平成20年10月号より

 

            選     

 

桑岡    孝全          大阪
合板とラワンのヨットに太平洋をひとり渡りし青年も七十
松陰の軽んじたりし伊藤利助と聞き及びしをここに思える
話柄とせる一首作者は吉井勇と神野氏ケータイに報じ来給う
雨の日をバスの窓より見てすぐる紫陽花のうそのような大輪
緘黙という語を知りき心を病む生徒が目にたち来りし時期に
エスカレーターにて先に立つ白栲のブラウスの背の一点の汗
わが妻ら元気なる老女が六人ゆく紀泉わいわい村キャンプ場
井戸     四郎          大阪
本棚の熊野本宮牛王宝印裏は白地のままに年経る
何用のなく我が家の階段を日に幾たびか上り下りする
ペダル踏む足に力のなくなりて駅前歩道の段差に倒る
物の音なくただ照りつける昼の日に駐車違反の取締り来る
病には非ずと己に言い聞かし今朝はボトルの酸素吸引す
繰り返し実感をする我が老いの憂い少なくなりゆく日々に
胸わるく眠り叶わぬ夜もすがら再びみたび臥処起きだす
土本     綾子          西宮
ゆくりなく映像に見る七里の渡しわが幼き日の記憶を戻す
蒸気船に乳母車と共に積み込まれ長良川を下りき桑名の町へ
母と祖母の買物を乳母車に待つわれの楽しみは一つみたらし団子
湯たんぽの湯にて朝あさ洗顔をしたりき井戸端に父とならびて
書初めは父に教わりし「八紘一宇」意味も分からず書きたりし日よ
母のため縫わんと求めし布あまた果し得ぬまま今に残れり
       湧 水 原    (31)
奥嶋     和子          (東北三山)
時計草つぼみをもつにホースより水滴らせ旅に出でたつ
雨雲を突き抜くる先の青空に上弦の月しろく浮かべり
八十歳の媼が白き装束にて人を導く立石寺ボランティア
湿原に注意促す標ありてガイドの腰に熊よけの鈴
姥百合の蕾を教わる緑の手の合掌するごと天を指しいて
小泉     和子          (それから)
羊歯の葉にさやり流れる水の端に文字うすれたる皇女の歌碑あり
海靄に見さだめ難き巌流島一騎打ちありし時代はるけし
呼び寄せたる子と聞く医師の一所見齢ですから進行はおそし
暗闇に鍵解く音して一人居の若き隣人帰りたるらし
ショベルカー掘り起こしたる土の上揚羽蝶一つ春風にのる
白杉     みすき          (病み籠もる日々)
行く春の日のにおいせる濯ぎもの仰臥の胸の上にてたたむ
馴れぬ家事こなしまどろむ夫みれば病み臥す吾の焦りを覚ゆ
日曜を遠く来たりて濯ぎ干しまた来るからねと中学一年
背後より両腕に提げて我を運ぶ息子の力あらためて知る
腰痛の和らぐ今日を試歩にいづ靴がこれほど重たかりしか
長谷川     令子          (花 ・ 木 )
この寺の梅園を歩みし日のありき風寒き中夫に寄り添い
山桃の大樹となれるを仰ぎ見る陰に覚えなき校舎建ちいて
木々覆う陰にあまたの末社あり朽つる茅葺に注連はられいて
切りつめて柱とまがう街路樹の切口に緑の玉なす芽吹き
モネの絵のおもわるるかな赤く咲く雛罌粟の中をパラソルの来る
増田     照美           (長 府 ・ 萩)
海峡を隔てる街にわが進路決めし時あり四十年の過ぐ
砲口を海峡に向けて並ぶ五門上りて遊ぶ子供等のいて
ゆっくりと歩む小路のひとところ藩医の住まいの長屋門立つ
仏壇の大きく見ゆる三畳に幽囚の身の松陰を偲ぶ
山口     克昭          (時差)
縄文の誰が子忘れしポシェットの網代編より胡桃実ひとつ
同輩を葬るに誦する経をしらず「青葉しげる」歌いて送りぬ
能筆のジャガタラおふくのかすれ文字綸子の帯を請受りのこと
山水(やまみず)をサイフォン式に谷わたし棚田百余町を拓きにき
吉年     知佐子       (室町会)
冬の日々運動場はスケート場に変わりて楽しかりし忘れず
新京と日本の名づけし長春の写真を見るは儚し哀し
宣戦の十二月八日日本は勝つはずなしと父は言いにき
