| 選者の歌 | |
| 桑岡 孝全 大阪 |
| 世に残るはらから三人おとうとも兄もあやうき病をもてる |
| 病みがちに生きて七十物食えずなる弟を兄の告げきぬ |
| 舌すこしもつれて物言いいそがしき亥の歳の兄八十四となる |
| おろおろとせる気配あり長(おさ)の兄はいまみたりめの弟うしなう |
| 末の子としておおははに傅(かしず)かれしひよわさは今に汝は終るか |
| くるしみを終うる臥所に海老なりにその身かがめて弟はあり |
| しきたりの柚子を泛かぶる冬の湯を浴みつつおもう弟は亡し |
| 井戸 四郎 大阪 |
| おもむろに衰えゆきて現には諦め果つるごとく居給う |
| 吾の手を握り言わるる一つ語の解らずICUベッドを離る |
| わが胸の底より涙にじみくる亡き先生の葬儀のすみて |
| 先生の一ケ月目の立日にて短歌実作講師辞退す |
| うつし世にもはやいまさぬ先生と夜の灯を消してひとり涙す |
| 天上より吾を見おろす励ましのさやけき声は夢にひびきぬ |
| おのずから凭るるごとく在り経たる三十五年をみじかく思う |
| 土本 綾子 西宮 |
| 厳しかりしまた優しかりし折おりを思い出づるにああ五十年 |
| もの知らずの土本さんと決められて心よろわず従いて来し |
| レイアウトも埋草も電話にてテキパキと指示され歌誌の発行続けし |
| 足早き君に従う鴫野への道に息切れしことも幾たび |
| アララギの終刊を憤り嘆きましきそれより俄に衰えたまう |
| 年賀状を省きたるのみ名簿には君の名前を残し年暮る |
| まみゆる日なき晩年のつづきいていずこにか在すごとき思いす |
| 高 槻 集 |
| 吉富 あき子 山口 |
| 老ゆるとはかくも厳しと思い知るたじろぎながら真向かいて生く |
| 己が手に今かなうことわずかなり仏前に茶飯供うるのみなり |
| 仏前に香たくことも出来ずなりぬ蝋の炎の見えずなりては |
| 浅井 小百合 神戸 |
| 意に染まぬ思い伏せたるわが顔を写すが如き夫の顔あり |
| 包丁に切るニラの香がぼんやりと曇る心を鮮やかに截つ |
| 傍らを行く吾見上げ老猫の漠然とした不安見する日 |
| 春名 久子 枚方 |
| 老いゆくはわれのみにあらず葬送の友らの中に杖つくもあり |
| 酔芙蓉花のしぼみて兄の忌に今日をきたれる人すまぬ家 |
| ルス電に言いのこしたる兄の声消しがたくして今日一周忌 |
| 3月号より 50音順 |
| 遠田 寛 大阪 |
| 年の瀬を営むビルの窓の灯り二十年前を我とわが追う |
| 裸木を透かして窓より見る空のおだやかにして年改まる |
| 年初より昼の電車に居眠りて乗り過ごしいささかの哀感 |
| 角野 千恵 神戸 |
| から松の梢のかなた浅間峯の雪は夕日にうすきくれない |
| 新蕎麦を頼みて昼を待つ店の箸紙に刷る佐久の方言 |
| 幹つたい軽々くだるゴジュウガラ我を恐れぬ一メートル前 |
| 葛原 郁子 名張 |
| 授かりし胎児の悪戯に音をあげし孫は実家に偏る食欲る |
| メロンです今欲しいのはと胎児の指令婚家より幾度もメロン運ばる |
| 小泉 和子 豊中 |
| メモしたる一日の段取重ねて見る物忘れ頻りとなりたる吾の |
| 木々渡る風音にさえ戦きてひったくりに注意と言われたる道行く |
| 麻酔覚め病室のベッドの窓遠く黄に輝ける銀杏の一木 |
| 後藤 蘭子 堺 |
| みすずかる信濃の国に入りて親し茂る箒草はつか紅葉す |
| 崖下の湯槽に足を浸す吾に媼来たりて湯加減を聞く |
| 文化の代に一茶歩みし路と伝う苔に積む枯葉踏みつつゆけり |
| 奧野 昭広 神戸 |
| 眠られず冷たき酒を飲み居ればますます冴えて秋の夜長し |
| 定年後風呂の管理は吾が担当いつか手馴れて湯加減よろし |
| 朝早くいつも請われてゴミを出す歳ます程に素直になりて |
| 奥村 広子 池田 |
| もう一度来たしと夫の言いおりし伊根の舟屋に鴎群れ飛ぶ |
| 散歩道覚えておりし二歳の孫つまずきながら我の先行く |
| 奥村 道子 弥富 |
| 吾の打つグランドゴルフの球の行方コース外れて草に隠れぬ |
| 縁側に日を受けて読書する夫に声を細めてお茶さめますよ |
| 閉ざされて久しき隣家にこのあした蘇民将来の注連の飾らる |
| 小倉 美沙子 堺 |
| 玄関のコール返答に間のありて独居の老の所作の偲ばる |
| 風邪に寝てこの心細さ夫のいて階下に立つる物音遠し |
| 岡 昭子 神戸 |
| 夜の冷えにガラス戸曇り朝毎の結露近しとカーテンを閉ず |
| うたがいと安堵の交じる健康度七十歳と表示されたる |
| 奥嶋 和子 大阪 |
| カーナビに去年と同じ指図さる記憶あやうき二人となりて |
| 隣組の四軒ほどを年内に立ち退かしめてマンションの建つ |
| 引越をするとわが家に賜いたるにおいすみれの一輪開く |
| 金田 一夫 堺 |
| 井戸中に冷やしし西瓜の嬉しかりき冷蔵庫の飲物は老の身にきつし |
| 夕映の向日葵ゆれる駅裏に和む間もなく大き日は落つ |
| 温暖と言いつつ「まねき」を書く季節今朝の冷え込みは今年一番 |
| 川口 郁子 堺 |
| 米櫃の米をそおっと掬いとり小遣いに替えいき従兄弟頭は |
| 駄菓子屋の二階に寄りたる従兄弟達ブリキの電車預けていたっけ |
| 蝶を追う幼き孫は我が畑の出揃う花芽を踏みつけてゆく |
| 小深田 和弘 美作 |
| 絶滅かと心にかかりし群雀霜の田んぼを騒ぎ飛び立つ |
| 猿狸に荒らされるなく育ちたる黒豆をもぐ一日畑に |
| 子の二人それぞれメールを送り来ぬ印度とベトナムにて新年祝うと |
| 佐藤 健治 池田 |
| 目の前を鵯の飛ぶ季節来ぬ家の回りの樫の実もとめて |
| 焦ることなしと己に言い聞かせいよいよ進む消極の性 |
| 脳細胞ピンセットにてならべかえ我が物わすれ防ぎたきもの |
| 増田 照美 神戸 |
| 木枯らしの吹きくる夕べ蟷螂は飛ぶ力失せ戸にすがりたり |
| ほがらかにその来し方を語る友しばし黙して父の死を告ぐ |
| あいともに夜の高校に学びにし友の版画の個展訪う |
| 藤田 操 堺 |
| 楽しむとは本気で取り組む事と言う荒川静香の言葉かみしむ |
| ガラス戸を拭きおれば庭で松の枝刈り整える夫が写りぬ |
| 平岡 敏江 高知 |
| 王子宮の椎の木に高く巻きつける蔦の紅葉を厨より見る |
| 銀河系は次第に遠くなりつつある不思議と聞きて星空を見上ぐ |