の夏、ケンと友人は他大学の学生と共に二週間イグサ刈りに
参加した。写真はその時のもので、イグサの日向臭い香りと切口の生臭い匂いが一度に蘇ってきた。


キヨシには画面の黒い染みと、あの笑顔の友人が結びつかなかった。キヨシは放心して、身支度するのも忘れて画面を
見ていた。そして、我に返ったときには、画面ではちょんまげの男が、扇で口を隠しながら女形のようなポーズを
取っていた。キヨシは顔をクシャクシャにして笑っている番台の老婆に激しい憎しみを覚えた。何事も無かったよう
に鏡の前で頭をとかす男、浴槽につかる男、週刊誌を読んでいる腹の出た男。周りにあるもの全て、この友人が失われ
たことに関心を寄せない者たち全てを抹殺してしまえば、どんなに気持が好いだろうと思った。それは激しい快感だった。
しかし、鏡に映った肩までの長い髪から除く暗く険しい目付き、窪んだ鎖骨にあばら骨が浮いた胸を見て、キヨシは
自分自身をも破壊したいという欲望に、無気力が絡みついてくるのを振り払うことは出来なかった。






第二十三章 街を離れて



 キヨシは誰とも逢いたくなかった。友人の死はキヨシのせいではなかった。闘争に疲れたから
かもしれない。あるいは焼身自殺と云う負の自己主張で、自分自身の揺らぎ無い(信念)を完結
させたかったのかもしれない。いずれにしても、友人がキャンパス内でガソリンをかぶって火を
つけた行為は、キヨシとはかかわりの無いことであった。けれども、突然訪れた友人の死は、
キヨシの胸に病巣となって巣食い、じわじわと空洞を広げていった。



キ日シのもとに二人の男が訪ねてきたのは、キャンパスが学校側の手によってロックアウトされた
翌日だった。二人は友人と共に活動していた者だと名乗った。二人の用件は、三日後に行われる
国際反戦デーの大集会に、キヨシに友人の死をいたむ追悼の言葉を喋らせようというものだった。



「君だって今がどんな状況か分っているだろう。このままロックアウトが続くと、学生はバラバラに
なってしまい、折角春以降積み上げてきた我々の闘いが尻すぼみになってしまう。君だって友人の
死を無駄にはしたくないだろう」



遠山と名乗った白皙そうな男が、文節ごとに手刀を切りながら、傭いたキヨシの顔を覗き込んだ。
もう一人の男は絶え間無く体を小刻みに揺すり、片方の目は充血しており、はじけんばかりの暴力
への渇望を、腕組みすることによってやっと押さえつけているという具合であった。遠山の声は
さざ波さえ立てないで、キヨシの耳を越していく。それは、異国の言葉のように意味不明であった。
キヨシは遠山のポロシャツの胸の、ペンギンの赤い刺繍に目を置き、頭の暗い祠の中で咲き乱れる
ベゴニアのような真っ赤な花を幻視していた。しかしその花には生気がなかった。沈黙の中で咲き
乱れている造花の大群だった。



意味の無い時間と際限の無い言葉の繰り返しの後、男たちは「明日また来る」と腹立たしげに席を立った。この
街からキヨシの姿が消えたのは翌日のことだった。






第二十四章 美波子



 土曜日の午後だった。ケンはアーケードの入口で美波子を待っていた。


安保条約の改定を巡って、この地方都市でも活発な動きが始まっていた。駅前に停めた派手に
日章旗を飾りつけた宣伝カーの上で、皮ジャンパーを着たサングラスの男が濁声で喚いていた.路上に
座り込んでいた長髪の男が、戦闘服の男たちに取り囲まれていた。男たちは長髪の男の横に置かれた
ギターケースを足で蹴った。長髪の男は気弱そうにギターケースを膝に抱いたが、なお男たちの
嫌がらせは執拗に続いた。宣伝カーの男も気付いたのか、マイクの矛先を長髪の男に向けた。通り
がかりの人々は戦闘服の男たちにあからさまに不快の目付きを向けたが、かといって長髪の男を庇う
わけでもなく、ただちに自分に被害が及ばない距離を保って見守っていた。



 長髪の男は立ち上がりかけたが、若い男が足払いをかけた。首のネックレスの皮紐が切れ、
パイプウニが澄んだ音を立てて、路上に散らばった。長髪の男が尻餅をつくと、取り巻いた人々の
間から失笑が漏れた。兄貴分にあたるらしい襟元から白いマフラーを覗かせた男がニヤニヤしながら
踏み潰そうとした。誰も止めようとしなかった。



 ケンは群衆の後ろから背伸びしている背広姿の男の耳に、イヤホーンが差し込まれているのが
見えた。背広の男は宣伝カーに近寄ると、マイクを持った男に何事か怒鳴った。宣伝カーの男の
声が急に小さくなった。それが合図だったのだろう、戦闘服の男たちは長髪の男に向かって膝蹴りを
するような仕草で威嚇すると、自然に割れた群衆の間を肩を揺すりながら宣伝カーに戻った。
宣伝カーはボリュームを一層大きくすると、ノロノロと動きだした。それは巨大な雨降らしの
ようであった。



 長髪の若者は金縛りが溶けたように、雨降らしに向かって腕を振り上げた。そして、周りを
見渡して誰もが何も起こらなかったように散っていくのを見ると、恥ずかしそうに路上に散った
パイプウニを拾い出した。動き出した群衆の中から美波子が現われ、パイプウニを拾うのを
手伝うのが見えた。濃紺の膝ぎりぎりのワンピース姿は、普段、事務服しか見てないキヨシには
新鮮に映った。



「パイプウニは私の故郷の島で採れるの。だから、とても腹がたったの」

美波子は鼻尻に皺を寄せて笑った。





第二十五章 ミチコのデビュー



 通船は波止場に着岸しようとしたが、打ち返す波に押し返されて、ラッパ音の汽笛を鳴らすと、
後ずさりし始めた。バンダナをした若者が立ち上がると、柱に掴まってバランスを取りながら、
舵輪を回している男に何か叫んだ。男も叫び返したが、若者はなおも執拗にベンチの方を指さすと、
胃を押さえて吐潟するポーズをした。ベンチに座っている男たちも口や腹を押さえて窮状を訴えた。
男は怒鳴り返したが、船を回して風上から木造の桟橋に寄せた。



 波止場上の作業帽を被った男は顎紐を締めなおすと、大きく上下している通船の手摺りに手を
かけて、船の動揺を押さえようとした。筒状の防舷材が軋んだ。柱に掴まっていた若者が、美波子に
背中のナップサックを揺すって見せた。美波子は頷いて両手をのばした。打ち上げる温かい波に
乗って、砕けた珊瑚が美波子の足指に絡まった。



「泊まれるとこ、あるかな?

「私んち、オープンエアバーもあるのよ」

 美波子は得意気に言ったが、「エア」を旨く発音出来ずに田舎者と思われなかったかと、顔が
赤らむのを感じた。バンダナをした若者は「ホー」という顔をして白い歯を見せ、ナップサックを
受け取った。美波子が高校を卒業すると都会に出てきたのも、オープンエアバーでの体験が大き
かったに違いない。都会からの観光客達の間で美波子は小さなプリンセスで
あったし、客たちの交わす
都会の様々な風俗は、美波子にとって目を見張るようなことばかりであった。