ライラックの並木うつくしく新京を作りし日本を許しくれぬか
          10月号  作品より         (五十音順に順次掲載)
浅井    小百合          神戸
公園の砂の窪みに吹き溜まる蝉の抜け殻落葉より軽し
いつまでを試さるる身か智恵遅れの子の両の手を引き寄せて抱く
安藤     治子            堺
吾が齢寿ぎて子の贈りくれし花いたわりて七月過ぎぬ
家の内に憂い持てるは常のことあり馴れて八十の半ばを越えつ
伊藤    千恵子         茨木
ケイタイのメールに対う人多き夜の電車に本読むおとめご
鎮痛剤飲みて出でこし炎暑のまちかく歩めるもいつまでかと思う
池上     房子            河内長野
レジ袋膝にしみじみ言う聞けば人に食わせて貰う不仕合せ
心安く行きずりの人と語り合う大阪のオバチャン吾もその一人
上野     道子            堺
心病む姑は箸とめ聞きおりきその年はじめて鳴く蝉のこえを
頑固者といわるる吾かネックレスの鎖の縺れを刻かけ解く
小沢    あや子          大阪
森の中の石に根付きて育ちたる大杉今は五百年と言う
黄昏るる瀬音にまじり石の上に鈴振る如く河鹿の鳴きぬ
大濱    日出子          池田
病室に夫がきてくれる三時間を恃みてここに日々を過ごせる
西村の姓なる古き過去帖をたずさえて病院に終る生か
森本     順子            西宮
色づける雑木林に炭焼のかま跡残る落葉積って
愛知川は幅せまくなり色づけるコナラクヌギの二次林をゆく
山田     勇信           兵庫
よく熟れしトマトなりしに夜を来て奪い行きたりあの洗い熊か
とりあえず死の影去りぬ枯れかけし盆上の松も生き返りたり
吉田    美智子          堺
百年も生きればどこか壊れるよと言いつつわが母を子は介護する
水撒きを手伝いくれしは去年のこといつしか夫の仕事となりぬ
吉年    知佐子          河内長野
青鷺の一羽がゆけば水を撒く手をとめて仰ぐ見えずなるまで
重きカバン掛けて道ゆく中学生如何なる人生が待っているのか
樋口     孝栄            京都
子らの名を書きて作りし踏み台は用のおわりて小手毬をおく
髪白くなりてレポートを課せられてひたすらに書く弥生文化を
平岡     敏江            高知
外人の多き清水寺八坂神社人力車を引く青年は英語を話す
明石大橋より見る海峡は朝焼の中に太陽昇り始めつ
藤田      操              堺
娘なりに描きし人生設計が不意に潰えぬ癌見つかりて
娘の前で堪えいし涙止めどなく頬を伝いぬ新幹線車中に
増田     照美            神戸
わが友と憩える宿に日の暮れて深き闇より海鳴り響く
沖にいる合図のごとくサーファーら靴整然と磯に並べぬ
松田     徳子            生駒
山迫る青田の畦に踏み入りて涼しき風に深呼吸せり
朝は東午後は南の雨戸閉じ暑さのさめる夕べをまちぬ
杉野     久子            高知
蜜柑山の草は長くて足をとられ夫は草刈機と共に転び落つ
葦の蔭魚を狙える鷺一羽何に怯えしや羽音たて飛ぶ
高見    百合子          美作
空家となりて五とせ荒みたる庭にひろごり射干の花咲く
「僕の顔忘れないで」と幼孫携帯画面にその顔のぞかす
津萩    千鶴子          神戸
もう間もなく退院の頃と思いしに友の訃報を受けて驚く
春のひな巣立ちし後の燕の巣に再びひなが育ちつつあり
筒川     昭子            堺       
おさな児が祖母にまつわり甘ゆるを羨しみて見る孫なき我は
子には子の生き方ありぬ母我は電子人形と遊ぶも善けん

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