平成20年6月号より

 

            選     

 

桑岡    孝全          大阪
術後の眼に百円均一の老眼鏡を求めてかけてまたキーを打つ
何のためと訊くこともなく術後の夜々をさす一滴の散瞳作用
陛下のお役に立たぬひ弱と軽侮さるる学童なりしより六十年
思わざる七十年をながらえて耳朶冷えながら夜をさめている
発行所主遠田寛氏のいざなうは街なかの霊園さかりのさくら
山口克昭「ふたり」の像を表紙とす陰影のごとうつむく一人
学校にはたらきしは四百八十四月社会保険庁通知しきたる
井戸     四郎          大阪
眠られぬ夜のつづきてキッチンに昨夜食べ残したる物が臭えり
明け近く眠りに落ちたる二時間に雪降りつもり空気静まる
沈丁花開きはじめの香りする夜を更けてより戸を締めに立つ
雨の日の夕べの早くしらじらと咲く沈丁花の香りひろがる
わが妻の留守のしばらく訪ね来る人の少なく所在なく居る
たまに来る郵便配達戸締まりの呼び鈴押して居住確かむ
雨の降る今朝暖かくミニ水仙の倒るるままに花をひらきぬ
土本     綾子          西宮
休眠の虫も木草も寒に耐えて強き命を養うという
暖冬の続けばやがて虫たちは機能おとろえ滅ぶかも知れず
暑さ寒さかこつまじ虫も人間も四季ある国を幸せとして
額の絵を取り替うることも怠りて時は過ぎまた春を迎うる
きょうだいの諍いを知らず育ちにき兄も弟も齢はなれて
二つ三つわれと同じき病もち兄はふるさとに卒寿を迎う
夢のなかの吾は幼に還りいて兄の操る田舟に坐る
         湧  水  原  (30)
奥嶋     和子          (カテーテル手術)
十年目に気軽にうけし検査にて見いづる夫の血管狭窄
ステントの手術に運ばれゆきし夫二時間を経てICUへ
千分の一の確率の死亡例を読みつつ再び捺印をする
退院の夫を迎えて晴るる庭にこころゆくまで灌水をする
桑岡     孝全          (覊旅歌抄)
入水(じゅすい)の幼帝なにに招福の神となるのか知らず宮居の赤く新し
教職のながきをしのばする案内受く配布資料も周到にして
武家の簡素を思う毛利邸明治天皇御寝(ぎょしん)の一室ひろくはあらず
毛利邸に今に用うる古き世の板硝子は病子規の家思わしむ
板硝子は贅にありしか毛利邸の竣工は子規居士死去の翌年
岡田公代をいやしし眼科医院あり鴨と鯉の棲む水に面して
小泉     和子          (折々に)
われになき苦を一つもつ妹が補聴器の電池取り替えている
母逝きて十三年に車椅子のタイヤすっかり空気抜けたり
勤めより冷えて帰れるわれ待ちて父は足湯をすすめくれにき
夕づきて玄関に近づく靴音を幻聴として九年過ぎたり
車窓遠く二つの川の相あいて雪解け水の飛沫あげゆく
西川     和子          (ピカソの女)
切除前に試さるるRFAに同意してわれ八人目の被験者となる
準備終え夜を迎うる病室に見舞いくださる医師団の言葉
わが意識の扉を叩く夫の声無事に終えぬと耳元に迫る
切除されし吾が腫瘍の標本に黒く見ゆるは焼灼の痕
無機質な壁を見つめて四十秒また四十秒照射のブザー
片乳のデフォルメされし半身を鏡に映せばピカソの女
長谷川   令子          ( 古(いにしえ)
彫らるるも描かるるも火と水と太陽の神ぞ信仰に生きて
アンデスの岩壁けずり縄をもて橋かけインカの道作られし
草生の中の栗原寺の塔の礎石積もる落ち葉を吹く風のあり
峠越え棚田を通る鯖街道京へ急ぎし人の面影
増田     照美          (アドリア海へ)
カルトスの台地より湧く水のなか木々の間(あわい)を鯉の行き交う
追憶の戦車二台を置く原に羊の群れて草を食むなり
攻撃にシベニクは絶えき弾痕を壁に留めて聖堂の立つ
サラエボの使うことなきスキー場地中に地雷あまた残りて
山口     克昭          (北前)
帆印に高田屋嘉兵衛を見たるらん狼煙岬の秋晴れの昼
朝靄を圧して流るる最上川静まる岸によしきり頻き啼く
アカシアのトンネル出でてあおき海窓を占めたり津軽五能線
吉年     知佐子          (母待つホームへ)
携うる昔々の写真数多ホームの母のいたくよろこぶ
若き日の写真眺むるホームの母おぼろにその日々蘇るらし
古き写真をヘルパーさんも喜びて共々に見るホームの一時
             6月号  作品より         (五十音順に順次掲載)
岡部    友泰             大阪
古びたル仏壇におく陶の仔犬   戦災の記憶とどむるひとつ
