平成18年10月号より

 

               選者の歌

 

桑岡 孝全   大阪
星ふたつ岩波文庫の赤帯をとおきはふりにたずさえてゆく
又一日老ゆる命を生きんかなイトミミズ程の意志ふりおこし
動き回る間はいいが立ち止まると居場所がないというに頷く
祖母は土なりき以降は火に葬る習わしなればよきにはからえ
雨季明けん空のあおきにそびえたる欅のうれの三日月こよい
 
井戸 四郎   大阪
胡蝶蘭小さきくれない淡き花窓の光に咲きそろいたり
咲きならぶ淡くれないの胡蝶蘭落ちたる花をコップに浮かす
雨の夜のおぼろに見ゆるくちなしの花の香りの地を伝いくる
朝早き雨の歩道にくちなしの茶いろく萎るる花の匂いぬ
花過ぎて新芽伸びたるくちなしの黄緑の葉の日にかがやきぬ
なお暫く居れよと言われスツールに坐り直して傍近く寄る
ただ一人家のベッドに素知らぬ顔していたまうをまた哀しみぬ
 
土本 綾子   西宮
鳴子百合に押されて育ち遅るるかことしの茗荷いたく痩せたり
みずからの洩らせる言葉に支配され来たる吾かと思うことあり
井の中の蛙さながらのわが一生かえりみて悔ゆるほどにもあらず
誤解かも知れずと思い聞きおりて庇い得ざりしこと今に悔ゆ
身に叶う仕事を心掛くること大切と沁みて思うこのごろ
 
                 湧水原   (25)
 
奥嶋 和子      (ヨーロッパ五カ国)
道を行く半ばは白人にあらずして英国すでに人種の坩堝
ライン河の広き流れに橋を見ず大型貨物船数多行き来す
暮れ泥む空にくっきり浮かび立ちエッフェル塔に灯り入りたる
 
小泉 和子      (移る雲)
テニスせる音の響かう雲雀ヶ丘子は七年をここに住みたり
夫亡きあとひたすら心委ねいし娘夫婦は赴任地へ発つ
賑わしき桜のとき過ぎ山峡の緑に映ゆる古き芝居小屋
 
佐藤 健治     (塩化ビニール樹脂との出会い)
塩ビ樹脂当初はビニール風呂敷となりて知られし記憶遥けし
塩ビ樹脂を水道パイプに加工する発想を誰のものと知るなし
アセチレン塩化ビニールモノマーの化学記号を思い出し書く
 
白杉 みすき   (心房細動)
寝ることを恐るるまでに真夜中の脈の乱れの度重なりぬ
一夜さに繰り返し起くる不整脈夫には告ぐるなくして耐えぬ
ペースメーカー恃みて三年存えし兄を思えりその齢越ゆ
 
名和 みよ子   (よい一日(ドブリーデン)を)
人知れずバッグに収むる亡き夫の写真をおもう機上の席に
プラハ城を守る衛兵三人して号令高く行進をせり
今日を旅の終りとゆけばにわか雨過ぎて葡萄畑に立つ二重虹
 
長谷川 令子   (志賀島)
丘の上に海人詠む碑あり木群透き玄界灘の白く光れり
志賀の海人の塩焼く煙棚引きし世は遠くして海ぎしをゆく
潮引かば徒にて渡る沖津島森かげに小さき鳥居の赤し
 
山口  克昭    (能 登)
白山また立山鹿島槍白馬珠洲の海辺に一連の眺め
鄙のこころの一途さに秋草を筋描なせる珠洲焼きの壷
土に化し色ばかりなる人骨を縄文青年と検証す
 
 
10月号作品より   順序不同
 
山内   郁子    池田
あさあけの戸の隙間よりひかるもの庭にころがるビー玉ひとつ
夜半覚めてアウスレーゼを一人酌むラインの波を思い出でつつ
吉富 あき子   山口
帰りきて我が家はよろし風通り木々の香りも入りてくるなり
衰えのいよいよ厳しある時は何もわからぬ瞬間があり
池上  房子    河内長野
シャッターの目立つ商店街のひと所明るし学生服を窓に飾りて
雲雀の声届く窓辺にミシン踏む残れる布を使い切るべく
池田   和枝    北九州
海を背に立ちます地蔵尊の足もとに野罌粟の花の咲き明るめり
小沢  あや子      大阪
くちなしの甘き香りが風に乗り暮れなずむ空に三日月の出づ
上野   道子    堺
糠床に漬けゆく茄子の手にやさしわれの主婦業今日より再開
坂本 登希夫   高知
蚊に刺され朝の畠にとるトマトナスピーマン一人の食のもの
野崎   啓一    堺
今先のことも忘れ去る妻なれど長き絆ぞ我を忘れず
春名   一馬    美作
行きゆきて紫陽花尽くるなき一ところ古りし祠に地蔵尊在す
     康子    網走
おののき見るシベリア抑留関係展死亡名簿にホリセイハチ噫
池田  富士子   尼崎
字を覚え始むるおさな曽祖父の遺せる紙縒に短冊つるす
蛭子  充代    高知
始めての競りにて表情を固くせる嫁は木札に値を書き入れる
奥野  昭広    神戸
色あする籐の枕を取り出だすくぼみ具合になじみの増して
戸田  栄子    岸和田
亡き父が足病む吾に歩を合せ歩みし道に向日葵の咲く
森本  順子    西宮
孫娘のトランペットに吹き鳴らす六甲おろしに棺いでたつ
山田  勇信    兵庫
つゆ最中小雨降りつぐ日々なれど手術前夜の空に月あり
安井  忠子    四条畷
撫でさする足より冷たさしのびより魂離れゆくを吾の目守りぬ
藤田   操    
数年間耕されざる水田に数多の蒲の穂生い茂りたり
安西  廣子    大阪
半日の空の旅なりカプセルの如き機内に生かされている
大杉  愛子    美作
かくあれば認知症予備というテレビ吾も幾つか圏内にあり
沢田  睦子    大阪
それぞれに赤きバラ持ち投げ入れる地深く沈む君のひつぎに
津萩  千鶴子   神戸
幼き日に薬の紙もて鶴折りき白き錠剤飲みつつ思う

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