選 者 の 歌 |
桑岡 孝全 大阪 |
おとうとの生まれし朝を記憶せり母なるものの遠そく里程 |
心ゆくまで泣きあげしたらちねの膝の記憶のありとしもなく |
少しクツを履く子とわれを人まえに母は言いにき偏屈なりき |
たどたどしく脱ぎ着なすまで生立ちし汝(いまし)が事を思いいづる日 |
われと弟母が手縫いの足袋を貰うが習わしなりき戦時の歳旦 |
世親菩薩らつぶさに説けばなつかしき揺籃以前墓壙以後の世 |
花坂村大吉という祖にはじまる過去帖未だおとうとを載せず |
井戸 四郎 大阪 |
年々の十日戎に吉兆をあきなう家族今年来たらず |
宵早く十日戎の賑わいに党宣伝の声の聞こゆる |
朝いまだ暗きに起きて自転車に老人の配る新聞を待つ |
力なき冬の太陽かたむきてレーダーアンテナのひと時ひかる |
山茶花の過ぎてしまえば亡き人の貧しき清き命嘆きぬ |
先生の亡き年明けて石ぶみの医学栄ゆのみ心を思う |
石ぶみの左右に冬枯れの花きささげ低き曇りにさやぐことなし |
土本 綾子 西宮 |
紅葉黄葉の彩る山々安曇野はいま冬に入る前の華やぎ |
魁夷の絵さながらに秋の靄こめて山々つらなる信濃路に入る |
車椅子の友の明け暮れを偲びつつ岡谷の駅を素通りにする |
穂高川の浅瀬に立てる鷺の群ひとかたに向きて塑像のごとし |
携りこの湖岸を行きし夏きみすこやかに吾ら若くして |
かかる旅は最後ならんと思いいる時に同じことを友の言い出づ |
友ありて企てくるる小さき旅かさねていのちよみがえる思い |
高 槻 集 |
池上 房子 河内長野 |
父のうしろに寄り添う地味な縞お召つねに素顔の母なりしかな |
怠りのかく心地よく行く末を思いみる時長寿おそろし |
ポレポレはのんびりというマサイ語を唱えてゆかんわが下り坂 |
奥野 昭広 神戸 |
裏の家建替えなりてわが家に吹く北風の穏やかとなる |
新しき蛍光灯に取替えて息子夫婦の帰省を待ちぬ |
産まれ来て間のなき孫は欠伸する吾にもこんな頃のありしよ |
南部 敏子 堺 |
時忘れ選びきたれるハンカチを畳に広ぐ花柄ばかり |
徹宵のバイトの許可を乞う孫は節分の鮨を巻き明かすとぞ |
眉白く好々爺めくわがあるじ今に「天皇の軍隊」を読む |
4月号より 50音順 |
坂本 登希夫 高知 |
三十粁を自転車通学で高校了え大学は奨学金で卒業の孫よ |
正月の四日よりカゼに長く臥す九十三は彼岸を思う |
朝明けの庭のもちの木に鳴く土鳩長く病み臥す吾は苛立つ |
白杉 みすき 大阪 |
伊根港しぐれの過ぎて沖遠く横たう島に冬の虹たつ |
太陽の塔のめぐりの芝原の露をとどめて一きわ青し |
カレンダー掲げて六ヶ月先の検診予約先ず書き込みぬ |
菅原 美代 高石 |
避雷針そなうる洋館の三階建て瓦礫と化せり囲いの中に |
毀たるる古き建物の多くして高師の浜まさに変動のとき |
厚き書物座右に置きて気力あり九十六歳小川先生 |
田坂 初代 新居浜 |
時長く楽しみくれし野ボタンもいよいよ終り数える程に |
知る人の少なくなりし隣組挨拶されし大方知らず |
祇園精舎発掘現場の先生はゲートル姿でくわしき説明 |
高島 康貴 阿波 |
死ぬ時は死ぬが良しと良寛の語録の一つを思う日もあり |
歌作りに出でゆく吾を気遣う妻今日は寒いと制止して言う |
竣工後まだ日の浅き橋梁が輝き白く遠景にあり |
笠井 千枝 三重 |
願いごと吊せる木々の枝揺れてみぞれまじりの雨降り出でぬ |
虫の動きに開閉をする自動ドア客かと思い立ちゆく幾度 |
音敷川のほとりに立てる吾が手よりペンを奪いて鳶の風切る |
梶野 靖子 大阪 |
わが歌集に序歌賜りし先生のみまかりまして沈丁花咲く |
わが視力かく衰えて枠内に数字記すになずみつついる |
大寒とおもえぬ日差明るくて紅梅ほころぶ全興寺ゆく |
川田 篤子 大阪 |
虫取りに田舎を駈けしは遥かなり舗装路に蝉の抜け殻転ぶ |
神社への道の草ひく媼ひとり屈まれる背に秋の日の差す |
正月にひとりなる吾を気遣いて掛けくる電話に幼の声も |
川中 徳昭 宮崎 |
頑張ろうと記せる賀状届きたる元日に湯ぶねに命落しぬ |
若きらが神楽太鼓を打てる音腑の無き吾の腹に響きぬ |
忽那 哲 松山 |
修理終うる城はまぶしく白き壁黒き腰板十五万石 |
突然に石槌現る夕映えにこごしき岩を剥き出しにして |
樋口 孝栄 京都 |
雉鳩が槻の上枝に巣を作りさえずりやまぬ冬木を見上ぐ |
納戸より出でこし母の嫁入り箪笥に躾のかかる銘仙残りぬ |
わが結婚に「家庭憲法」作りたる式の日付の父の筆あと |
林 春子 神戸 |
夕光に染まる濯ぎ物とりこみて瞼の裏に朱ののこれる |
阪下 澄子 堺 |
冬至の日庭のレモンを湯に入れて姑も夫も心足らえり |
いつもより瞬く星の数多く新しき年の空澄みわたる |
姑の眉その日によりて描く形穏やかな日と激しく濃き日と |
沢田 睦子 大阪 |
空席の目立つ機内にやすらぎて八時間余のハワイへの旅 |
元旦の夜間診療当番の息子を送る我の車に |
上町筋灯りとぼしき新年の大阪城はくっきり浮かぶ |