平成18年7月号より

 

               選者の歌

 

桑岡  孝全 大阪
弥生尽寒きにカメラを呑みにゆくいくばくとなき残生のため
誰何両三度囚衣の如きもの纏えば思うジョージ・オーウエル
睡眠にはあらぬ昏冥の検査始終おぼゆるは咽喉部の麻酔まで
未生前のごと死後のごとそれはありき検査台上暫時の喪神
検査目的麻酔束の間の昏睡をにれかむよきたるべきを思いて
井戸   四郎 大阪
みちのくの笹谷峠のこぶしの花日に照りていき三十年のむかし
雪残るみちのくの山の朝の日に映ゆる辛夷の花が目に見ゆ
年々に駐車所に咲く桃のはな梨のしろ花今日散りまがう
鉢の桃くれないの咲き淡紅の蕾ふくらむ白花はいまだ
おさまらぬ春の疾風に暮れかかる空の遠雷しばしばひびく
眼鏡して目を細めます眼差の相逢うごとき君のうつしえ
ものの音なく時のすぎるごとお庭の桜に先立ちましぬ
土本   綾子 西宮
就労闘争十一年のみ子を援け強くやさしき母君なりき
案じまししう孫らすこやかに生い立ちて遠くきたり今日み柩に添う
黐の木の春の落葉のときすぎて梢の若葉つややかに照る
日の差さぬこの庭隈に株殖えてスノーフレークの年どしの花
ほのぼのとありし一ときも夢は夢かかわりのなき今日が始まる
                湧  水  原     (24)
奥嶋     和子           (九州の桜)
朝早く別府の町を横切りぬ火事と見紛う湯煙のなか
わが旅先の震度5憂えて携帯にメールをよこす娘と妹
霧の湧くやまなみハイウエー上るほど視界短く二十米
小泉     和子            (春立つ朝)
急行の風巻きすぐる駅廊をおゆび欠けた鳩のあゆめる
おだやかな朝明けながら立つ庭に霜に凍てたるパンジーの鉢
中傷を遣るすべなきや川風に飛びにし夏の帽子のごとく
佐藤     健治             (和紙との出会い)
入社して一年経ぬに和紙を漉く土佐工場に行けとの社命
叩解の工程を経しパルプの繊維細かく別るるを顕微鏡に見る
トロロアオイの藷擂り潰し得られたる液を紙料の分散剤とす
白杉    みすき       (めぐる春)
止みまなく石蕗を打つ雨だれの音あり春のベストを編めば
豌豆に支え施しつつ夫は収穫までは生きるぞと言う
日生より車の旅をせしメダカわれに来りてふたたびの春
田坂     初代        (思い出すまま)
もし俺が戦死してたらどうするかこの一言に夢がさめたり
天下りなくばまともな国なるにしきりに思う大正生まれ
名和    みよ子       (尾張徳川家の雛飾り)
おすべらかしに結いたる雛の髪かたち皇室の婚儀に伝わるらしき
夜更けて見る窓外に忘れたる干しもの一枚月の照らせり
長谷川    令子      (春)
再びの膝の痛みに黙しおり啓蟄の光窓にあふれて
春誘う中吊り広告の揺るる下人等俯きケイタイの時
天窓より明かり差し込む庫裏広く大き竈の暗々並ぶ
増田     照美        (中欧)
家々を見下し立てばボヘミヤの森より昼の鐘の音聞こゆ
いくたびとなく洪水を凌ぎにし長き橋ゆくプラハの街に
抑圧に耐えつつ生きて人々は聖者像あまた橋に据えにき
山口     克昭       (霜焼)
アイヌびとを北海道旧土人と呼称せる法ありたりき九年前まで
凍むる夜にアイヌ女人の太き腰緩きしらべに鶴を舞いたり
雪原に鉄路絶えたるその先に知床のやま海になだれぬ
             7月号作品より              順序不同
安藤     治子
さらわれし子を嘆き舞う隅田川の母の単純を思うことあり
掲げおくのみに安らぐ夫の写真壁には既に視力届かず
坂本    登希夫 高知
空に高く放りあげる土つき苗舞いつつ落ち代田に植わる
吾が町で一人のみなる空中田植三十年来豊作つづける
後藤     蘭子
吾が歌のなきアララギを詠みかえす子らを育ててひたすらなりき
敷居にもつまずき易き日々になお主張ゆずらぬ夫をさみしむ
竹中     青吉 白浜
朝の網のチヌは夕餉のたのしみに三枚におろすと包丁をとぐ
百四歳淀みなく詠み給うきよらかさ唯々恐れ入るばかりなり
春名     一馬 美作
妻が犬曳きて往き来に凭りていし一つ石淋し寄る人のなく
主なき畑のおどろにひょろ長く白梅紅梅まかがやく
丸山     梅吉 大阪
百歳はボケめぐりくる齢なるや目的なしに家を出でくる
家内失せ吾ひとり身の二十年一筋続く文章づくり
浅井    小百合 神戸
十五年わが住みなるる町内の見知る顔なき通夜の座に着く
太陽が銀のわっかにくすむまで黄砂が覆う神戸の街を
池田    富士子 尼崎
押入れにこもりて夫は担任の児童の写真現像したりき
薬飲み凌がんほかに術のなし眩暈と折り合いながく生くべし
笠井     千枝 三重
温かきひかりの差せる池水に水すましの引く細き波形
安定剤一錠増やせと言う電話弟の声は亡き兄に似る
川中     徳昭 宮崎
牛飼いを止めて一年梱包せる飼料は厩に積みたるままに
瑞鳥と待ちたる燕此の春は牛飼い止めし厩に寄らず
並河   千津子
遠き日に夫と過ししアパートをさがすと安治川の隋道くぐる
その責をわが負いがたき孫の事は口出すまじと心に決めぬ
南部     敏子
カラフルな衣類豊かにありなるる平和を疑わず吾が少女らは
キャラコ地を喜び縫いし少女達採寸するにもはにかみありき
松内   喜代子 藤井寺
解体工事のシート張る藤井寺球場に今年の桜の白々咲きぬ
球場の毀たれ遠く見はるかす仲哀天皇の御陵の緑
原田     清美 高知
夜明け待ちトラック二台入り来る長尺物の杉丸太積み
トラックより地響きたてて降ろさるる杉の丸太に青き葉の見ゆ
安西     廣子 大阪
大山の地鶏包める竹の皮あてなきままにしばらくとり置く
白木槿花を閉じたる夕闇を熱き空気の動くともなし
大杉     愛子 美作
去年ここを巣立ちて行きし燕か軒端に二つ声の騒がし
門口に巣作りさるるは疎めども大戸を開けやる燕のため
川口     郁子
空爆の廃材で建てたるバラックに昼は一人なりき八歳の頃
夜遅き母の土産は[少女の友」飽くなく見入ったグラビヤの越地吹雪
小深田    和弘 美作
雨上がりの畑に種薯ふせてゆく靴につきたる土の重たく
黄砂降りフロントガラスにワイパーは大き扇を二つ画けり
阪下     澄子
ひと月を夫に言わず迷いいて返りくる言葉に心軽くす
わが愚痴をいつも聞きくれる友のいて心柔らぎ姑と向き合う
樋口     孝栄 京都
ユトリトの絵を見に来たる街なかに東証取引停止の号外手にす
町内の草引き済みて自然生えの南天山椒分け合い帰る

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