平成19年6月号より

            
桑岡     孝全            大阪
壁の白冬のくもりにうきたちてわが町なみのユトリロに似る
事多き冬終るべくたまもののシンビディウムのときながき花
おおははら修二会果つるを待ちあぐねし古里の山の村の寒湿
促すもの脅かすものアイマスクせるたまさかの昼寝の夢に
弥縫して弥縫して日をしぬぎゆくついの逼迫までのみちのり
老後といういとまなきままみまかりし二人の友を未明に思う
いちはやくさえずる声す吾等よりさらに短きいのちを生きて
井戸     四郎            大阪
戻りたる寒さを言い合いガレージの重き冷たき鉄扉をひらく
昨夜よりの止まざる風に戸を出でて思わず声に身震いをする
春分の日の震災跡の墓地域に無縁の石の増えて積まれつ
朝の日に辛夷の花吹く風ぬくし道頓道卜紀功碑のまえ
眼底検査すみて異常のなき診断焦点合わぬ左眼はそのまま
散瞳剤よく効きようやく踏むペダルハンドルはまだ安定ならず
齢相応の白内障ありと暗室に長き眼底検査おわりぬ
土本     綾子            西宮
近づけば煙草の匂いする君に憧れたりき十歳のこころ
その害を知る由もなく煙草もつ指うつくしと見たり稚く
あまりにも早き死なりき哀しみは六十年を経し今もなお
わが夢にきまししあしたなりしこと訃を聞きて知りきおろそかならず
門先の沈丁花枯れて幾とせかこのごろしきりにまた欲しくなる
暖冬にゆるぶ蕾をふるわせて弥生はじめの寒き雨降る
木犀の木下に年どし萌ゆる紫蘭待ちて今朝は見る一糎の芽生え
             湧  水  原     (27)
桑岡     孝全          (平成九年四月旧事)
頭より血のりながれて道のうえ人なかにからだひらぶる妻よ
海鼠板激しく擦りて終わる音をききけり妻のたおるる知らず
運転のさなか発作にみまかれる男というわが妻を撥ねてやむ
妻を撥ねし車の下に吾と妻の自転車二つぐにゃぐにゃになる
妻を撥ね納屋をやぶれる運転者の絶命の時点を詮議するこえ
受付を経ずに救急観察室にきたれと指示す電話の次男に
今夜(こよい)ある命をまもりより悲しくきたらんものを思うなくいる
路上の血たれか浄めてくれしやとベッドの妻のつぶやく聞ゆ
裂傷縫合に剃られし髪散り砂零るる白布の上の妻に朝明く
救急搬送されきたる間に失せし靴を妻のいうかも生きて夜明けて
包帯をあたまに巻けるわが妻のかいなをとりて人なかにたつ
妻を撥ねし者の享年四十という生(しょう)ある妻とわれとあわれむ
ビルの壁がたおれかかると時におびゆ妻の視覚の後遺症なる
小泉     和子          (辛き時勢)
ひしゃげたる車体並びいし解体屋土に油のしみ残し去る
荒々しき息の下なる祖父におやつの干芋われわけたりき
六階の窓の日差しに花を置き子らの生活(たずき)の定まりゆくらし
白杉   みすき        (暖冬)
しまい湯の後を清むる窓ガラスこの冬結露の少なきを思う
冬枯れのアケボノ杉の秀から秀にうつる鳥あり一羽また二羽
七つ八つ球根を埋めて足らうらし夫は日向の椅子にまどろむ
田坂     初代        (錯覚)
母の亡く五歳よりわが手に育ちし義弟は逝きぬ七十四歳
二歳にて母亡き弟心から我を母よと慕いおりしに
弟の姉さんおるかの声聞こゆる錯覚のあり逝きて半年
西川     和子        (台北の旅)
台湾に留まる事も考えしと書きにし父を思い行く旅
戦前より存続の鉄道というに乗りて窓の眺めの何かなつかし
二十一年二月基隆のこの港より千歳丸にて帰還せし父
わが娘ものを訊く英語も北京語も通ぜざる地ぞ咄嗟に筆談
長谷川   令子        (冬日)
苔生うる桧皮の屋根にしだれたる大き桜の芽吹き未だし
実を僅か残してたてる菩提樹下の小さき灯篭マリア像残す
山間の小さき御堂色褪する五色の幕の風になびきて
増田     照美        (オーストラリア)
山頂に見上ぐる南十字星天の戸河に抱かれ光る
闇の夜の森に入りたり木の枝にポッサムの目の赤く光りぬ