妻入院に俄か独身を吾なりに不慣れな家事にひねもす暮す
遠田       寛             大阪
一人居に逝きたる兄の整えて置きし万作の春を待つ枝
無意識にかける応答のなき電話葬りおえたる後を幾たび
角野     千恵            神戸
はこべらの根元の土を蟻一つゆっくり過(よ)ぎる今年の出会い
ひい孫はテレビのスイッチ目指すらしあやうき歩みに寄りてゆく
川中     徳昭            宮崎
吾が峡を奔りし水も混りいんゆくともなしに満つる街川
一月は出生一人死亡七人希望の見えぬ町に老い行く
葛原     郁子            名張
県内の短歌部門に携わる功績と読み上げらるる知事の御声
吾を支え下さる会員あらばこそつらつら歌会休むなく続く
許斐 眞知子            徳島
沼底に積もる落葉の揺れており微かに水の流るるらしく
手にするはワインボトルか友集う写メール見つつ思いの揺るる
佐藤     徳郎            生駒
シルバーの二人が荒草抜きし庭土現れて朝の日のさす
豪雨止みてあじさい濡るる参道は水蒸気立つ暑き日差しに
坂本  登希夫            高知
昼食なく水のみ重材料運ばされき腰椎の軟骨ひしゃげたりき
ながらえて九十四の命の花あかりま白のこぶし吾を祝ぐがに
池田  富士子            尼崎
柊は柊の形せるままにひと日止むなき雪に覆わる
曾祖母の編める揃いのベスト着てうさぎの役を双子の演ず
石村     節子            高槻
途中まで吾の描ける画の木々は今悉く若葉となりぬ
亡き友の形見となりし春蘭はうす緑の花一輪ひらく
井辺  恵美子           岡山
雪解けて霧の立ちたる杉林黒ぐろとして朝光を受く
春彼岸近く軒端の雀たち羽音立てつつ巣作るらしき
上野  美代子           大阪
壇組み雛武骨なる手に年々を飾りてくれし父思い出づ
杖の傷ふえつつありて股関節いためし日より五回目の春
馬橋     道子            明石
木の根頼み二上山の道を辿る日もありたりき三十年まえ
君子蘭の花芽を眺む雨あがる朝の砌に鉢を並べて
蛭子     充代            高知
暫くを市場はなれて居し吾は体調よき今朝長靴を履く
吹き上ぐる浜風寒き魚市場老い深む吾が身をしいたげて
奥野     昭広            神戸
改装のなりて明るき理髪店鏡の中の吾の若やぐ
届きたる満一歳の子の写真少し気取った表情見せて
中川     昌子             奈良
草引きを怠けし庭の片隅のはこべは夕餉の一品となる
ひねもすを冷たき雨の降る庭に目白の番が来て飛び交いぬ
林        春子             神戸
見はるかすビルのあわいにきれぎれの低き虹立つ雪のあしたを
向きあいて熱き茶を飲む明日より後期高齢者になるわが夫と
春名     重信             高槻
商いの店をたたみて吾が家に来たる娘の口数少なく
売り上げのさがるを嘆きつつ汝は材料の菜を背負いて帰る
樋口     孝栄            京都
四百坪の己が庭にて粘菌を究めし熊楠の木々さびれゆく
竹ペンをとがらせ小さき文字書ける粘菌ノート近々と見る
平岡     敏江            高知
地面より抜き出る大根を力こめ引くに動かず囲りを掘りぬ
庭に来る尉鶲のため向日葵の種を撒きおく日の暖かく
阪下     澄子            堺
足裏に畳のきしみ感じつつ藺草の匂う部屋内あゆむ
大腸のカメラ検査の特別食終えて夫はため息をつく
沢田     睦子            大阪
乳のみ子を片手にかかえ妹にママ逝かないでとすがりつく姪
四人姉妹われらの自慢は一たびもけんかをしたる記憶なきこと
杉野     久子            高知
老いづきし夫は蜜柑のひと山を後継者無きゆえ捨てると言えり
春休みに祖母と遍路に来しという小学生は新しき袈裟をかけおり
高見 百合子            美作
庭先に古枝をひろげる紅梅の花芽を濡らしてそばえ降りくる
馬鈴薯は箱の中にてひょろ長き芽を絡ませたり疾く植えるべし
津萩  千鶴子           神戸
蕾より花のひらくを朝毎に仰ぎし木蓮のはや散りはじむ
クロッカスは犬に踏まれしままに咲く根元に小さき蕾を持ちて

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