見はるかす谷を覆えるユーカリの森にブルーの霞のかかる
山口     克昭        (南部)
人の味馬に勝ると高山彦九郎南部の飢饉を紀行にしるす
うすあかり納戸の隈に若かりし母の筬打ちありし記憶す
煤けたる自在鉤あり日にやけてならぶうからの顔思わしめ
            6月号作品より           50音順
藤田     政治          大阪
いちはやく黄梅とレンギョウ咲きそろう連翹の花はみな下向きに
冬ごもりの虫穴を出るという節気あたかもわが誕生日
堀        康子          網走
流氷の汚れてわずか残る岸に波の戻りて昼の雨降る
願いごと多く成し得ず終るらし心みだれし夜半もすぎたり
松浦     篤男          高松
認知症になりても哀れ事務を言う自治会に長く勤めいし君
老のみの園の若手にて自治会の明日託せるに忽ちに亡し
村松     艶子          茨木
筋力の弱る姿を子らは見て進めてくれし機能訓練にいく
音楽に合わせて手足動かせば上手下手なし心が動く
森口     文子          大阪
高々とさえずる今日のカワラヒワ繁殖のとき近づき来たり
ハジロらの群れて争うこともなく渡りを待つか広池の午後
森田   八千代         篠山
庭隅の南天の実は食いつくししや鶲のなくこえ今朝はきこえず
暖冬に植付け季の水足れるやと老いしは日向の縁にならびて
山内    郁子           池田
大奇岩の合間に砂の塔つづくカッパドキアに昇る日を待つ
地下都市よりいできて昼を仰ぎみるトルコの空のターコイズブルー
横山    季由           奈良
石の道標傾き立てる岩屋峠笹蔭を当麻へ道下る見ゆ
腰の鈴をならして下りくる人に会う二上二峰めざしゆく道に
吉富  あき子          山口
二年経てやっと慣れこし介護制度変わると言うに戸惑う日々なり
幼くて別れし姉の名前さえ思い違ゆるほどの老い様
原田     清美          高知
いちはやくツバメ来りて巣を作る吾が町はゆれる核の話に
斑惚けの姉に書かしむる委任状一字毎吾を見る顔はおだやか
春名     久子          枚方
不眠によいと子より届けるジャスミン茶香の柔かし立春の午後
弾片が足に残ると告ぐる夫若き医師きみ一瞬もだす
平野     圭子          八尾
地球節祝ぎたる午後はクラス会に集い愉しむ女学生たりし
温かき冬を小桜のまばゆきまで朝の光に咲き映ゆるなり
松内  喜代子          藤井寺
春彼岸過ぎて雪積む北の地にうつ病む友のその後を思う
いそしみし二度の勤めを解雇されて家居する夫はシュレッダーする
松野  万佐子          大阪
寺庭の水をはる鉢に枯れたりと見えつつハスは春を待つらし
外に出る口実でしたと叔母ふたり携え月々墓詣でせし
松本     安子          美作
奥山はしぐるるらしく淡き虹かかる夕べの道を戻り来
那岐山の麓の大き溜池の溢るる水に水車はまわる
森本     順子          西宮
ロータリーも商店もなき新駅は通勤時すぎ人かげまばら
新聞に載る兄の歌縁側に憩える祖父に聞かせし記憶
山口     克昭          奈良
積む雪に停電いく夜いろり火を囲むうからの話絶えけり
冬枯れの野のみ仏に供えある色あざやけきビニールの花
山田     勇信          兵庫
にび色に寒さもどれる低き空を鴉に追わるる鳶一羽あり
時刻かえ位置をかえつつ春の月夜々みちきたり木ぬれを離る
吉田  美智子          堺
こつこつと歯の音がして噛む夫と目が合いその目笑っておりぬ
明日あたり開くはずなる水仙に寒の戻りの風ふき止まず
吉年  知佐子         河内長野
流れゆく時忘れじと書きとむる日記といえど数行にして
朝刊を手に取り気づきぬ今日五日世になき夫の誕生日とは

 

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